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<本文から> 諏訪衆が武田に心底から服従しているわけではないことを、信玄自身がよく知っていた。諏訪頼重を謀殺した張本人だからだ。諏訪衆は人望の厚い典厩にこそ服従していたが、他の寄親ではどういう反応を示すか予測がつかない。典厩の嫡男・信豊はまだ十三歳の少年である。
信玄は妙案を編み出した。人事管理の巧さもまた、かれの特質であった。
永禄五年(一五六二)旧暦六月、十七歳の「諏訪四郎神勝頼」は高遠城の城代を命じられた。高遠はかつて諏訪一族の勢力圏であったし、伊奈口の抑えとしても重要な立地にある。
勝頼は諏訪家の当主として高遠城主となり、諏訪衆がその主要な戦力となって従うことになった。
血縁的にも諏訪頼重の外孫に当たる勝頼は、諏訪衆を素直に臣従させる条件を備えていた。武田姓でなく、諏訪姓を名乗っていることも、かれらの心理に好影響を及ぼした。多くの諏訪武士団が、勝頼に従って高遠に赴くのである。
しかし武田の親類衆、宿老たちは、勝頼が「武田家を離れて、諏訪家の当主となった」という拭い難い違和感を植え付けられた。典厩が四郎に「重い荷を背負うことになるぞ」と予言したのは、まぜしくこのことであった。
しかし勝頼にはまだ重荷の実感はない。 |
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