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          海音寺潮五郎−蒙古来たる(1)

■大蒙古国の国書への対応の対立

<本文から>
 筑前の太宰府で、例年の通り、元日の儀式が行われている時、博多の津から急使があって、高麗国の使者十数人が、渡来したと告げて来た。
 太宰府では、早速に宮人を派したところ、高麗の国書と、高麗の宗主国である大蒙古国の国書を持参しているという。
 とりあえず、国使等を迎賓館に迎え入れて、国書を受取って、中央へおくった。
 国書の文面の大意は、一応おだやかなものであった。蒙古が中国の主になったことを説き、貴国は以前隋や唐と通好していたのであるから、我国とも通好してもらいたい、というにあった。
 が、その末尾に、たった半行だが、容易ならない文句があった。
 「兵ヲ用ウルニ至ルト、ソレイズレカ好ム所ゾ」
 とあった。
 「これは脅迫である。平和的文書とは見なしがたい」
 と、幕府では考えた。そして、
 「蒙古国とはなにものぞ」
 と、疑った。
 迂潤千万なことではあったが、彼等はこの数十年間の、大陸の政治的形勢の変化を知らなかった。
 幕府では、調査をはじめた。
 貿易商人、船乗り、修業のために渡宋したことのある坊さん、向うからこちらの寺に招聘されて来ている坊さん達について、調査した。
 いろいろなことがわかった。
 七、八十年位前までは、蒙古は、朔北の荒野に水草を逐うて移動していた野蛮で、貧寒な、遊牧の一部族にすぎなかったこと。
 酋長鉄木真は天才的な戦術家で、この酋長の出現以来、急速に部族が強大になり、数年の間に北方諸民族を統一し、更に数年の間に、遠く西域の波斯、南方の印度諸国まで征服し、支那の中原地帯まで進出し、晩年には、成吉思汗と名乗ったこと。これは、王中の王という尊号であること。
 現皇帝忽必烈は、成吉思汗から五代目であるが、血統的には孫にあたること。この五代の間に、その領土は更に拡がり、西に郡魯斯、東は朝鮮、南は中国本土の大部分に及び、かつての中国全土の主であった宋帝国は、今では、やっとこさ、南の海岸地帯六十余州を保っているにすぎないこと。
 これほどの大帝国は、唐の歴史にも、天竺の歴史にも見あたらないこと。かつての、大唐帝国も、今の蒙古国にくらべれば、四分の一、五分の一にもあたらないこと。
 蒙古人は、全然の野蛮人で、騎馬と殺人と姦淫と飲酒のほかの楽しみを知らないこと。信義心などまるでなく、利のためには約に違い盟いを裏切るなど、まるで平気であること。
 当時の幕府の執権は、北条政村、連署は北条時宗であった。
 二人は、相談の上、
 「かかる無礼な書状には、返答の必要なし。使者は追いかえせ」
と、一決した。
 この思い切った決議は、当然問題になった。
 「蒙古の国書の無礼であることは言うまでもないが、返書は渡すべきであろう」
 と、朝廷では考えて、返書の草案をして、幕府に下したが、政村と時宗とは、
 「威に誇った狂気の言い分に、相手になる必要はございません」
 と、言い切った。
 異論は、幕府内部にも起った。
 「相手は、世界最強の国だ。ほどよくあしらって、難を避けるようにすべきで、喧嘩ごしに出てはまずかろう」
 しかし、二人の決意は固かった。
 「あしらえる相手ではない。読みようであるが、われらにはこの国書が、単に通好を求めているものとは読めない。きかねば軍勢をくり出すと、書いてあるではないか。臣属を強いて来ているのだ。弱みを見せれば、更にのしかかってくるにきまっている。日本は小国ながら、国初以来他国に臣属したことほない。われらが時代となって、人の国の臣国となっては、先祖にも子孫にも、申訳が立たない」
 と、二人は主張した。
 けれども、異論はあとを絶たない。六十四の政村が、十八の時宗に執権職をゆずり、自らは連署の地位に過ったのも、弱冠ながら本家の総領である時宗を正面に立てることによって、この異論を封ずるためであった。しかし、それでも、なくならない。
 最初に蒙古ノの使者が来てから、すでに六年、前後を通じて六回の使者が来、そのたびに返書もあたえず、〔太宰府から追いかえし、同時に、西国の海岸地帯には、厳重な防禦陣を張っている。
 だから、一見したところでは、対策はかたく一致しているようであるが、実際には、対立は少しも解消していないのであった。
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■幕府内の対立に皇位継承・貿易商人の利害がからむ

