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          南原幹雄−名将・佐竹義宣

■小田原参陣で領土が2倍、六大将と呼ばれる

<本文から>
 このたびの参陣、上洛で義宣はそう実感していた。目から鱗がおちたのだった。
 小田原落城後、秀吉は北条氏の跡地関東を家康にあたえ、徳川の故地三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を織田信雄にあたえようとしたが、信雄がそれをこばんだために信雄を処罰して、身柄を義宣にあずけた。そして秀吉は二十万の大軍をひきいて奥州征討にむかった。
佐竹、宇都宮の軍は三成の指揮にしたがい、奥羽への道路、橋梁の整備などをおこなった。
下野宇都宮において秀吉は伊達政宗と最上義光を召して、奥羽両国の置目についてただし、
小田原の陣にしたがわなかった諸将を討伐したり、領土を没収した。政宗からとりあげた会津領は蒲生氏郷にあたえ、大崎義隆、葛西晴信の領土を木村吉清、清久父子にあたえた。
 佐竹家は常優、上総、下総の諸将を説得して小田原に参陣させた功によって、(常州の旗頭)たる地位に任じられ、政宗に逐われた義宣の二弟産名義広は常陸江戸崎四万五千石をあたえられ、三弟能化丸は秀吉の指示で岩城家の家督をゆずられた。義宣は小田原参陣によって最大の利益を得たのである。数代、百年以上ものあいだ常陸、南奥州でたたかいつづけてようやく常陸半国ほどをかち得てきた領土がわずか二、三ケ月ほどのあいだに二倍の大きさになり、それは豊臣政権によって保障されたのである。
『これからは政略と知恵だ』
と義宣が言ったのはまさにこれなのだ。
 領土安堵を得た佐竹家では、まず義重が妻をともなって御礼言上のために上洛し、義重の帰国と入れ替るように今度は義宣が東義久、北義意、南義種らとともに上洛し、二条柳町の屋敷に入ったのである。すると義宣は秀吉のはからいで従四位下に叙し、侍従に任ぜられ、右京大夫となり、羽柴の姓をたまわった。
 「殿は運がお強いのでありましょう。世間では徳川、上杉、前田、毛利、島津、それに佐竹を(六大将)と呼んでおります。えらいご出世で」
 小弥太が自分でも感心するように言った。 
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■豊臣政権では苦難を偲ぶ

<本文から>
 「まことに殿はお気の毒にござります。わが役回りなど大したことではござりません」
 「佐竹が豊臣政権の大名となってこれからの世を生きてゆくには、殿はしのばなければならぬことが沢山ある。これを乗り越えてこそ、今後の大名は生きてゆける。そのかわりお家は安泰だ。それは徳川家とておなじこと」
 義久がそう言ったとき、小弥太は昨年五月、小田原城をとりかこんだ秀吉配下の二十万の大軍の布陣を瞼に浮かべた。いかに家康が豪強といえども、関白の前ではまったく手も足もだすことができない。毛利、島津もそうであった。中央政権というのは、それはど強大な力を持っている。刃向ケものは北条のごとく、地上から露と消えねばならない。そのことを家中でもっともよく知る者が義宣なのだ。だから義宣は何事についても決断の鬼とならねばならない。三十三舘主たちを討ったり、自刃せしめたのにはこの強い決断があったからだ。
 「殿はみずから生きてゆくためにわが妻を犠牲にしたと言われましょう。人々には政治きびしさをさまでは理解いたさぬでしょうから」
 「このきびしさに耐えられぬ大名は今後は存続することさえできぬであろう。今後の路はそういう時代だ。わが殿は賢明なお方じゃ。きびしさや苦難に耐えて、佐竹の家を上みちびいていくだろう。わしでもこれはなかなか務まらぬ。小弥太もこれまで大層若紫して生きてきたようだから、殿のお気持ほよくわかるであろう」
 義久が言うと、小弥太は無言でちいさくうなずいた。
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■義宣は反徳川の態度をこころに決した

