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<本文から> それにしてもノ、母の死を端緒として秀三郎の身辺を次々に襲う不幸の連鎖は、あまりにも苛酷なものだった。何かの呪いではないか、と思われるほどだ。
母の死から半年後の翌年二月二十七日、玄機が急死した。
朝、起きてこない兄を訝しんで、秀三郎が部屋を見に行くと、文机に突っ伏して、絶命していた。筆を握ったままだったといわれる。
文机の上には、翻訳しかけの蘭語の兵術書が置かれていた。異国船出没の緊急事態を受け、一刻も早く藩に提出したかったのだろう。現代であれば、過労による突然死、といわれるものだ。「士魂」を貫き通した、壮烈な最期であった。享年三十五である。
ふだんは腑抜けのようになっていた良廻が、このときばかりは意外なほど敏速な行動をとった。
葬儀を手早くすませると、すぐさま藩庁へ足を運んで、三男・秀三郎の嫡子届けを行なったのである。家督相続者がいないと、久坂分家は断絶となる。
届けをすませて安堵したのだろうか、なんと数日後の三月四日、良弛もまたぽっくり死んでしまう。脳卒中であろう。
久坂秀三郎は十五歳にして、しかもわずか半年の間に、父母兄をすべて失ってしまったのだ。
良廻の葬儀は、玄機の初七日の法事と重なってしまった。近くの寺で執り行なわれた葬儀には、父子二代にわたる多くの知人・縁者が焼香に訪れた。
式後、身寄りの者が一室に顔を合わせ、孤児になった秀三郎の身の振り方が話し合われた。
月性が「わしの寺には部屋が余っちょる。わしが引き取ろう」と言い出し、秀三郎も大いに気持ちが傾いた。しかし、結局のところ血縁のある母の実家・大谷家に引き取られることになった。 |
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