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          立石優−武田勝頼

■勝頼は諏訪家の当主として出発した重荷

<本文から>
 諏訪衆が武田に心底から服従しているわけではないことを、信玄自身がよく知っていた。諏訪頼重を謀殺した張本人だからだ。諏訪衆は人望の厚い典厩にこそ服従していたが、他の寄親ではどういう反応を示すか予測がつかない。典厩の嫡男・信豊はまだ十三歳の少年である。
 信玄は妙案を編み出した。人事管理の巧さもまた、かれの特質であった。
 永禄五年(一五六二)旧暦六月、十七歳の「諏訪四郎神勝頼」は高遠城の城代を命じられた。高遠はかつて諏訪一族の勢力圏であったし、伊奈口の抑えとしても重要な立地にある。
 勝頼は諏訪家の当主として高遠城主となり、諏訪衆がその主要な戦力となって従うことになった。
 血縁的にも諏訪頼重の外孫に当たる勝頼は、諏訪衆を素直に臣従させる条件を備えていた。武田姓でなく、諏訪姓を名乗っていることも、かれらの心理に好影響を及ぼした。多くの諏訪武士団が、勝頼に従って高遠に赴くのである。
 しかし武田の親類衆、宿老たちは、勝頼が「武田家を離れて、諏訪家の当主となった」という拭い難い違和感を植え付けられた。典厩が四郎に「重い荷を背負うことになるぞ」と予言したのは、まぜしくこのことであった。
 しかし勝頼にはまだ重荷の実感はない。
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■勝頼の家老二人が内務官僚タイプであった不運

<本文から>
 長坂釣閑斎は信虎、信玄と二代にわたって足軽大将を務めてきたが、信虎時代に前線の城から無断で抜け出し、臆病者と嘲笑された。天文十一年(一五四二)の高遠攻めで幸運な武功を挙げ、ようやく汚名を雪ぐ。敵将・高遠頼継の弟である高遠蓮芳軒が落馬して崖から転げ落ち、失神したところを討ち取ったのだ。まさに「棚から牡丹餅」である。したがって武将仲間の評判は芳しくなかった。勝頼の傳役であり、諏訪の郡代をした経歴もあって、近臣として付けられたのである。
 勝頼が高遠城主として一本立ちしたとき、信玄が側近(家老)として付けた跡部大炊助と長坂釣閑斎の両名とも、内務官僚タイプだった。戦は苦手なのだ。
 大炊助は事務能力にすぐれ、釣閑斎は弁舌達者で外交が得意だった。どちらか一人が戦場慣れした宿老で、武将たちに呪みが利く人物であれば、勝頼の未来はまた違った方向に拓かれたであろう。
 おそらく当初に信玄が思い描いていた次代の武田家は、武将たちの頂点に嫡男の義信が君臨し、勝頼は諏訪を治めながら統領の義信を補佐する……という構図であったに違いない。そのため勝頼には、内政と外交に向いた二人の家老を付けたのだ。
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■勝頼を嫡男の陣代とした信玄の失敗

<本文から>
 「勝頼の嫡男・信勝を、武田本家の後嗣と定める。ただし信勝が成人するまでは、勝頼を陣代とする」
と信玄は宣言したのである。つまり勝頼は、信勝元服までの「代役」ということだ。
 これで「諏訪勝頼」を当面の後嗣とする名目が立ち、うるさ型の親類衆や宿老を納得させられる、と信玄は考えたのであろう。信勝が成人する(十五歳)まで、信玄が生き永らえていれば、確かにこれも妙案であった。しかしカリスマ社長が急死した大企業で、若くてしかも「社長代理」の熔印を押された二代目が、海千山千の重役たちを抑えることは至難の業であろう。
 信玄ほどの英傑も、自分の死後、武田家の内情がどう変転するか、その予測と対策には手抜かりがあった。攻撃型で天才的な独裁者ほど、そうした傾向が強い。織田信長しかり、豊臣秀吉しかり、である。強固な組織を作り上げて長期政権につなげた徳川家康は、守備型の天才政治家といえるだろう。政策を合議する「年寄」(のちの老中)に強大な権限を付与して、将軍を含め個人の独裁を封じたのだ。
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■勝頼が家督を継いで深刻化した側近、親類衆、宿老衆との対立

