|
<本文から>
昭平は喜び勇んでとりかかった。まず地鉄おろしをし、鍛えにかかったが、雑用が多くて、専心にやれない。四五回鍛えたと思うと、どこそこへ使いに行って来いと言われる。
「こんなことでは、とうてい兄弟子たちに追いつけない。何か工夫する必要がある」
と思案して、ふと考えついたのは、地鉄のことだ。兄弟子らは玉鋼だけで地鉄おろしをしているが、昭平は虎徹が古い鉄屑を燐して地鉄にしていたことを、文献的研究で知っている。またそのころ麹町警察署の剣道教師が研究所に胃を二つ持って来て切って見せたが、その時、「地鉄のよい曽は絶対に切れない」と言ったことを覚えていた。
そこで、古い鉄屑を集め、それを玉鋼にまぜておろした。玉鋼だけでおろしたものとは全然ちがって、やわらかくて、ねばりの強いものが出来た。
「しめた」
兄弟子に先手を頼んではじめたところ、兄弟子は、
「こんな甘い鉄はものにならないぜ」
という。
「大丈夫です。きっとよいものが出来ます」
と言い張ってやまなかった。
兄弟子らは、そうまで言うならやるがよい、失敗したらあきらめもつくだろうと、手伝ってくれた。失敗にきまっていると兄弟子らは思いこんでいたが、出来上ったものを見て、皆うなった。尊敬する研師の平島が形をなおしてくれて、一層見事になった。
この刀にはじめて昭平という銘を切った。栗原の鍛冶名が昭秀だったので、一字をもらったのである。彼は昭鬼としたかったのだが、栗原がそれは不吉であるというので昭平におちついたのである。
これを展覧会に出すと、いきなり総裁賞になった。最優秀賞である。
展覧会で最初の出品が総裁賞になったので、兄弟子らも一目おくようになり、栗原も大事にしてくれるようになったので、仕事は大いにしやすくなった。そのうち、兄弟子らが兵隊に取られたりなどして、昭和十五年ごろには、昭平が一番弟子になっていた。しかし、その作品は展覧会に出品するもの以外は、皆栗原の銘を切り、栗原の作品として世に出された。彼はこのことについて、こう言っている。
「いわば下積みの仕事だったのですが、決してばからしいとか、くやしいとか思いませんでした。考えてみれば、この世界は昔からこうなんですよ。師匠や親方の陰にかくれて一生を終った人がどのくらいいたかわかりません。しかし、そういう人たちだって、銘がどうあろうと、自分の作った刀に大きな誇りと喜びとを感じて死んで行ったのです。決して無駄な一生だなんて言えませんよ」
彼は名を考えず、利を追わず、一筋にいい作品をと打ちこんでいたわけだが、このことにも、こう言っている。
「大体、私共の仕事は、突然ぱっと目のさめるようなすばらしい結果などあらわれはしません。しかし、どんな場合にも地鉄がよくなければよい刀が出来ないことはたしかです。それで、私は地鉄をこなしては焼きを入れ、研いで見、また地鉄をつくつてみるということを、いろいろやりつづけました」
こんな地味な行き方をしていても、実あるものは必ずあらわれる。そのころ、帝室林野局長であった三矢宮松、この人は庄内の出身で、刀剣界の大先達だ。現代の刀剣界の大御所である本間順治博士がこの道にはいったはじめは、三矢の指導によったと言われている。国文学者三夫重松博士の弟である。この人が、栗原に、
「知人の軍刀を頼みたいが、宮入にやらせてほしい」
と、はっきりと名ざしで頼んだのである。 |
|