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          海音寺潮五郎−乱世の英雄

■儒学が政治学だと思われたから効果があった

<本文から>
 儒学は、家康が、生来の好学の性質と、太平の気風を馴致したいとの政治上の目的とによって、大いに奨励したのであるが、その奨励がああまで効果があったのは、当時の大名等によって儒学が政治学だと思われたからである。
 当時の大名は、多くは出来星大名だ。無学文盲といってよい。彼等の政治のとりぶりは、主人であった人のやり方や、先輩のやり方の見様見真似であるか、自己のカンでやっているに過ぎない。
 いかに彼等が無学であったかは、本多平八郎忠勝の話でわかる。林羅山が家康に召抱えられた時、平八郎は羅山に問うた。
 「そなたは学者じゃということじゃが、天神様とくらべればどうじゃ」
 羅山は笑って答えなかった。
 そこで平八郎は家康の前に出て聞いた。
 「かようかように羅山に聞きましたが、羅山は笑ってばかりいて答えてくれません。一体、どちらの方が学者でありましょうか」
 家康もまた笑って答えなかったというのだ。
 平八郎ほどの名将でも、学者といえば天神様だけしか思いつかなかったのだ。可愛ゆくなるほどの無学ぶりではないか。
 こんな調子だから、政治を取っていても、不安でならない。なにかよるべき権威ある法則がほしいと考えたのは無理からぬことだ。
 ところが、儒学は経世済民の学であるという。大名等は飛びついて、その学問をやる者を争って高禄で召しかかえたのだ。有為な若者等が争って儒学に走ったのは当然のことだ。寛永以後、大儒者が輩出して、儒学
の黄金時代が現出したのはこのためだ。
 実際、儒学を政治上に活用して政治大いに行われた大名もいくつかある。尾張の義直しかり、水戸の光国しかり、熊沢蕃山を執政たらしめた備前の池田光政しかり、野中兼山を執政たらしめた土佐の山内忠義しかり、安東省奄を用いた筑後柳川藩しかり。
 しかし、この儒学も実際学んでみると、そう右から左に実際政治に役立つものではなく、要するに大体の原則を示すだけのもので、この原則を現実の政治に適用するとなると、普通の儒者では駄目で、経世家的手腕をもった儒者でなければならないということがわかった。そこで、諸大名も、儒者であるからといって、最初から高禄をくれては召しかかえなくなった。学問と政治的手腕とを兼ねている人物はそういるものではない。
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■平時には戦争がわからないから「軍学」が出てきたがインチキである