<本文から>
 幕府部内の、この対立に目をつけたのが西園寺実兼である。
 実兼の関心事は、上皇の系統に、皇位継承権をとりかえすこと以外にはない。強硬外交でも、軟弱外交でも、彼にはどちらでもよい。
 しかし、彼は、軟弱外交側と結託した。現天皇が、強硬策に全面的に協力しているからであった。
 幕府部内のこの硬軟の争いが嵩じ、硬派が敗退することになれば、必然的に天皇にも責任問題が生じ、退位ということになり、それはただちに上皇側の皇位継承権の回復となる、と、見当をつけたのであった。
 かくして対蒙古策の問題は、皇位継承権をめぐる皇室両統の暗闘とからんで、複雑な様相を呈して来ているが、さらにこれに拍車をかけるものがあった。
 九州、中国、四国地方の貿易商人共の暗躍であった。
 前に少し触れたが、当時、我が国にいた貿易商人は、日本人だけではない。支那や朝鮮の貿易業者が、居留地をつくって居住していたほどであって、これらの商人共にとって、両国の間に戦争がおこることは、貿易の利を失うことであった。
 彼等が、強硬策に反対する幕府人と公家に働きかけることによって、戦争を回避しようとしたのほ、むしろ当然のことであった。
 ここまで語れば、すでに明らかであろう。陳似道の使者と名乗って、ここに来ている、この馬のような男も、猫に似た男も、それである。陳似道は、当時、博多に居留していた支那商人の大立物であった。
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■幕蒙古対応について時宗と通有との信念の違い

