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<本文から> 松陰は小田村を玄瑞と久保がサポートして、桧下村塾を継続してくれるよう願っていたようだ。
しかし第一の後継者と指名された小田村は藩校明倫館などでの公務が忙しく、また以前から、松陰の危険な活動には距離を置き気味だったため、桧下村塾を引き受けなかった。万延元年(一八六〇)三月二十九日、松下村塾生の尾寺新之丞に宛てた手紙では、
「村塾も亭主これ無きゆえ、衰微の兆しに至り気の毒に存じ候」
とあり、まるで他人事だ。
桧下村塾の灯火を消さぬよう、熱心に活動を始めたのは、玄瑞だった。玄瑞は松陰の死の前から早くも「松陰」をシンボルとして、ここを拠点に同志の結束を固め、政治運動を行おうと考えた節がある。
玄瑞の「九仭日記」は、松陰が江戸に送られて間もなくの安政六年(一人五九)六月一日から始まり、九月六日までが伝わっている。まず、
「夜、桧下塾に抵り、士毅・子棉・子大・松洞と談」(六月二十一日)
などとあり、七月十九日には品川弥二郎(思父)の家に佐世八十郎・岡部富太郎・福原又四郎・作間(寺島)忠三郎・松浦桧洞らが集まり、桧陰の著作『講孟節記』を読んだことが記されている。その席で、桧下村塾に四・九のつく日に定期的に集まり、松陰著作の勉強会を開くことを決めたりもした。 |
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