<本文から>
 一体、江戸時代における諸大名の家は、万事が軍隊組織になっていて、いつ戦争がはじまっても即応出来る体制でいなければならんことになっていた。だから、平時には必要もない武士を多数抱えこんでいなければならなかったわけだが、太平の時代になると、実戦の経験ある故老は次第に死にたえ、戦争のしぶりがわからなくなった。これでは、万一の場合、不覚を取るかも知れないと皆不安だ。
 この要求に応じて出て来たものが「軍学」だ。兵器の使いよう、軍隊の編成法、陣の布きよう、駆け引き、築城法、陣地の構築法、皆教えてくれるというのだ。諸大名は争って飛びついた。青年等も争って学んだ。たしかに出世には有利な階段であった。
 この間の事情が、最もハッキリとあらわれているのは、山鹿素行の生涯だ。彼は出世欲満々たる人であったが、そのはじめは儒学を学び後に軍学に転向して、赤穂に仕えて千石食み、最後には一万石でなければどこへも仕えないといって、浪人軍学者として、世を終っている。
 ところが、この時代の軍学なるものが、実をいうと大インチキなのだ。
 日本の軍学の始祖は、小幡勘兵衛景憲で、これが、武田信玄の戦法を祖述し整理したと称して「甲州流」と名づくるものをはじめ、これに対抗して「越後流」または「謙信流」がはじまり、「甲州流」から「北条流」が出、これから「山鹿流」が出た。その外、「長沼流」というのがあり、由井正雪など甘いう男は「楠流」をはじめた。
 これらの軍学が大インチキであるという理由は、これら軍学者共はすべて甲陽軍鑑であるとか、甲越軍記であるとか、太平記であるとか、いわば小説にすぎない軍記類を材料にして戦術を構成しているからだ。実際に戦争のある時代なら、現実に使ってみれば、役に立つ法か、立たない法か、即座にわかるわけだが、実験する機会がないのだから、どんなウソを言ってもばれる気づかいはない。小才がきいて、弁舌がさわやかで、風采がよければ、大軍学者として通るわけだ。由井正雪がその好適例である。
 したがって、心ある人はまるで買わない。荻生狙彿は、今の世の兵学は全部インチキだ、「孫子」一部だけで十分だ、と、言っている。
■信玄と謙信は旧時代の英雄、信長は新時代の英雄
 信玄は大永元年(一五≡)の生れ、謙信は亭禄三年(三三〇)の生れ、信長は天文三年(一五三四)の生れ。その活動の時期を同じくしている。
 この三人は皆当時における一流中の一流の英雄共であったが、その実力は信玄と謙信が伯仲し、信長はやや劣ったのではないかと思う。
 それ故であろう。信長がこの二人を恐れることは虎のようで、決して進んでこの二人と争おうとはしなかった。あるいは結婚政策をとり、あるいは贈りものを手厚くして見苦しいくらいごきげんをとりつづけ、せっぱつまってもう施すに手がなくなってから、はじめて決裂している。しかも、信玄が三方ケ原に打って出て、徳川家康と決戦した時、信長は家康の懇請もだしがたく援兵をつかわしているが、将士をいましめて決して戦ってはならないと言っている。この時、織田勢は徳川勢の苦戦を見ながら戦わずして逃げているのである。信長が越前を平定して加賀に兵を向けた時も柴田勝家を主将として諸将をつかわしただけで、自分は行っていない。当時の信長としてはあるまじきことだ。謙信が出て来るのをおそれたからである。
 しかもなお、信長が天下とりとなり、二人に天下がとれなかったのは、どういうわけか?
 二人が互いに撃肘し合って、信長に漁夫の利を占めさせた点もあろう。信長の年が若くて、二人の死後なお生きていた点もあろう。その本国が地理的に有利であったという点もあろう。
 これらのことは、すべて無視出来ない条件ではあるが、最も大きな理由は、二人が旧時代の英雄であるのに、信長は新時代の英雄であったという点にあると思う。
 その最も端的なあらわれは、二人は非常な迷信家であるが、信長にはそんなものは毛筋ほどにもなかったことだ。
 謙信の迷信家であったことは、すでに言った。彼は戦場における武勇をおとさないために、信仰する軍神に不犯を誓い、生涯かたく守りつづけた人だ。
 信玄もこの点では同じだ。彼は享楽派だから女を禁つようなことはしないが、高野山の成慶院には、大威徳明王に謙信の調伏を祈った、彼の自筆の願文がのこっている。
 ところが、信長となると、まるでちがう。比叡山を焼討ちし、本麻寺を攻め、高野山を征伐し、高野聖数千人をとらえて一挙に殺してのけている。加持だの、祈躊だの、呪岨だの、調伏だのの力を、一切信じていないのである。彼が中世的迷妄から超脱して、著しく近世的であったことの明らかな証拠だと思う。
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■信長がキリスト教に好意を持ったのは科学知識の合理性

<本文から>
 彼がキリスト教に好意を持ったのを、この新来の宗教によって、日本に跋扈している仏教の力を殺ごうとしたのだと説くのは歴史家の常識だが、ぼくにはそうとばかりは思われない。宣教師共が宗教とともに持って来た科学知識の合理性が彼を納得させ、従ってその説く宗教にもある程度の信を抱かせたからだと思う。
 儒教にも、道教にも、仏教にも、それぞれ科学学説がある。たとえば儒教の陰陽説、道教の五行説、仏教の須弥山を中心とする地理説や地水火風の四大説等は、すべて一種の科学学説であったと見てよい。
 古代人は観念的でもあるし、経験範囲も狭かったので、これらの理論で一応満足していたが、次第に時代が進んで人間の経験範囲が広くなると、これら古代の科学学説では矛盾と撞着が多くて、納得行きかねるようになる。特に信長のように鋭い人間には、これが気になってならない。胡麻化しだらけのような気がして不満である。ところが、宣教師共の持って来た西洋の科学学説は、その点実に明快だ。地理の話をさせても、天文の話をさせても、物質の成りたちの話をさせても、一々納得が行く。
「なるほど、よくわかる。異国から来た、このノッポの和尚のいうことは、ほんとぞいの。たぶん、その宗旨もほんとじゃろうぞい」
 というので、大いに好意を見せたのではないかと思う。
 当時の宣教師がその本国におくった報告書中に、
「彼(信長)は地球儀を持って来させて、さらに種々のことについて質問し、ついに言った。余はバテレン等の答弁に満足した、バテレン等の博識は、到底、坊主共の及ぶところではない」
 とあるが、これをその証拠の一つにしてよいと思う。
 キリスト教は、かつて科学を迫害したが、それが東洋にひろがるには、シナにおいても、日本においても、科学を階梯としている。皮肉といえば皮肉だ。
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■信長の新時代人的性格は生来的なもの

