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          海音寺潮五郎-日本の名匠

■宮入昭平−名を考えず、利を追わず、一筋にいい作品をと打ちこんだ

<本文から>
  昭平は喜び勇んでとりかかった。まず地鉄おろしをし、鍛えにかかったが、雑用が多くて、専心にやれない。四五回鍛えたと思うと、どこそこへ使いに行って来いと言われる。
「こんなことでは、とうてい兄弟子たちに追いつけない。何か工夫する必要がある」
と思案して、ふと考えついたのは、地鉄のことだ。兄弟子らは玉鋼だけで地鉄おろしをしているが、昭平は虎徹が古い鉄屑を燐して地鉄にしていたことを、文献的研究で知っている。またそのころ麹町警察署の剣道教師が研究所に胃を二つ持って来て切って見せたが、その時、「地鉄のよい曽は絶対に切れない」と言ったことを覚えていた。
 そこで、古い鉄屑を集め、それを玉鋼にまぜておろした。玉鋼だけでおろしたものとは全然ちがって、やわらかくて、ねばりの強いものが出来た。
「しめた」
 兄弟子に先手を頼んではじめたところ、兄弟子は、
「こんな甘い鉄はものにならないぜ」
という。
 「大丈夫です。きっとよいものが出来ます」
と言い張ってやまなかった。
 兄弟子らは、そうまで言うならやるがよい、失敗したらあきらめもつくだろうと、手伝ってくれた。失敗にきまっていると兄弟子らは思いこんでいたが、出来上ったものを見て、皆うなった。尊敬する研師の平島が形をなおしてくれて、一層見事になった。
 この刀にはじめて昭平という銘を切った。栗原の鍛冶名が昭秀だったので、一字をもらったのである。彼は昭鬼としたかったのだが、栗原がそれは不吉であるというので昭平におちついたのである。
 これを展覧会に出すと、いきなり総裁賞になった。最優秀賞である。
 展覧会で最初の出品が総裁賞になったので、兄弟子らも一目おくようになり、栗原も大事にしてくれるようになったので、仕事は大いにしやすくなった。そのうち、兄弟子らが兵隊に取られたりなどして、昭和十五年ごろには、昭平が一番弟子になっていた。しかし、その作品は展覧会に出品するもの以外は、皆栗原の銘を切り、栗原の作品として世に出された。彼はこのことについて、こう言っている。
 「いわば下積みの仕事だったのですが、決してばからしいとか、くやしいとか思いませんでした。考えてみれば、この世界は昔からこうなんですよ。師匠や親方の陰にかくれて一生を終った人がどのくらいいたかわかりません。しかし、そういう人たちだって、銘がどうあろうと、自分の作った刀に大きな誇りと喜びとを感じて死んで行ったのです。決して無駄な一生だなんて言えませんよ」
 彼は名を考えず、利を追わず、一筋にいい作品をと打ちこんでいたわけだが、このことにも、こう言っている。
「大体、私共の仕事は、突然ぱっと目のさめるようなすばらしい結果などあらわれはしません。しかし、どんな場合にも地鉄がよくなければよい刀が出来ないことはたしかです。それで、私は地鉄をこなしては焼きを入れ、研いで見、また地鉄をつくつてみるということを、いろいろやりつづけました」
 こんな地味な行き方をしていても、実あるものは必ずあらわれる。そのころ、帝室林野局長であった三矢宮松、この人は庄内の出身で、刀剣界の大先達だ。現代の刀剣界の大御所である本間順治博士がこの道にはいったはじめは、三矢の指導によったと言われている。国文学者三夫重松博士の弟である。この人が、栗原に、
 「知人の軍刀を頼みたいが、宮入にやらせてほしい」
 と、はっきりと名ざしで頼んだのである。
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■宮入昭平−ひょいと傑作が生れるというもんじゃない

<本文から>
  これが伊予松山の高橋貞次の作とともに特賞となった。以後の展覧会にも二回、三回と特賞になった。名前も上ったが、彼にとってよろこびは、こうして出品するにつれて、技術がすっかり手に入って来たことであった。
 ものを作るものはだれでもそうだが、長くその道でやっているものには、何となく腕に覚えというものが出て来る。しかし、それはきわめて不安定なもので、時にはうまく出て来ないこともある。偶然の占める分野が広いのである。修練とは、欲するに従って自由自在に腕の覚えが出て来るようにし、偶然の占める分野をなるべく狭くし、出来るなら皆無にすることである。昭平はだんだんそうなって来たのである。
 「こういう仕事はひょいと傑作が生れるというもんじゃない。なんといっても修練の積み重ねですよ」
 と、言っている。
 三十八年に重要無形文化財に指定された。
 「年に四十万とか三十五万とか補助金がもらえるそうですから、砂鉄の自家製鋼をやりたい。今までも利根川や備前から砂鉄を送ってもらってやっていたのですが、とても自分の力ではやれませんので、現在では普通の玉鋼を使っているのですからね」
 刀には原料になる鋼の良否が最も重要であることを、彼は骨身に徹して知っている。
 「文化財に指定されてから、あっちこっち引っぱり出されるのは困ります。どうかそっとしておいて仕事をさせていただきたい」
 とも言っている。名工というものは、昔も今も、そして何わざに限らず、よく似ている。一筋に打ちこんでいるのである。
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■平清盛−苦難に満ちた貧寒な生立ちがあったはずはない

