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<本文から>
筑前の太宰府で、例年の通り、元日の儀式が行われている時、博多の津から急使があって、高麗国の使者十数人が、渡来したと告げて来た。
太宰府では、早速に宮人を派したところ、高麗の国書と、高麗の宗主国である大蒙古国の国書を持参しているという。
とりあえず、国使等を迎賓館に迎え入れて、国書を受取って、中央へおくった。
国書の文面の大意は、一応おだやかなものであった。蒙古が中国の主になったことを説き、貴国は以前隋や唐と通好していたのであるから、我国とも通好してもらいたい、というにあった。
が、その末尾に、たった半行だが、容易ならない文句があった。
「兵ヲ用ウルニ至ルト、ソレイズレカ好ム所ゾ」
とあった。
「これは脅迫である。平和的文書とは見なしがたい」
と、幕府では考えた。そして、
「蒙古国とはなにものぞ」
と、疑った。
迂潤千万なことではあったが、彼等はこの数十年間の、大陸の政治的形勢の変化を知らなかった。
幕府では、調査をはじめた。
貿易商人、船乗り、修業のために渡宋したことのある坊さん、向うからこちらの寺に招聘されて来ている坊さん達について、調査した。
いろいろなことがわかった。
七、八十年位前までは、蒙古は、朔北の荒野に水草を逐うて移動していた野蛮で、貧寒な、遊牧の一部族にすぎなかったこと。
酋長鉄木真は天才的な戦術家で、この酋長の出現以来、急速に部族が強大になり、数年の間に北方諸民族を統一し、更に数年の間に、遠く西域の波斯、南方の印度諸国まで征服し、支那の中原地帯まで進出し、晩年には、成吉思汗と名乗ったこと。これは、王中の王という尊号であること。
現皇帝忽必烈は、成吉思汗から五代目であるが、血統的には孫にあたること。この五代の間に、その領土は更に拡がり、西に郡魯斯、東は朝鮮、南は中国本土の大部分に及び、かつての中国全土の主であった宋帝国は、今では、やっとこさ、南の海岸地帯六十余州を保っているにすぎないこと。
これほどの大帝国は、唐の歴史にも、天竺の歴史にも見あたらないこと。かつての、大唐帝国も、今の蒙古国にくらべれば、四分の一、五分の一にもあたらないこと。
蒙古人は、全然の野蛮人で、騎馬と殺人と姦淫と飲酒のほかの楽しみを知らないこと。信義心などまるでなく、利のためには約に違い盟いを裏切るなど、まるで平気であること。
当時の幕府の執権は、北条政村、連署は北条時宗であった。
二人は、相談の上、
「かかる無礼な書状には、返答の必要なし。使者は追いかえせ」
と、一決した。
この思い切った決議は、当然問題になった。
「蒙古の国書の無礼であることは言うまでもないが、返書は渡すべきであろう」
と、朝廷では考えて、返書の草案をして、幕府に下したが、政村と時宗とは、
「威に誇った狂気の言い分に、相手になる必要はございません」
と、言い切った。
異論は、幕府内部にも起った。
「相手は、世界最強の国だ。ほどよくあしらって、難を避けるようにすべきで、喧嘩ごしに出てはまずかろう」
しかし、二人の決意は固かった。
「あしらえる相手ではない。読みようであるが、われらにはこの国書が、単に通好を求めているものとは読めない。きかねば軍勢をくり出すと、書いてあるではないか。臣属を強いて来ているのだ。弱みを見せれば、更にのしかかってくるにきまっている。日本は小国ながら、国初以来他国に臣属したことほない。われらが時代となって、人の国の臣国となっては、先祖にも子孫にも、申訳が立たない」
と、二人は主張した。
けれども、異論はあとを絶たない。六十四の政村が、十八の時宗に執権職をゆずり、自らは連署の地位に過ったのも、弱冠ながら本家の総領である時宗を正面に立てることによって、この異論を封ずるためであった。しかし、それでも、なくならない。
最初に蒙古ノの使者が来てから、すでに六年、前後を通じて六回の使者が来、そのたびに返書もあたえず、〔太宰府から追いかえし、同時に、西国の海岸地帯には、厳重な防禦陣を張っている。
だから、一見したところでは、対策はかたく一致しているようであるが、実際には、対立は少しも解消していないのであった。 |
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