その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          海音寺潮五郎-九州戦国志

■宗茂は個人的武勇にも兵をひきいての戦さにも天才的

<本文から>
 織田信長、豊臣秀吉の時代、日本には英雄豪傑が雲のように出た。人の興亡盛衰が定まりなく、実力ある者なら、努力と道次第でいくらでも伸びられる時代であったからであろう、この時代にはいつも煮えたぎっているような英気満腹の人が多かった。皆それぞれに面白いが、ぼくの見るかぎりでは立花宗茂が最も見事なようだ。
 豊臣秀吉が、ある時、諸大名列座の席で、
 「天下に豪勇の士は多いが、おれの見るところでは、東では本多忠勝、西では立花宗茂を無双とする。日本武士の双璧だ」
といったと伝えられる。秀吉という人はほめ上手で、やたら「日本一」とか「天下一」とか言って人をおだてた人だが、宗茂と忠勝にたいするこの褒辞は誇張ではないようだ。忠勝のことはしばらくおいて、宗茂という人は個人的武勇にもすぐれており、兵をひきいての戦さにも天才的といってもよいほどの巧妙さがある。 
▲UP

■領民に慕われた

<本文から>
 「兵糧米も奉ります。わたくし共の家にある米はのこらず差上げます。御糧米にも御不自由はおかけせぬ決心でございます。城をあけわたし給うことは、思いとどまって下さりませ。わたくし共決して殿様をお城からお出しはしませぬ」
 庄屋なかまでも口ききとゆるされた男なのだろうか、よどみなく滑々と述べ立てると、他の庄屋や後陣の百姓等まで、
 「そうでござる! そうでござる!お出しはしませぬ」
 と、同音に呼ばわった。
 馬上に開いていて、宗茂は胸がせまって来た。むごいことをするのは天性きらいだが、とくべつ領民を愛撫した覚えはない。むしろ、朝鮮役やこんどの軍役のために、心ならずも無理なとり立てさえしている。それをこうまで慕ってくれるとは、ありがたい志であると思った。
 馬を下りて、人々の前に出た。
 「その方共の申してくれること、うれしく聞いた。格別、情もかけなんだわしを、それほどまでに慕ってくれる志は、しんぞうれしく思う。しかしながら、わしが意地を捨てずに城にこもって戦っては、領内一統は戦場となり、それほどまでわしを慕ってくれるその方共が不幸におちいることは明らかだ。まことに申訳ないことになる。わしの立去ったあと、誰が当地の領主となるかわからぬが、領主というものは、いずれも似たりよったりなものだ。これまでと少しも変りはないであろう故、少しも案ずることはない。聞き分けて、道をひらいてくれ。時刻がおくれては、わしの来るのを待っている肥後守殿に心配をかけることになる」
 百姓等は声を上げて泣いたが、なお道をひらこうとはしなかつた。
 宗茂もまぶたの濡れて来るのを感じながら、さらに言った。
 「さあ、道をひらけ。慕ってくれる志はありがたいが、それではかえってわしのためにならぬ。公儀のお疑いを深めることになるのだ。道をひらいて、早々に家にかえるよう」
 それで、皆、泣く泣く道をひらいたが、帰ろうとはしない。宗茂一行のあとから、ぞろぞろと、どこまでもついて来るのであった。
▲UP