<本文から>
 さらにまた、彼の家は、前述した通り、祖父以来豪富を積み、その富を巧みに散ずることによって、白河・鳥羽の両朝に信任、寵愛され、常に日のあたるところを歩き、益々その身代を太らせているのだ。たとえ清盛がたちの悪い継母に育てられたとしても、そう貧しく、苦しい、少年時代を送ったろうとは思われない。成人の後の彼の性行から考えても、豊かで、好運に恵まれた、明るい家のおん曹司として、幸福な少年時代を送ったと見た方が自然である。彼の筆蹟をある展覧会で見たことがあるが、豊かで、ふっくらとした、気品に満ちたものであった。そんな文字を書く人に、苦難に満ちた貧寒な生立ちがあったはずはないと、ぼくは信じている。
 父忠盛が死んだ時、清盛はもう三十六になっていた。官職は安芸守であった。この上とも、彼のこれからの幸運のもととなる。
 安芸は今の広島県だが、言うまでもなく瀬戸内海中部の最要の地にあって、当時の内海交通の要衝だ。彼は家の伝統的方策によって、大いに内国交易の利を得たが、なお外国貿易にも乗り出した。当時の中国の王朝は宋である。この時代の初期に遣唐便が廃止されてすでに二世紀、中国とは公的の交際はなくなっていたが、貿易は民間で相当さかんに行なゎれ、日本社会は中国の銭を通貨として使っているほどであった。
 清盛はこの中国貿易を大いに行なった。音戸の瀬戸は彼がこの時代に開さくしたのである。物見遊山のための航路の迂回をきらったのではなく、交易・貿易業者の便をはかったのである。
 この時期にまた厳島神社を大修築している。この祭神は海上交通の神だ。これを氏の神として大いに尊崇したのは、海上交易によって家の富を益々増大しようと考えていたからであろう。
 彼はこのようにして、飛躍的に家の富を増大させたが、この富を大いに投資した。すなわち、中央の大権力者(法皇)に寺社や御殿の建造費を献呈したり、公家らに財宝を贈遺したりしたのだ。こうすることによって、彼の中央政界における地歩はかたまり、より以上に利益をしめ得る地位が得られたのだ。
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■清盛は最もやさしい心根を持ったよく出来た紳士

<本文から>
 清盛は単に暴悪でなかったというだけでなく、最もやさしい心根を持った、よく出来た紳士だったのである。
 もっとも、これほどの彼も、最晩年には、法皇を鳥羽殿に幽閉している。それは、重盛が死んだ直後、法皇が重盛の所領である越前の荘園を勝手に没収された時である。この少し前にも、これに類したことがみつたからでもあるが、清盛は大いに怒り、大軍をひきいて福原から京に上り、関白基房を尾張に、権大納言源資賢を丹波に流したのをはじめとして、法皇親近の公卿・殿上人三十九人の官爵を削り、兵をつかわして法皇の御所法住寺殿を囲み、法皇を鳥羽殿に移して幽閉し、わずかに僧一人をおつけしている。
 人臣にしてみかど方を幽閉した者は、日本ではこの時まで二例しかない。平治の乱の時の藤原信頼とこの時の清盛だけだ。信頼はつまらん男であったし、すぐ滅んでしまったので、悪く言われても大したことはなかったが、清盛は空前の大出世をした人物であり、当時の第一人者だ。それだけに悪名も高くなり、後世に至るまでこれでもかこれでもかと悪行を創作されてつけ加えられたのであろう。
 しかし、清盛にしてみれば、荘園を天皇家に勝手に処分されるようなことをいいかげんにしておいては、自分の創めた新しい政治組織が瓦解すると思ったからで、単に怒りに駆られてのことではなかったろうと、ぼくは解釈している。
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■上杉謙信の正義は旧秩序という批判に対して

<本文から>
 近頃の歴史家の中には、彼が正義と信じたことは、旧秩序にすぎなかったと言っている人があるが、こういうことの新旧はずっと後世の人が歴史をふりかえつて定めることで、現実の只中にある人にはわかりはしないのである。この戦争中に新秩序だ、旧秩序だとさかんに言われ、バスに乗りおくれるななどということばがはやったが、あれが今日どうなったか、考えてみればわかるはずである。現実の只中においては、あらゆる現象は同等の質量をもってならんでいる。そのどれが歴史の主流となるか、わからないのが普通である。
 わかるとすれば、深く歴史を学んだ上に最も高く冴えた見識の人だけである。普通の歴史家がわかるというのは思い上りである。借りものの史観などで歴史上の人物を品等しては、我欲旺盛の悪漢を時代の先覚者とする危険がある。ぼくはそんな品等にはくみしない。
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■西郷は生涯庶民の感情を失わない人