<本文から>
 信長のこの新時代人的性格は、どこから来たのであろう?ぼくは、生来的なものであったように思う。彼は少年時代異風好みで、手のつけられないイタズラモノであったというが、この異風好みに一切の新時代の萌芽があったとは見られないだろうか。
 異風好みとは、平凡を忌み、陳套をきらい、旧習をきらう心だ。これは即ち保守をきらい、新奇をもとめ、進歩にひかれる心に通う。
 新時代には新時代の精神を持つ者だけが栄える。旧時代の精神の者はどんなに他にすぐれた所を持っていても、亡びざるを得ない。適者生存の理法だ。信長が天下人となり得たのは、当然のことであろう。
 歴史を流れと見ることが出来ず、現代と対立するものとしか見ない人にとっては、信長が皇室中心主義をとった意味はわからないにちがいない。
 皇室中心主義は、信長の時代には最も新しい日本統一の方法だったのだ。彼もはじめは足利将軍をかついで、それによって日本の統一をしようとしたのだが、それが時代おくれで役に立たない方法と気がついたので、皇室の方に乗りかえたのだ。この方法は当時としてはきわめて斬新だったから、彼の好みにもよく合ったわけだ。
 信長の勤王を語る場合、歴史家は彼の父信秀が皇室に献金したことをあげて、織田家には伝統的に勤王の精神があったと論ずるが、ぼくはそうは思わない。当時の皇室の衰微はひどいもので、従って京都附近の大名は皆朝廷から無心を受け、皆それぞれに献金しているのではないかと思う。織田家にかぎったことではないのである。たまたま、信長があれほどえらくなり、皇室を以て日本儀一の中心としようとし、皇居の修理をしたり、御領を定めたりしたので、先祖のこの世間並みなことまで特別なことのように考えられるのだと思う。
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■桐野の逸話

<本文から>
 彼は少年時代を極貧の中におくり、師について剣法を学ぶことが出来なかったので、最初ひとり稽古で、示現流の横木打ちと立て木打ちを習練し、後年多少の余裕が出来てから鹿児島城下薬師町の薬丸派示現流の師範薬丸某に入門し、はじめから高弟の一人を以て過せられた。
 薬師町は城下の西のはずれにあり、彼の家は、城下の東北郊青野村にある。彼は毎日城下の町々を横切って、師の家にかよった。生涯を通じて、威勢のよいこと無類であった彼の青少年時代のことであるから、その歩行ぶりはおそろしく諷爽たるものであった。肩をそびやかし、大手をふり、大道せましと闊歩して行く。
 これを面にくく思ったのが、城下の二才衆(青年武士)だ。
「あいつ郷士のくせに→人もなげな奴じゃ。一つ言わせてやろじゃごわはんか」と、甲突川にかかった西田橋の上に待ちかまえていた。
 いつもの時刻となって、桐野が来た。ノッシノッシと近づいて、
「やあ!よか天気でごわすな」
 と、あいさつして前を通りすぎようとする。
「何をこん和郎が!」
 二才衆は八方からおそいかかって引っとらえ、高いらんかんの上から、ザンブと川に投げこんだ。
 桐野は濡れ鼠になって、対岸にはい上ったが、依然として肩をそびやかして、ノッシノッシ
と薬師町の方に去った。翌日、二才衆はまた橋上に待ちかまえていた。来るか、来ないか、来るとすればどんな態度で来るか、楽しみにしていた。
 時刻になると、来た。一向かわらない態度だ。肩をいからし、大手をふって、ノッシノッシとやって来る。
「やあ、よか天気でごわすな」
 と、朗らかにあいさつして通りぬけようとする。
 また襲いかかって投げこんだが、今日も一向平気だ。ぬれ鼠となって這い上るや、ノッシノッシと行ってしまう。
 その翌日も、またその翌日も、「やあ、よか天気でごわすな」ザンブ。ぬれ鼠。ノッシノッシ。およそ五六日。二才衆は気味が悪くなった。感心もした。
「あいつ、底ン知れん男でごわすな。一ッちょ、ものを言うて見ようじゃごわはんか」
 「よかろう」
 相談が一決して、その翌日一同橋上に待ちかまえてぃて、そろって丁寧におじぎをした。
 「こん間中は失礼でごわした」
 「いやあ」
 桐野は一向平気だ。ニコニコ笑いながら答礼する。
「実は、おいどん等は、おはんの人もなげな様子を見て、癪にさわってならんので、あんな無礼を働いたわけでごわすが、おはんが一向相手になさらんので、少しへこたれていもす。一体、おはんはどういう考えで相手になられんのか、伺いとうごわす」
 桐野は大きな声で笑った。
「なかま喧嘩をしとる時じゃなかと思うからでごわすよ。日本は今大へんな秋に際会しとるそうじゃごわはんか。世界の列強が開国をせまって来て、今や日本は日本だけの日本でなく、世界の日本となったちゅうじゃごわはんか。しかも列強は互いに勢いを競い、領地を拓くことに一生懸命であるちゅうじゃごわはんか。日本人の全部が一つに団結せんければ、とても世界のこの優勝劣敗の競争場裡に立って行くことの出来ん時じゃと思いもす。そげん時に、同じ薩摩の家中の者が、屁のよな原因で角づき合い喧嘩をすッなど、わしゃつまらんと思うているのでごわすよ」
 あくまでも明るい威勢のよい態度と、朗々たる雄弁に、青年等は感心し、ひきつけられた。
「よかことを言やる。なるほど、お説の通りじゃ。どうか我々の不心得は水に流して、今後は水魚の交りを頼んもす」
「ようごわすとも。望む所でごわす」
 となり、桐野の名は一時に城下の二才衆の間に高くなったというのだ。
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■西郷の無比の誠実さを物語る話

