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          立石優−久坂玄瑞

■15歳で天涯孤独

<本文から>
 それにしてもノ、母の死を端緒として秀三郎の身辺を次々に襲う不幸の連鎖は、あまりにも苛酷なものだった。何かの呪いではないか、と思われるほどだ。
 母の死から半年後の翌年二月二十七日、玄機が急死した。
 朝、起きてこない兄を訝しんで、秀三郎が部屋を見に行くと、文机に突っ伏して、絶命していた。筆を握ったままだったといわれる。
 文机の上には、翻訳しかけの蘭語の兵術書が置かれていた。異国船出没の緊急事態を受け、一刻も早く藩に提出したかったのだろう。現代であれば、過労による突然死、といわれるものだ。「士魂」を貫き通した、壮烈な最期であった。享年三十五である。
 ふだんは腑抜けのようになっていた良廻が、このときばかりは意外なほど敏速な行動をとった。
 葬儀を手早くすませると、すぐさま藩庁へ足を運んで、三男・秀三郎の嫡子届けを行なったのである。家督相続者がいないと、久坂分家は断絶となる。
 届けをすませて安堵したのだろうか、なんと数日後の三月四日、良弛もまたぽっくり死んでしまう。脳卒中であろう。
 久坂秀三郎は十五歳にして、しかもわずか半年の間に、父母兄をすべて失ってしまったのだ。
 良廻の葬儀は、玄機の初七日の法事と重なってしまった。近くの寺で執り行なわれた葬儀には、父子二代にわたる多くの知人・縁者が焼香に訪れた。
 式後、身寄りの者が一室に顔を合わせ、孤児になった秀三郎の身の振り方が話し合われた。
 月性が「わしの寺には部屋が余っちょる。わしが引き取ろう」と言い出し、秀三郎も大いに気持ちが傾いた。しかし、結局のところ血縁のある母の実家・大谷家に引き取られることになった。
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■松陰門下となる

<本文から>
 松陰は淡々と語りかける。
 「また学を修めて、人の努めが終わるものでもありません。志を立て、たとえ微力であろうとも天下国家のために尽くす事こそ男子の本分というものでありましょう」
 声音は澄んでいて、一語、一語が玄瑞の腹の底に沁み入ってくる。
 学問を空理空論で終わらせず、国家のためにどう役立つかを考え、実行せよ、と松陰は諭している。とかく上滑りの論理を弄びがちだった浅慮を、玄瑞は松陰の手紙によって、痛いほど認識させられてきた。もう抵抗力を失っていた。
 そこへ、文が茶を運んできた。
 玄瑞とは目を合わせようとせず、
 「粗茶ですが、ご一服を」
 と言って、玄瑞の前に湯呑みを置いた。
 「十五歳になる未の妹の文です、玄瑞君と文は、すでに面識がありましょう」
 松陰が二人を見比べながら、どちらへともなく声をかけた。
 文が黙っているので、仕方なく玄瑞が「はい」と答えた。
 「これからも、互いによろしく頼みます」
  とまた松陰は、どちらへともなく言った。
 玄瑞は横目で文を見たが、彼女は相変わらず目を合わせようとせず、軽く頭を下げただけで、さがって行った。
 「どうですか、久坂君、これを機に僕と一緒に学問をしてみませんか」
 松陰はやさしく声をかけた。
 飛びつくような思いで玄瑞は、
 「はい。よろしくお願いいたします」
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■松下村塾の双壁

<本文から>
 松陰はこのあたりの機微を、こう述べている。「晋作の学問はまだ不十分だが、識見は優れている。彼の自由奔放な考え方と行動を、玄瑞の才能と学力を推奨することによって抑えようとした」
 久坂玄瑞と高杉晋作は、「松下村塾の双壁」と並び称されるようになった。いつのまにか、だれからともなく広まったものだが、異論を唱える者はいなかった。
 ただ塾生たちの玄瑞と晋作に対する人間的評価においては、大差があった。
 前出の天野清三郎はこう言っている。
 「久坂には誰もが付いて行きたいが、高杉の方は『どうにもならぬ』と皆言うほどで、高杉は人望が少なく、久坂は人望が多かった」
 塾生の評価はともかく、二人の友情は固かった。頑固無類の晋作も、玄瑞の説得には素直に応じた。敵の多い晋作を、いつも玄瑞が庇う構図は、吉松塾時代と同じだった。
 そうした二人の仲を、師の松陰はいち早く見抜き、暴走しがちな晋作の制御役として玄瑞を利用したのである。
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■幕府の条約に激昂し脱藩するも、雲浜に説得され萩に戻る