<本文から>
 義宣の決意はすでにきまっていることながら、父の心中を考えるとどうしても屈託が浮かんでくるのだ。義垂は家康とことをかまえることに反対の意向なのである。正月末、利家の家康訪問に際して、義宣が筑波の者をつかって利家暗殺の船隊を阻止したことを義盛は薄々感づいているようだ。義重は家督を義宣にゆずったときからすべての権限をあたえているので、干渉がましいことは普段口にしない父であった。しかし今さしせまっているのは佐竹家の浮沈忙かかわることなので、義重がいろいろと心配するのはむしろ当然である。
 しかも義宣が決行しょうとしていることは、義重の考えとは反対の方向にあることか、はっきりしていた。義重には長い戦国の世を戦いぬいてきた経験と知恵と勘があるので、義宣の近年の行動や考えに危うさを感じざるを得ないのである。つまり義垂は義宣が突きすすもうとしている(反徳川)の態度に賛同はしていないのだ。公平に見て、秀吉亡き後の世は、
 (家康のもの−)
 という見方を義重はしていた。秀吉からうけた恩、豊臣家への義理、三成との友誼……言うべきことはいろいろあるだろうが、秀吉の葬儀が先月無事に方広寺でとりおこなわれた今となっては、現実政治の上で豊臣家を中心に持ちだすことは無理だと見ているのであろう。太閤亡き後の世の現実をありのままに認めてゆくべきだというのが義重の考えである。幼君秀頼を天下人として推戴していくことには相当の無理がある。秀頼が成長するまでは家康、利家が左右から輔佐し、成長した暁に秀頼が天下を治めるとは言っても、現実にはいくつもの矛盾と遭遇せざるを得ない。五大老、五奉行が政治をおこなうにせよ、最大の実力者家康の意向が政治を決してゆくことは避けられない。三成を中心とする五奉行で政治をとりしきるには無理かあり過ぎる。
 それらの事情をことごとく考えた上で、義宣は(反徳川)の態度をこころに決したのである。しかし義重をはじめ、義重側近たちの旧世代はそれに反対の意をしめした。義宣は自分の政治的野望もふくめて決断したのであるが、佐竹の旧世代はそれに賛同しかねていたのだ。先月、義久を常陸にかえして説得にあたったが、その目的を達することはできなった。そして今朝、水戸から義宣にあてた義重の書状が急飛脚でとどいたのである。
 (かまえて内府殿に手出しは無用のこと……)
 という主旨の手紙である。義重は三月十一日の家康の前田家訪問を知った時点で手紙を書いた模様である。
 (困った父上だ)
 そう思いながらも義宣は自分の考えを変える気持はなかった。
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■関ケ原直前で上杉との連合が成り立たず佐竹の命運は尽きた