<本文から>
 信玄によって「後嗣」と定められた信勝は、まだ七歳に過ぎない。信勝の父であり、武田軍の副将でもある勝頼が家督を継いだとしても、決して不自然ではなかった。にもかかわらず、親類衆や、信玄の股肱であった宿老衆の間に不満がくすぶった。
 信玄の「四臣」の一人である宿老の高坂弾正は、『甲陽軍鑑』の中で、「ご嫡子は信勝様であり、勝頼殿は副将」とくどいほど強調している。勝頼が武田宗家の家督を継ぐことの正統性如何という問題ではなく、諏訪家の血を引く側室の子で、諏訪姓まで名乗っていた勝頼に対する、潜在的なしこりが感じられる。おおかたの親族、宿老が、弾正と同じ気持ちであったろう。
 勝頼が家督を継いだことによって、また新たな摩擦が生じた。
 勝頼の側近である跡部大炊助、長坂釣閑斎と、宿老たちとの対立であった。「御代替わり」となったことで、新しい主人の側近が発言力を増すーこれはどこの大名家にも起こり得る現象である。ところが武田家臣団の内部の対立というものは、もっと根が深かった。
 武田家中で重きをなす家臣団は、譜代の家臣と、信玄によって取り立てられた家臣の二派に分けられる。跡部、長坂、甘利、秋山など武田譜代の名門出身の家臣たちには、武人もいるが、概して内務官僚が多く、主として家中の内政業務に携わってきた。一方で信玄に武功を認められ、士隊将に取り立てられた宿老たちは、浪人や軽輩出身者が多い。例えば高坂弾正は石和の農家の出であり、内藤昌豊は浪人であった。かれらは槍一筋で身を立ててきた武断派である。
 譜代と宿老の対立は、即ち文官と武官、生え抜きと成り上がり、の対立構図になるのだ。勝頼が当主の地位に就いたことで、跡部、長坂ら譜代の家臣たちが勢いを得てきた。一方、戦場を命がけで駆け巡ってきた馬場、内藤、高坂、山県らの武将たちは、「御代替わり」に便乗して幅を利かせ始めた譜代官僚たちに、強い反感を抱くのである。
 武田家内部にはもうひとつ、親類衆という勢力がある。穴山信君(梅雪)、小山田信茂、武田信豊、武田避遥軒など宗家血縁の一族である。
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■信玄が落とせなかった城をとった勝頼

<本文から>
 武田軍は高天神城に総攻撃をかけた。南の大手口を山県昌景と内藤昌豊が、「犬戻り猿戻り」と呼ばれている急坂口を駿河先方衆が、西の撼手口を穴山梅雪が攻めた。
 城兵二千は天峻を悼んでよく守ったが、まず西曲輪から崩れた。
 寄せ手の穴山梅雪は、谷を隔てて撼手を見下ろす山に鉄砲の名手数人を潜ませた。
 西口の撼手は、本間氏清、丸尾義清の兄弟が守っていた。勇猛な両将に指揮され、部下の士気も高い。
 梅雪は陽動作戦で正面攻撃をかけた一。それに応じ、陣頭に立って指揮を取る本間、丸尾の二人を、対山から狙撃手が撃ち倒した。指揮官を失った守備兵が騒いでいる間隙に乗じて、武田兵は西曲輪になだれ込んだ。
 この城は各曲輪が、それぞれ独立した砦になっている。一つ一つ攻略しなければならない。
 それでも六月十日(旧暦)、三の丸が落ち、落城は目前となった。待てど援軍は来たらず、さしもの小笠原長忠も開城を決意、降伏した。
 信玄が落とせなかった城を、勝頼は見事に攻略したのである。
 勝頼は小笠原長忠に富士郡の知行地を与え、城兵で望む者はすべて召し抱えた。この寛大さは、周辺の地侍たちを武田に靡かせることになる。武田勝頼は、後世に評されるような暴勇だけの武将ではなかったのだ。
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■側近政治の緩みと、軍費の増大、金の産出量の減少のなか戦うしかなかった勝頼