<本文から>
 西郷は生涯庶民の感情を失わない人であった。
 彼は十七人の頃から藩の地方役人となって、郡奉行の下で書役をつとめているが、農民の境遇に常に同情的で、貧しい百姓の窮迫を救ったことが一再でない。奉行に話をして、税をゆるめてもらってやったこともあり、自分の俸給をなげうって扶助したこともある。彼の家は貧しくて、彼が地方役人となったのも家計を助けるためであったので、その俸給は彼の家にとってはきわめて重要なものであったのだが、気の毒な境遇の人を見ては、彼はそれを忘れるのだ。彼が最初に島流しになったのは、罪人としてではなく、幕府の目から彼をかくすためだつたので、藩は彼に扶持をつけた。だから、彼の奄美大島での生活は豊かとまではいえずとも、不自由なく行けるはずであった。ところが、彼は鳥人の貧しい老人や病弱なものを見ると忍びない。自分の食い扶持を割いてあたえるので、彼自身は薯で飢えをしのぐよりほかはないことがよくあった。彼は大島でアイカナという娘を島での妻にしているが、そのアイカナがなげくと、
 「わしらは元気で若いのじゃ。薯を食うていてもいのちに別条はなかが、老人や病人は、そうは行かん。米を食わせてやらんとなあ」
 と言ったという。大島地方で生産する黒砂糖は薩藩の重要な財源になっていたので、藩はこれに厳重な規則を設けて、百姓らが砂糖をたがいに売買することを禁ずるのはもちろんのこと、子供らが砂糖キビをかじっても処罰し、百姓の納むべき額も過重であった。西郷は藩庁に建白して、もう少し民の気持になってもらいたいと書きおくつたり、権威をかさに着て威張りまくつている役人をこらしめたりしている。
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■西郷の庶民の感情をもったエピソード

<本文から>
 征韓論で破れて彼が鹿児島にかえってからのことだ。鹿児島市から五里ほど離れた帖佐という村で百姓一揆がおこった。県庁では事態を心配していると、西郷が来て、
 「わしが行って話をつけて上げもそ」
という。当時の県令は大山綱良、西郷とは維新志士時代からの同志だが、さすがに、
 「おはんが行って下さる?」
とおどろいた。
 「行きもそ。しかし、これは県庁の役人の仕事じゃから、軍人であるわしでは工合が悪か。県雇いの辞令を出して下され」
 といって、雇員の辞令を出してもらって出かけた。
 おそらく、西郷としては、陸軍大将である自分が一揆鎮めに行けば、討伐ということになって、百姓らに工合のわるいことになると思ったのであろう。征韓論決裂のあと彼の提出した辞表は、参議の職を免ずることだけは受理されたが、陸軍大将の職を辞することは受理されていない。名儀の上では依然たる現職の陸軍大将だったのだ。こういう筋道の立て方は現代の人にはよく理解出来ないかも知れないが、この時代の人は、神経質と思われるまでに立てたものである。
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■西郷は政治・戦争上手でないが、英雄であったことは疑うべくもない

<本文から>
 西郷の評判は生前まことにすさまじいものがあり、それは征韓論の席上で中座しようとして西郷に一喝されて以後、生涯西郷に好意をもたなかった大隈重信まで認めている。
 「西郷の評判は実にすごいものがあった。どういうわけだか知らんが」
といっている。
 庶民は、西郷のうちに自分たちの味方を感知していたのだ。
 「あの人は維新第一の功臣だ。政府で一番えらい人だ。それでありながら、自分らの味方をしてくれる人だ」
 と思っており、これがその評判になったのだとぼくは解釈している。
 この感情は、『水戸黄門漫遊記』をつくり出し、これを喝宋する庶民の感情に通うものがある。政治がうまく行っていない時、庶民は必ずこういうスーパーマンにたいするあこがれを持つものである。
 こういう西郷がどうして封建的なのか、学者というものは不思議な考え方をするものだ。思うに、論理でばかりものを考え、感情や魂でも考えることを忘れているからであろう。全身全霊をもってしない思考は、常にちんば判断に堕して、真相を逸するのである。
 西郷は政治家として優秀な素質があったとはいえない。西郷のもとめる国家や社会は理想国家であり理想社会だ。常に最善をもとめるのだ。彼のあまりにも鋭い良心がこうさせるのだ。この点でも彼の希望は庶民的だ。庶民は常に理想社会をもとめ、理想国家をもとめるのだ。ところが、政治家の心中にあるものは常に条件だ。条件を勘定に入れる以上、そのもとめるものは理想ではない。次善であり、三善だ。
 西郷は軍人として、戦さ上手であったとは言えない。政治家としては上述のような意味で失格者だ。けれども、彼が英雄であったことは疑うべくもない。しかも最も良心的で、最も誠実で、最も清廉で、最も愛情深い英雄であった。こんな英雄は、宗教的英雄以外には、東西古今に例がない。彼が哲人的英雄であるといわれるゆえんだ。江戸時代の三百年間盛行した儒教によって陶冶された最もよき意味の武士教育の産んだ、最も見事な花であると、ぼくは見ている。
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