|
<本文から> 儒学は、家康が、生来の好学の性質と、太平の気風を馴致したいとの政治上の目的とによって、大いに奨励したのであるが、その奨励がああまで効果があったのは、当時の大名等によって儒学が政治学だと思われたからである。
当時の大名は、多くは出来星大名だ。無学文盲といってよい。彼等の政治のとりぶりは、主人であった人のやり方や、先輩のやり方の見様見真似であるか、自己のカンでやっているに過ぎない。
いかに彼等が無学であったかは、本多平八郎忠勝の話でわかる。林羅山が家康に召抱えられた時、平八郎は羅山に問うた。
「そなたは学者じゃということじゃが、天神様とくらべればどうじゃ」
羅山は笑って答えなかった。
そこで平八郎は家康の前に出て聞いた。
「かようかように羅山に聞きましたが、羅山は笑ってばかりいて答えてくれません。一体、どちらの方が学者でありましょうか」
家康もまた笑って答えなかったというのだ。
平八郎ほどの名将でも、学者といえば天神様だけしか思いつかなかったのだ。可愛ゆくなるほどの無学ぶりではないか。
こんな調子だから、政治を取っていても、不安でならない。なにかよるべき権威ある法則がほしいと考えたのは無理からぬことだ。
ところが、儒学は経世済民の学であるという。大名等は飛びついて、その学問をやる者を争って高禄で召しかかえたのだ。有為な若者等が争って儒学に走ったのは当然のことだ。寛永以後、大儒者が輩出して、儒学
の黄金時代が現出したのはこのためだ。
実際、儒学を政治上に活用して政治大いに行われた大名もいくつかある。尾張の義直しかり、水戸の光国しかり、熊沢蕃山を執政たらしめた備前の池田光政しかり、野中兼山を執政たらしめた土佐の山内忠義しかり、安東省奄を用いた筑後柳川藩しかり。
しかし、この儒学も実際学んでみると、そう右から左に実際政治に役立つものではなく、要するに大体の原則を示すだけのもので、この原則を現実の政治に適用するとなると、普通の儒者では駄目で、経世家的手腕をもった儒者でなければならないということがわかった。そこで、諸大名も、儒者であるからといって、最初から高禄をくれては召しかかえなくなった。学問と政治的手腕とを兼ねている人物はそういるものではない。 |
|