<本文から>
 側近政治の緩みと、軍費の増大、それに加えて金の産出量の減少という三重苦で、武田の財政状況も窮迫してきていた。
 幾多の内憂外患を抱えながら、勝頼はそれでもなお出陣せざるを得ない状況に立たされていた。家康に奪われた長篠城を奪回し、三河、遠江の失地を回復しなければならない事情があったのだ。このままではジリ貧状態になるだろう。
 信玄、勝頼の二代にわたって、駿河、遠江、三河の豪族、地侍、浪人たちが、数多く武田に帰属し、先方衆として軍団を膨らませてきた。駿、遠、三の支配地を失えば、かれらは行き場がなくなってしまう。武田に対する信頼が、根底から揺らいでくるのだ。それはすなわち新総帥である勝頼への信頼失墜であった。
 支配地を失い、先方衆が離反していけば、武田の直臣たちも勝頼を見限るに違いない。すべてが悪循環に陥ってしまうのである。座して待てば、武田は自壊するであろう。
 好むと好まざるとにかかわらず、勝頼は戦わざるを得なかったのだ。勝頼の人間像として伝えられているような、功名心に逸る猪武者の姿はない。
 勝頼の選択肢は二つしかなかった。戦って勝つか、信長、家康に膝を屈して降伏するか、の二つである。この二者択一を迫られた戦国の武将であれば、勝頼ならずとも戦うであろう。しかも天下に精強を謳われた武田軍団は健在なのである。
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■長篠の戦いの誤りは八時間もかけ攻撃を繰り返したこと

<本文から>
 勝頼の過誤を指摘するとすれば、なぜ八時間もかけ、十数回に及ぶ攻撃を繰り返したのか、ということであろう。敵の防御の堅さに気づいた時点で攻撃を中止し、兵力を温存しながら睨み合いに入ればよかった、という論もあるだろう。しかし持久戦になれば、補給線が伸びきった武田軍は明らかに不利になる。
 連合軍が柵内から出て攻勢をかけてくれば、武田得意の野戦に持ち込めるが、信長と家康は、そんな注文に静まるほど甘くはない。場合によっては持久戦になることを見越して、馬防柵をめぐらせていたからだ。
 結果論でいえば、長篠城の包囲を解いて撤退すべきだ、という宿老たちの意見が正しかったことになる。だが彼らとて、その後の成り行きについて、確たる見通しを持っていたわけではない。戦わずして退けば武田はジリ損になる、と見た勝頼の戦略的判断も、決して誤りだと決め付けられないのだ。
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■勝頼には謀略、裏切りが見られないが故に乱世を生き抜けなかった

<本文から>
 勝頼は心やさしい性格で、佐和の方のときもそうだったが、夫婦仲はいつも睦まじかった。勝頼のやさしさは、女性だけに向けられたものではない。
 病に臥している信濃龍運寺の和尚への見舞状に、「手が痛くて花押が押せないからへ朱印を用いた」とわざわざ追伸書きをするほど、細かい気遣いを見せている。何気ないところに、人柄は惨み出るものである。
 勝頼のこの律儀さや心配りが逆に災いし、跡部大炊助や長坂釣閑斎など小人の意見を斥けられなかったともいえるだろう。
 信玄と違って、勝頼には謀略、裏切りといった陰湿な行為はまったく見られない。だが、裏返せば巧妙な駆け引きや、人心掌握術に物足りなさが残るのだ。変幻自在の変化球を駆使した信玄と、直球一本槍の勝頼では、乱世を切り抜ける技巧の差があった。天性の「器量の差」であったかもしれない。
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■穴山梅雪の裏切りで滅亡が決定的に

<本文から>
 全戦線にわたって、武田軍の崩壊が始まっていた。
 諏訪上原城にある勝頼のもとへ、敗報相次ぐ中、二月二十七日(旧暦)、さらに驚くべき知らせが飛び込んできた。
 甲府を警備していた一隊の伝令が、「甲府の穴山屋敷にとどまっていた梅雪殿の妻子が出奔いたしました」と通報してきたのだ。梅雪夫人は信玄の二女(見性院)である。
 江尻から数十人の屈強な兵士が迎えにきて、警備兵が止めようとしたが、なにしろ不意を衝かれたため、あっという間に連れ去られたという。
 (梅雪までもが……)
 勝頼はこの瞬間に、武田の滅亡を覚悟した。江尻城の穴山梅雪が徳川方に寝返れば、もう駿河方面は支えきれない。大河の堤防が切れたようなものだ。実際にこの直後、沼津城の高坂源五郎も、城を捨てて逃亡している。
 いまや伊奈方面から織田勢が、駿河方面から徳川勢が、怒涛のようになだれ込んでくる。
 (ひと花咲かせて、潔く散ろう)
 腹を決めた勝頼は上原城を出て、新府城へ引き揚げた。堅固な新府城に立て籠り、織田勢に一矢を報いてから、見事に死のうと考えたのである。
 二月二十八日(旧暦)、勝頼は新府城に入ったが、従う兵は一千人余に減っていた。
 勝頼はただちに軍議を開いた。が、列席した顔ぶれは肌寒いほど少なかった。
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