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<本文から> このたびの参陣、上洛で義宣はそう実感していた。目から鱗がおちたのだった。
小田原落城後、秀吉は北条氏の跡地関東を家康にあたえ、徳川の故地三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を織田信雄にあたえようとしたが、信雄がそれをこばんだために信雄を処罰して、身柄を義宣にあずけた。そして秀吉は二十万の大軍をひきいて奥州征討にむかった。
佐竹、宇都宮の軍は三成の指揮にしたがい、奥羽への道路、橋梁の整備などをおこなった。
下野宇都宮において秀吉は伊達政宗と最上義光を召して、奥羽両国の置目についてただし、
小田原の陣にしたがわなかった諸将を討伐したり、領土を没収した。政宗からとりあげた会津領は蒲生氏郷にあたえ、大崎義隆、葛西晴信の領土を木村吉清、清久父子にあたえた。
佐竹家は常優、上総、下総の諸将を説得して小田原に参陣させた功によって、(常州の旗頭)たる地位に任じられ、政宗に逐われた義宣の二弟産名義広は常陸江戸崎四万五千石をあたえられ、三弟能化丸は秀吉の指示で岩城家の家督をゆずられた。義宣は小田原参陣によって最大の利益を得たのである。数代、百年以上ものあいだ常陸、南奥州でたたかいつづけてようやく常陸半国ほどをかち得てきた領土がわずか二、三ケ月ほどのあいだに二倍の大きさになり、それは豊臣政権によって保障されたのである。
『これからは政略と知恵だ』
と義宣が言ったのはまさにこれなのだ。
領土安堵を得た佐竹家では、まず義重が妻をともなって御礼言上のために上洛し、義重の帰国と入れ替るように今度は義宣が東義久、北義意、南義種らとともに上洛し、二条柳町の屋敷に入ったのである。すると義宣は秀吉のはからいで従四位下に叙し、侍従に任ぜられ、右京大夫となり、羽柴の姓をたまわった。
「殿は運がお強いのでありましょう。世間では徳川、上杉、前田、毛利、島津、それに佐竹を(六大将)と呼んでおります。えらいご出世で」
小弥太が自分でも感心するように言った。 |
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