<本文から>
 雲浜は青蓬院宮に謁し、「勅許不可、攘夷親征」の意見書を呈上した。のちに水戸藩へ下された倒幕の密勅も、この雲浜の意見書を朝廷が参考にしたものである。
 玄瑞もまた三位大原重徳に意見書を提出するなど、積極的に動き始めていた。
 その矢先、江戸から帰国命令が届いた。
 江戸藩邸から京都留守居役の福原与三兵衛へ、「久坂玄瑞が伊東玄朴の塾をやめて無断上洛し、不穏な活動をしているようだ」として、萩へ帰国させるよう申し送ってきたのだ。伊東玄朴に退塾の許可を得ていたことで、比較的おだやかな表現になっていた。桂小五郎の助言が、結果的に玄瑞の首を繋いだのである。
 しかし玄瑞は、藩命に背いても京都に留まる腹を決めた。
 (ようやく回天の機運が兆し始めた京を捨てて、おめおめと本国へ逃げ帰れるものか)という一途な思いがある。藩命に背けば、切腹も覚悟しなければならないが、若さからくる客気が、判断力を麻痺させていた。
 京都に留まるとなると、このまま藩邸に居座っているわけにもいかない。
 とりあえず雲浜の屋敷に潜伏することにした。彼の計画では、大坂あたりに宿を借り、天下の志士たちの活動拠点にするつもりだった。梅田邸で書いた、七月二十四日付けの松陰宛ての手紙に、その計画を記している。
 雲浜は玄瑞の気骨に感心し、快く自邸に迎え入れた。
 しかし長藩の京都藩邸に探りを入れてみると、行方をくらませたことで、予想外に厳しい態度になっていた。この将来性豊かな若者を犬死にさせたくないと、雲浜は思い直した。
 一夜、酒を酌み交わし、雲浜は率直に意見を述べた。
 「皇威回復の時は必ずくる。焦っては、すべてを失ってしまう。君はまだ若いのだから、隠忍自重して時節到来を待つべきである。俗吏の日和見主義などに負けることなく、時到らば大いに暴れなさい」
 切々と説く雲浜の言葉は、玄瑞の胸に絡みた。実のところ彼自身冷静になってみると、身命を賭する機会はまだ先にある、という気がしていたのだ。急所を衝かれた形だった。
 玄瑞は翻意し、萩へ帰ることにした。
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■文との手紙の交換

<本文から>
 学問の方は藩への義理立て程度に手抜きして、桂小五郎の口利きにより、水戸、土佐、薩摩などの志士たちとの連携に奔走した。松陰刑死を契機として、玄瑞の勤王倒幕活動に、前のめりの姿勢が目立ち始めた。
 一方で、文との手紙の交換には「手抜き」などできない。夫婦間の約束があるからだ。文の方からは、頻繁に便りがきていたようである。
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■玄瑞の最期

<本文から>
 脇目もふらず突進する来島隊三百は、蛤御門を守る会津兵を撃破、門内へ突入した。又兵衛は馬に乗り、陣頭に立って鉄扇を振りながら、「進め、進め」と号令していた。
 会津隊は七百の兵と砲二門を備えていて、大砲を放って抵抗した。だが又兵衛隊の突撃により、総崩れになりかかった。急を聞いて、乾御門を守っていた薩摩兵が救援に駆けつけ、激戦となった。
 薩摩兵が撃った一弾が又兵衛の胸を貢いた。落馬した又兵衛は、駆け寄った甥の喜多村武七に「介錯せい。首を敵に渡すな」と言って絶命した。
 猛将の戦死で、遊撃隊は崩れ立った。又兵衛の遺体は、力士の菊ケ浜が担いで退いた。菊ケ浜は遺体を天竜寺まで運び、境内に埋めた。又兵衛の懐には、「葬式料」と書いた七十両の紙包みが入っていたという。
 中立売門を攻めた国司信濃の隊五百は、会津・桑名の連合軍一千余と戦い、衆寡敵せず後退した。
 山崎の益田親施は本営を天王山に移し、久坂と真木の隊五百が堺町御門に向かった。桂川までの道が泥棒状態で進軍に手間取り、八時頃になってようやく七条を経て堺町通に出た。
 堺町御門の前は越前兵が固めていたが、戦意は低く、長州勢が攻めかかると北方へ後退して行った。長州勢が門内に突入しょうとしたとき、会津・薩摩の兵が救援に駆けつけ、猛烈な銃火を浴びせてきた。薩摩の鉄砲隊は、各所で威力を発揮していた。
 すでに各方面の長州軍は敗北し、戦っているのは、この堺町御門だけになっていた。幕軍の人数は増える一方だった。
 「鷹司邸に入れ」
 玄瑞は大声で命令した。近くの鷹司邸の塀が高いことを思い出したのだ。銃火が避けられる。
 真木和泉ら忠勇祖の浪士十七人は、乱戦を切り抜けて天王山に逃れたが、そろって自害して果てた。
 久坂玄瑞は手勢を集めて、鷹司邸に入った。玄瑞は膝に銃弾を受けており、政行していた。寺島忠三郎は無傷だったが、入江九一は白兵戦の只中、槍で目を突かれて戦死していた。
 玄瑞は忠三郎の手を借りて、奥へ入って行った。最後の一策として、鷹司政通に頼み込み、停戦の勅命を得ようと考えたのだ。長州藩が朝敵の汚名を着ることだけは避けたかったのである。
 元関白の鷹司は参内を禁止されており、また敗色濃厚な長州に助力する意思もなかった。鷹司は戦火から脱出することに気を取られ、上の空だった。
 玄瑞はここを死に場所と定めた。
 兵たちは塀越しに射撃していたが、敵の銃弾の雨が降り注いでくる。
 大砲弾も炸裂し始め、屋敷の一角から火の手が上がった。
 玄瑞は残兵を集め、
 「よく戦ってくれた。我々の大義は必ず成就する。南側の裏門は手薄なはずだから、直ちに脱出してくれ。一刻も早く行け」
 と命令した。兵たちは裏門へ走ったが、忠三郎は頑として動かなかった。
 久坂玄瑞と寺島忠三郎両名の最期を見届けた、鷹司家の中小姓・兼田義和氏の話が残っている。(『忠正公勤王事蹟』)
 「あのお二人が割腹された所は、お局口に相違ありませぬ。久坂さんは傷を受けておられ、お逃げなさることはできないが、寺島さんは何も傷がないから『お逃げなされ』と勧めましたが、『いや、どうしても久坂と一緒に死ぬ義理合いだから、最期を見届けてくれ』ということで、お局口で従容としてご自害なされました。
 そのうちに火がかかったから、私は逃げましたが、鎮火の後に、久坂さんらの自害した場所に行って見ると、焼け残りの骨があったから、その骨を壷に収め、一条寺に持って行って葬りました」
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