<本文から>
 直江は懐中から錦の袋におさめた短刀をとりだして小弥太にわたした。太閤秀吉が直江を自分の家臣に召しかかえようとして果さなかったとき、「かわりにこれを与える」と言って渡したのが天下の名刀(那智の滝〉である。正宗が那智の滝にうたれ、荒行の後に鍛えあげたためにこの名がついた。以来この宝刀は世間に知られている。小弥太は一瞬たじろいだが、
 「承りました」
 と答えて受け取った。
 「さりながら、佐竹のみにては徳川五万の大軍を追い撃ちできませぬ」
 苦衷のうちで小弥太が言葉をつづけると、
 「同感にござる。さりながら武士は君命にはあらがえぬ。佐竹様の幸運を祈る」
 そう言って、直江は面談を打ち切って立ち去った。
 小弥大空同原山麓の陣を去って氏家にもどったときは、もう昼をだいぶ過ぎていた。経緯を仔細に義宣につたえると、
 「ううむ、好機は去った…」
 と言って天をあおぎ、その場に立ちつくした。
 「殿、いかがいたしましょうか」
 小弥太が訊くと
 「景勝公としたことが……。今は大場を占めるよりも、急場が先行いたす。最上領をうばうことも大切だが、目下は徳川を追うべきであろう」
 義宣は慨嘆した。
 上杉領は会津と置賜、庄内と佐渡の三つにまたがって分立しており、これをむすぶには最上領が必要であった。景勝は直江の進言をしりぞけ、あえて佐竹と違約をしても最上領を取りにいったのだ。
 「会津を捨てても江戸城をうばうべきと思いますが」
 小弥太ほそう言ったが、景勝はこの東西の戦いが長期戦におよぶと考えて大場をとりにいったのである。
 「惜しむべし。佐竹の戦はこれで終った。もう徳川五万の大軍とわたり合う策は佐竹にはない」
 名刀(那智の滝)をあらためることもなく、義宣は呆然となったままであった。
 「殿、いかがいたしまする」
 小弥太がうながした。
 「今となっては、佐竹を生きながらえさせることがもっとも肝心だ。源氏嫡流の血筋を絶ってはならぬ」
 佐竹にとっても急転直下の作戦変更である。徳川軍との大合戦は夢におぁった。上杉との連繋なくしては、徳川陣営との戦いは不可能である。
 「左様でござりまする」
 小弥太も同感であった。
 「心配いたすな、小弥太。佐竹はこれまで、表だっては一度も内府に敵対いたしておらぬ。このたびも内府の会津討伐の軍令をうけて、仙道口に出陣いたしておる。赤館に九千の軍が今も出兵しておる。この難局を何とかしのぎ抜くことはできよう」
 義宣は自身に鞭打つように言った。このようなときのために、義宣は今までぎりぎりの二面作戦をつづけてきたのだ。
 「何とかいたすことはできましょう」
 小弥太も言葉を合わせた。
 関東百万石の夢はついえたが、ぎりぎりの一線は死守することができると義宣は信じた。佐竹は徳川の軍令にそむくことはなかったが、裏で上杉、有田と通じ合っていたことは家康の十分察するところであろう。
 「むつかしいが、何とかいたさねばならぬ」
 懸命に義宣は自分をふるいたたせた。
 「上杉と戦うことになりますか。赤館の軍をいかがいたします」
 小弥太が訊ねた。
 「上杉と戦ってどこに佐竹の義があろう。赤館の兵は一兵たりともうごかさぬ。軍令はうけても出撃いたさぬ」
 義宣は決然と言った。
 「義なくして、佐竹の生きる道はありません」
 「五十五万石をけずられても結構だ。半分にされようともかまわぬ。佐竹の血筋がのこればそれでよい」
 義宣はぎりぎりの覚悟を言葉にした。佐竹の運命はこの一目で激変したのだ。そこまでの覚悟をしなければ佐竹の存続はなかった。徳川軍の大旋回と上杉の最上作戦によって、佐竹も作嘲の変更を余儀なくされた。
 (佐竹の賭けは敗れた)
 とは義宣は言わなかった。勝つも負けるも、それは武家の運命であり、結果論だ。義をとおし、関東百万石を夢見た義宣の賭けは間違ってはいなかった。あとは佐竹生きのこりを画すばかりだ。これも至難の道ではあるが、なんとか実現しなければならなかった。これを果せば、義宣は人生に悔いはなかった。
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■秋田、仙北二十万石にうつる

<本文から>
 義宣はじめ家臣一同が待ちかねていた家康の御判物が義宣にあたえられたのは七月二十七日のことだった。これとほぼ同時期に和田昭為は秋田におもむき、秋田土崎城を受け取った。これで秋田、仙北二十万石は佐竹の領地となったのである。義垂は常陸太田城をでて、義宣より先に秋田に入った。
 「おふじ、又くる。参勤で伏見にくるのは水戸も秋田もおなじだ。待っていてくれ」
 最後の一夜を茶屋ですごして、義宣は伏見から秋田へ旅立った。義宣このとき三十三歳である。そのとき義宣にしたがった家臣は、一門と譜代九十三騎にかぎられたが、その後義宣をしたって秋田へおもむく家臣の数はふえるばかりだった。
 秋田にうつった義宣は翌年、秋田郡久保田に新城をきずき、あらたな時代の藩政にとりくんでいった。当初、財政は苦しかったが、領内に秋田杉の美林がひろがり、さらに奥羽最大の金銀山が多く、義宣を慕ってきた八清衆のはたらきで、藩財政は持ちこたえられた。
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