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<本文から> 斉彬が明治維新前期史の大立者であることは、皆知っている。最も賢明な人物で、その賢明さは単に維新時代において第一流であっただけでなく、江戸時代二百七十余年間を通じての第一等の名君であったろうと、ほとんど全部の歴史家が言っている。維新時代に名君と言われた人々は、そのほとんど全部が補佐する賢臣がいたために名君の名を得たので、個人としてはさして偉くなかったと言われているが、斉彬は個人としてえらく、西郷隆盛や大久保利通をはじめとして維新時代に雲のごとく薩摩に輩出した英雄豪傑共は、皆直接間接に彼の薫陶によって玉成したので、彼は西郷らの主人であると共に師であったと言われている。
斉彬の賢明は少年の頃から抜群であったので、曾祖父の重豪は可愛ゆくてならず、高輪の隠居屋敷に連れて来させてはいく日も帰さず、入浴なども一緒にするほどであったという。大大名の隠居が曾孫と一緒に入浴するなど、異例中の異例だ。いかに愛していたかがわかろう。斉彬は重豪六十五の時の生まれで、重豪は八十九まで生きたから、斉彬が二十五になるまで健在だったのだ。
こんなに重豪に可愛がられて育って、自然に感化された点もあろうし、趣味の遺伝もまたあろうし、斉彬には重蒙の新しもの好みの積極進取の気性と西洋の文物にたいする濃厚な好尚があった。ただ、両者の時代が違うので、重蒙のそれは趣味的なものにとどまったが、斉彬においては、西洋の文物を取入れることは日本の自存と成長に欠くべからざる有用なものであるとの確信をともなっていた。
斉彬は世子の時代から日常生活には吝嗇と思われるくらい倹素であったが、彼が有用なものと信ずるものには、多くは西洋の品物であったが、たとえば洋書、たとえば兵器、たとえば器械・器具の類、たとえば薬品類にたいしては費用をおしまず買入れ、洋書類は洋学者らに翻訳させて読み、それによって器械類を組立てて実験したり、ものを製作してみたり、兵器の改良をしたりした。そのために、当時の有名な洋学者のほとんど全部と親しく交際していた。高野長英などは幕府のお尋ね者になっている間も彼の庇護を受けている。
斉彬のこの賢明さ、垂豪によく似た積極進取の性質、西洋の文物にたいする好みが、斉興を不安にし、調所を頂点とする老臣らを不安にした。長い間の苦労と難儀の末にやっと財政を建直すことの出来た、この人々にとつては、現在の身代にたいして最も愛着が深かったはずであり、あの苦しい時代をいやがることが最もはなはだしかったに違いない。斉興や老臣らだけでなく、家中の者の大方がそうであったはずである。
その彼らにとって、斉彬の性質や好みが重豪によく似ていることは、
「この君のご治世になったら、大隠居様の時代のようになるのではなかろうか」
と、不安であったはずだと、ぼくには思われるのだ。
斉彬は稀世の名君であったし、当主になってからの施政ぶりも立派であったし、彼によって薩藩は維新運動の中心勢力となるきっかけがつけられたし、それが成功して藩の名声が上ったし、藩出身者が多数栄達したしするので、最初から藩内のほとんど全部が斉彬を敬慕し、その襲封を望んでいたように考えられており、伝えられてもいるが、本当はそうではなかったと考えるのが合理的であろう。
ぼくは藩中の大部分は斉彬に不安の念を抱き、ごく少数の人々だけが斉彬を慕っていたに過ぎなかったろうと思っている。それはどんな人々かといえば、第一は斉彬に直接親近して、そのえらさを知っている人々、第二は直接には知らないが賢明であるとの評判を聞いている上に、道義の念によって嫡庶の分はみだるべからざるものと信じている人々。第三は青年であったろう。青年らはかつての藩の窮迫時代には幼かった上に、親が楯になって苦労を知らさないようにしたはずだから、骨身にこたえる苦労の記憶はないわけだ。また、青年は観念論の好きなものだから、斉彬の賢明の評判にあこがれ、藩の名誉などというものに心を引かれたに違いないからだ。
藩中の人心がこう両分している以上、一さわぎおこらなければならないはずであった。
斉彬の人物を不安に思う人々の望みをつないだのは、言うまでもなく、その異腹の弟久光である。 |
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