<本文から>
 板垣退助の談話としてこんな詰も伝えられている。
 西郷が一向太政官会議にも出勤しないので、板垣が病気と思って見舞に行くと、西郷は病気ではなかったが、ひどく憂鬱げな顔をしている。
 「どうなさったのです」
 と、板垣が言うと、西郷は答えた。
「わしは近々に役目をひいて、北海道に行って百姓になろうと思うとります。今の世の中心、わしなどの言うことはまるで行われはしもはん。わしはもう精が切れました」
 板垣は容を正し、声をはげまして言った。
「これは心得んことを申される。一体、旧幕を倒して新政府を立てた中心人物は、あんたじゃありませんか。そのあんたが、そんなことを言って逃げようとなさるのは無責任でありますぞ。政府に悪いところがぁるなら、なぜこれを正すことに努力なさらんのです」
 すると、西郷は満面真赤になり、汗を流し、ガタガタふるえ出した。あの巨体だから家鳴り震動した。ポロポロと涙をこぼしながら、西郷は押し出すように言った。
「すまんことを申しもした。いかにもあんたの仰っしゃる通りでごわす。お互いしっかりやりもそ」
 この話は、西郷の無比の誠実さを物語る話であるが、同時に、彼がいかに新政府のありように不滞であったかを語るものである。
 朝廷の高官等が、かつての革命時代の難苦も、民の疾苦も、日本のおかれている危機も知らず、壮大な邸宅に住み、軽車肥馬に乗じて出入する中に、身、太政官参議でありながら、質素な邸宅に住み、薩摩紬に木綿袴をはき、一僕を従えて徒歩で太政官に通う西郷の生活態度の中には、一身を以て警世しようとの気持があったと、ぼくは思う。
 維新前、薩藩を代表して天下に周旋している時代の西郷は、決してあの素朴木強な風采ではなかった。黒縮緬の紋付羽織に仙台平の袴、白足袋という堂々たる風姿であったというのだ。
 事実、維新政府は、出来て幾年も立っていないのに、腐敗堕落の徴歴然たるものがあった。山城屋和助事件における山県有朋、尾去沢銅山事件における井上馨。旧幕の悪代官でもしないような醜怪な汚職をやり、司法当局がこれを摘発しようとするのを、政府は極力おさえつけて不問にしたのだ。
 誠実な西郷にとっては身を切られるようにつらかったろうし、火のごとき憤激を感ぜずにおられなかったろう。
 西郷が征韓論を唱えて、あれほど狂熱的になった心理は、この維新政府の腐敗に対する彼の憤激を考えないでは、解釈はつかない。
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■維新運動はその進行途上でいくつかの錯誤を犯している

<本文から>
 今日の目から見ると、維新運動はその進行途上において、いくつかの錯誤を犯している。たとえば「王政復古」だ。これは当時としては看板としては非常に有利なものであったには相違ないが、これを根本的な目的として、その実現につとめ、太政官の制度を復活したなど、大間違いであった。久しからずして、近代的の内閣制に切りかえねばならなかったのは、そのためだ。
 しかし、最も根本的なもの−世界を挙げての統一国家運動の風潮、それには立派に乗っていた。明治の時代、日本の国運が上り坂をつづけ得たのは、そのためだ。
 しかしながら、人間の営みで永遠なるものは何一つとしてない。かつては最も適合していたものも時代がかわれば不適当となる。賢明なる為政者は、世とともに推移して、これを適当なるものに切りかえて行く。今日の日本の非運は、その切りかえを忘れたためである。
 ぼくの管見を以ってすれば、第一次大戦後に世界を蔽うてデモクラシーの思潮が潜群としておこったが、あの時がその切りかえ時であった。しかるに、血迷った為政者や、軍部や、偏狭な国粋家どもは、ロマノフ王朝のあの悲惨な最後も、ドイツ皇室の没落も、他山の石とすることを知らず、時勢おくれな絶対君主制に向って薫進し、ついには国は亡滅になんなんとし、皇室をもまた危殆に瀕せしめたのだ。
 国家の盛裳存亡には、観念によって固定せられた正邪善悪などは無関係だ。適者生存の理法だけがきびしく支配するのである。
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