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          永井路子-この世をば(下)

■呪詛の効用

<本文から>
 そのうち、さらに倫子をおびやかす噂が入ってきた。
 「伊周たちの外祖父、高階成忠入道が呪詛しております」
というのである。
 「陰陽師二人、僧侶が二人、ずっと成忠入道の家に籠りきりで、昼夜をわかたず」
 流行病についての医学的知識のないそのころのことだ。成忠は、関白道兼がころりと死んだのも自分の呪狙によるものだと信じきっている。
 「それ呪え、やれ祈れ、そひゃ、ふひゃ」
 呪詛の効用を信じているという点では倫子も例外ではない。何だか背筋がぞくぞくしてきた。気がついてみると、このところ食欲がめっきり衰えている。道長も倫子の不調に気づいて心配そうに言った。
 「どうした、大丈夫か」
 つとめて平静を装っているものの、倫子の頼には生気がない。
 「大丈夫ですわ、御心配なさらないで」
 笑って夫に答えようとするが、呪われている、という不安を抑えることはできない。道長はもちろん成忠入道の呪誼のことを聞かされているのだが、あえてそのことを口に出さないのは、もし自分が言ってしまえば、まちがいなくその呪いが実現してしまいそうな気がするからだ。倫子には夫のその心づかいが痛いほどよくわかる。
 「苦労をかけるなあ」
 心配そうに言うとき、右大臣の肩書を取り払った普通の男の顔がそこにある。
 −そのごく普通の男の俺が、柄にもない地位に上ったばっかりに、そなたにも迷惑をかけてしまった。
 夫の眼はそう言っている。そしてその瞳の奥に、倫子は彼のたじろぎの翳を感じるのだ。
 多分彼は自分の周囲がみな敵のように見えるのではないか。伊周との口論、隆家との対立。
 そしてそれを皮肉に眺める公卿たちの眼、そして呪詛…。そんな中で自信喪失状態になるのはあたりまえだ。
 「苦労をなさっているのはあなたですわ」
 思わず涙ぐんで言うと、道長は黙ってかぶりをふり、やさしく背中を撫でた。
 「俺はいい、それよりもっと効験のある陰陽師を呼び集めよう」
 じじつ、高僧や陰陽師、修験者などにさまざまの読経、祈席を行わせているのだが、いっこうに効果があらわれない。そのことが、ますます成忠入道の呪詛の執拗さを裏づけているようにも思われる。
 倫子は床につきがちになった。八歳の娘、四歳の息子がまつわりついてくるにつけても涙がこぼれる。
 −この子たちの成人した姿を見られるだろうか。
 のびかけた姫の黒い髪を撫でながら、ふと弱気になってしまうのだ。そう思っただけで胸苦しくなり、何も食べていないのに度々吐き気に襲われる。
▲UP