■島津征伐−友への義理をふみにじってまで身の安全を得ようとしない

<本文から>
 宗茂が肥後に来て間もなく、島津征伐のことを家康から通達して来た。黒田加水と加藤清正とに九州の諸大名を部署して征伐せよというのである。二人は相談して計画を立てたが、ある日、清正は自ら高瀬に来て、
 「しかじかのわけで、不日に薩摩征伐に取りかかることになっていますが、いかがでござろう、貴殿もお慰みがてら同道いたされぬか。軍勢には、ここにあり合う御家来衆もあり、国許に使いを立てて旧御家来衆をお召しになれば、御譜代衆のと、喜んで馳せ参じてまいられましょうから、御不自由はないと存ずる。しかしながら、いかに譜代衆と申しても、立てた手柄に褒美がなくては励みがつきますまいから、それにはわれらが玉名一部を進上いたしましょう故、手柄に応じてあてがわれたい。いかが」
 と、説いた。
 当時、清正は使者を上洛させて宗茂の赦免を家康に乞うていたのだが、宗茂が薩摩征伐に出て勲功を立てれば、身柄の安全はいうまでもなく、本領も返してもらえるかも知れないし、それがはずれても、これを機に宗茂ほどの武将を自分の家来に出来ると計算を立てたのであった。
 宗茂には、清正のこの胸のうちは見通しだ。笑って答えた。
「折角のおすすめではござるが、それは出来ぬことでござる。そのわけは、拙者は島津と日頃から親しく交際しています上に、この度は戦さ敗れて上方から帰国するにあたって、同道いたし、互いに手を組んで、内府様へ加担の方々と戦おうとかたく約束いたしたのでござる。唯今こうした境涯におちたればとて、これを敵として戦うのは、心に恥じぬわけにまいりませぬ。少しでも内府様に忠節ぶりをお見せした方がためになるとお考えあっての御芳情よりのおすすめであろうと、ありがたく存じますが、友への義理をふみにじってまで身の安全を得ようとは、拙者はゆめにも思いませぬ。また、玉名一郡を知行させるとの仰せでござるが、これが公儀から賜わるのであるなら格別のこと、貴殿より賜わるのでありますなら、一部はおろか、肥後一国を賜わりましょうとも、お受けは出来ませぬな。ま、御芳志だけをお受けしておきましょう」
 笑いながらのことばであったが、意味はきびしい。清正は憮然として立去った。
▲UP

■将軍・秀忠の話相手から十一万石余の大名に

<本文から>
 摂津の不安は絶頂に達した。
「しばらく!」
 と、さけんだ。
 大炊の表情が少しかわった。しかし声はおだやかに言った。
「なんだな、徳川家の老中土井大炊頭のくれるものはもらえぬとでも申すのかな」
 摂津は狼狽した。
「決して、決して、さようなことはございませぬ。ありがたく頂戴いたしますが、この度のことには、主人宗茂儀は毛頭関係なきことでございます。手前一人の喧嘩でございます。宗茂様はかつての罪を恐れかしこみ、唯今では剃髪入道しているのでございます。この儀をしかとお聞き分け下さいますよう。平に、平に、平に、お願い申し上げます。このたまものは、ありがたく、ありがたく、感泣して拝受いたします」
 というと、胸がせまり、声をしのんで泣き伏した。大炊頭と青山修理亮は顔を見合わせた。二人の目には涙があった。
 大炊頭は摂津を見て言った。
「わかっている。わかっている。ようわかっている。案ずることはないぞ」 摂津は鄭重に町奉行役宅を送り出された。宝禅寺にかえつて報告した。
 「そうか、そちがかえらんので、どうしたことかと案じていたのだが、そんなことがあったのか。よくぞやった。さすがにおれが家人じゃ。うれしいぞ。あっぱれであった。おれもほめてとらせる」
 といい、また、
 「ふん、徳川家ではかねてからおれに目をつけて調べていたのだな。しかし、もうおれを憎んではいないというのだな。もっとも、憎まれるはどの力は、もうおれにはないがの」
 といって、呵々と笑った。さすがにうれしげであった。朋輩等がよろこんだことは言うまでもない。
 この事件はこれだけでは済まなかった。数日の後、年が明けて、慶長九年となった正月三日に、にわかに幕府は、将軍世子秀忠の命をもって、宗茂を召し、拝謁を仰せつけ、封五千石、相伴衆に任じた。話相手である。宗茂も今は家臣等の苦労に気がついている。ありがたく受けた。
 翌々年のまた正月三日には、奥州棚倉一万石に封ぜられた。
 さらに十四年の後、元和六年(一六二〇)八月、宗茂の旧領柳川の領主であった田中息政が殺して嗣子なくして田中家が潰れたが、その年の冬、十一月二十七日、幕府は宗茂を封じ、山門郡ほか四郡十一万石余をあたえた。宗茂はこの時五十二歳であった。慶長五年冬、三十二歳にしてここを去ってから二十年目であった。
▲UP

メニューへ


トップページへ