<本文から>
  蒙古の意志は、この国を征服するにある。その臣隷とならざるかぎり、彼は飽かぬのだ。かかる国に対して、口頭や文書の折衝が、何の効があり、何の得る所があると、お思いか。かえって内胃を見すかされて、虎狼の心をそそるだけとは、お思いでないか」
 いつか、時宗は、微笑を捨てていた。しかし、言葉の調子は、なおおだやかであった。
 「執権殿の集められた、その情報が正しいか、正しくないかが、問題でありますな」
 嘯くような調子があった。激しさせようとつとめているような所があった。しかし、時宗は、大きな声で笑った。
 「もちろん、正しぞよ。正しい情報でなくば、正しい結論は出て来ぬからな」
 おとらぬ声で爆笑して、通有は言った。
 「蒙古に逐われて、この国に逃げて来た宋の坊主共の申上げ、おのれの利益のために宋貿易を営んでいる商人共の申上げ、これらが、その主なる情報でありましょうが、坊主共にしても、商人共にしても、宋がいとしく、蒙古が憎うござろう。その申上げは正しくござろうか」
 無遠慮で、嘲るような通有の言葉にも、時宗は動ずる色がなかった。微笑をふくんで、おっとりと受けた。
 「自信ありげに言われるぞ。そなたは、どんな情報をお持ちなのだ」
 「情報というほどのものは、拙者は持っていません。拙者の知っているのは、唯今のお公儀の御方策は、交渉の道にはずれているということ、それによって怒りを挑発された蒙古が、日本征伐のために、高麗において、一千艇の軍船を建造中であること、以上の二つにつきます。しかし、この二つは他のいかなる情報よりも重大であります。切に御勘考を願います」
 執権になって以来、時宗は、こんな調子で、人にものを言われたことがない。彼は、通有など比較にならないはどの勢力ある豪族にも、たびたび会っているが、この男ほど、彼の前で活達かつ自由にふるまう男はない。この男ほど無遠慮に、そして断乎たる調子でものを言う男はない。恐れということを知らぬかに見える。一切の権威を認めないかに見える。
 (なんという男だろう)
 時宗は、おどろいていた。面白いと思った。そのことばの内容にも、惹かれるものがあった。
 しかし、本心や感情を、そのままに見せる性質ではない。淡々とした調子できいた。
 「軍船一千捜云々のこと、たしかな話かな」
 この淡々とした調子が、通有をいらいらさせる。まだ少年といってもいい年のくせに、こうまでおさまりかえっていることはなかろうと、思うのだ。
 「もちろんです。御承知かどうか存ぜんが拙者は交易のために、唐土に持船を出していますが、その船が、このほど、向うの風聞を持って、帰って来たのです。高麗に命じて、確かに建造しています由。ために、高麗の黒山島と申す島は、千古斧を知らぬ密林に蔽われていましたのに、今や全島赤裸となっているとのこと」
 時宗は、日のあたっている庭に目を向けたまま、答えない、深い思案を追っているようであった。
 多少の手応えであった。通有は、雄弁に馬力をかけた。
 「蒙古では、これを宋の征伐に用うるためと言いふらしている由でありますが、陸続きの宋に、騎戦を得意とする蒙古が、何を苦しんで船を用いましょう。明らかに、わが国を目的としているのです」
 時宗が、こちらを向いた。微笑がかえっていた。
 「わしは、わしの取っている方策の誤っていないとの信念を、さらにかたくしたぞよ。蒙古とは、そういう国なのだ」
 通有は、腹を立てた。
 「なにを仰せられる!拙者は、蒙古の戦意を挑発したのは、はかならぬ執権殿だと申しているのですぞ!処するに方をもってすれば、災いを避けることが出来ると申しているのですぞ」
 議論はなおつづいた。通有が、激すれば激するほど、時宗は冷静に迎えて、一歩もゆずらない。
 ついに、その日は物別れとなった。
 翌日は、また同じ時刻に出かける。
 通有は、自分が使節となって行こうとまで切言したが、時宗は笑いながらはねつける。
 「使節はつかわさぬのだ。つかわさぬ使節になりたいなど、冗談は言わぬものだ」
 このようにして、七日の間、通有は執権館に通ったが、ついに説き伏せることが出来なかった。
 そのはずである。せんじつめたところ、これは、信念の争いであって、論理の争いではないのだから。
 かかる争いにおいては、論理は実に頼りない。相手方の武器にすらなってしまう。通有をして、戦争回避の手を打つのが、焦眉の急であるとの考えをおこさせた。軍船一千般建造の情報は、時宗には、さらにさらに、防戦一途の決意をかためさせたのであった。
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■戦争回避の裏での思惑

<本文から>
 「赤橋義直と西園寺中納言。妙だな」
 西園寺中納言が、上皇方第一の策士であることは、世間でも有名である。赤橋義直が腹黒い男であることほ、今日会ってみて知っている。
 この二人が、結びついていて、ただごとでおわろうとは、考えられなかった。
 上は上皇から、下は篝屋武士との問をつなぐ脈絡が考えられた。上皇−実兼−義直−篝屋武士……
 楊柳の宿の一夜が思い出された。馬に似た肥前の五郎八、猫に似た対馬の弥太六。
 実兼の線は、この二人を通じて、宋商陳似道にも連なっている。色姿さんの篠の姫には、もちろんのことだ。義直の線は、もちろん、兄の六波羅探題義宗に連なっている。
 「大陰謀だなあ」.
 と、覚えず、つぶやいた。
 通有は、なお、考える。
 陰謀とすれば、その目的はなんだろう。
 様々な身分、様々な境遇にある人々である。しかも、慾の皮は人一倍つっぱっている連中だ。
 「単一ではない」
 と、確信をもって、断定した。
 恐らく、当面の所は、戦争回避、蒙古との和親を目的としているであろうが、それは要するに手段で、その奥には、本当の目的を、それぞれに抱いているに違いない。
 まず、西園寺中納言だが、これは、上皇派に皇位継承権を奪還することによって、自らの栄達を来たそうと意図しているに相違ない。
 次ぎには、義宗・義直の兄弟。これは、時宗をたおして、自ら執権となって、幕府の権力を一手ににぎろうというのだろう。どちらが、主謀か、断定しがたいが、おそらくは、弟の義直の方であろう。あの蛇のような暗さは、ただごとでない。
 陳似道と、篠の姫は、戦争によって、貿易の中断することを恐れているのだ。
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