■呪詛事件等で何もしない道長に運が向く

<本文から>
  −呪われている。
 と知って、おじけづいてしまったらしい。急に気が弱くなって、
 「院号も拝辞したい。年官、年爵もいらない」
 と言いだした。年宮、年爵というのは、官吏の官職の任命や位階の昇進にあたっての一種の推薦権である。つまり詮子がある人物にある官位を推薦できる権利で、これにあずかった人物は、謝礼を詮子におさめる。いわば合法的な売官制度とでもいうべきか。経済的な利益もさることながら、年官、年爵を持つということは皇族などに許された一種の栄誉的特権なのであった。
 詮子はこういう栄誉もいらない、と言いだしたのだ。結局は保留されるのだが、彼女としては思いきった隠退声明である。一条帝も母の身を気づかって、大赦令を出したりした。そしてそのさなか、詮子のいる土御門邸の寝殿の下から、怪しげな呪いものが発見されたのだ。
 「まさしく呪詛にまちがいなし!」
 事態は決定的になった。
 もちろん容疑者とされた成忠は、はげしく否定した。
 「とんでもない。呪詛なんかするものですか」
 しかし、何のための祈?か言いひらきができなかったことと、土御門邸から出た呪いものを動かぬ証拠として、その責任を問われることになった。
 後世の我々からみれば、まことに奇妙な事件である。そんなに呪詛は効果があるのか?
しかし後世からの問いかけを耳にしたとしても、当時の人々は答えるだろう。
 「まちがいない。それを証拠に、成忠入道の呪詛が解けたら、女院はお元気になった」
 後世の我々はこう判断するよりほかはない。詮子は道長を強引に後押ししたことで、いささか気がとがめていたのだろう。そこで病気になったとき、これは呪われている、と思いこんで恐怖におそわれ、自分で病気を悪くさせてしまったのだと…。まさに「病は気から」である。
 では呪いものは? その謎を解くのは簡単だ。
 「こんなものを見つけました」
 恩賞目あてにでっちあげをする人間はざらにいるのである。
 ともあれ成忠の呪誼をつきとめることによって詮子の病気は回復した。が、それ以上に、事件の恩恵に浴したのは、道長であろう。
 小うるさい高階成忠を押えつけることによって、伊周、隆家に追い打ちをかけたことになるからだ。花山法皇にまつわる殺傷事件についての裁定はまだ出ていない時期だったが、伊周たちには、さらに不利な条件が重なったわけである。
 中宮定子はこれより少し前、兄弟の不祥事件を侍って内裏を退出してしまった。こうして、中関白家の一族は、道長がしかけたわけでもないのに、一条の周辺から遠ざかることを余儀なくされたのである。時流を見るのに敏感な公卿たちは、中宮の退出に際して、ほとんど供にも加わらなかった。定子の旦那は東三条邸の東側、二条北宮と呼ばれるところだが、ここには伊周や隆家がいる。なまじ顔をあわせてかかわりあいになるのを避けたかったのだろう。
 −時の流れというのはおそろしいものだな。
 道長は内心そう思う。中宮の内裏への出入に際しては先を争って屈従した公卿たちのこの変節ぶりはどうだ。潮が退くように、彼らは、道隆一族から離れつつある。
 −そしてその分、俺の方へ運が向いてきているというわけか。
 多少自分の運を悼みはじめたからだろうか、このとき道長は、成忠入道の抗弁をさほど心にとめはしなかった。彼が、詮子呪詛はしていない、と言いはり、その先を問いつめられて、答を渋ったことも、
 −言いのがれができなかったのだろう。
 ぐらいにしか考えなかった。
 ところが、成忠の呪詛事件の後を追うようにして、またしても思いがけない密告がもたらされたのだ。
 「今度は伊周が、秘法を修している」
 それも、おどろな大元帥法(附の字は読まず、たいげんと言うのがふつうである)と聞いたとき、
 「ややっ……」
 何たること、と言いかけて道長は言葉を呑みながら、天地がひっくりかえるような衝撃に襲われた。
 なぜなら大元帥法は、秘法中の秘法、天皇以外が修することを許されない恐るべき禁忌の秘法だったからだ。いわゆる明王部に属する大元帥明王は四面八腎、歯をむきだし、憤怒の形相で、炎の中に突立っている。この像の前で行う密教の修法は、鎮護国家、敵国降伏を目的とするもので、従って、天皇の命によってのみ行われる秘法とされていたのだ。
 −それを伊周がやるとは、どういうことだ。
 最初は言いしれぬ恐怖に捉えられた。
 −あいつは何をしでかすかわからぬ奴だからな。
 これまで持ち続けてきた伊周に対する劣等感が、道長を動揺させる。何で彼がそういうことを始めたのか、理解ができない。それは多分彼が頭がよく、自分が平凡児だからに違いないのだ……。
 が、その混乱、茫然自失がややおさまったとき、
 −待てよ。
 少し日ごろの常識が戻ってきた。
 −天皇のみに許される秘法を内緒でやるとはどういうことか。
 明らかに帝権の侵害ではないか。
 −うむ、うむ、そういうことになるな。大事だぞ、これは。才子みずから墓穴を振るようなものじゃないか。
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■道長は平凡で平衡感覚があったので難を切りぬける

<本文から>
 お世辞半分にこう言う。
 「苦労人でいらっしゃる。故関白〈道隆〉とは違いますな。大人物の風格がおありで」
 賛辞もちらはら耳に入ってくる。道長としても悪い気はしないが、いささかこそばゆい感じもないではない。
 −寛大なのではない。兄貴より気が小さいのだ。何しろ俺は末っ子だから。
 道隆兄は苦労しらずで、思ったことをずばずばやった。峻烈な道兼兄は、策謀で人を陥れることに心の痛みを感じない性格だった。が、道長は違う。末っ子だけに、頭を押えられたり、人の意向を気にしたりしながら、ここまでやってきた。不遇の苦しみも知らないわけではない。それだけに人の気持をおしはかることだけはできるのである。
 平凡児の常識、政治における平衡感覚とでもいうべきか。
 しかし案外歴史の中で強みを発揮するのはこれなのだ。人々はえてして「英雄」という虚像を描いてここに夢を託しがちだが、自分の力を過信し、「俺が」「俺が」とやる気を見せる連中にはろくなのはいないし、また彼らの「意欲的事業」の多くは失敗に帰しているのである。そして平凡児がおのれの掴んだ幸運におののきつつ、ときにはその幸運に押しつぶされそうになりながら、何とか平衡感覚を失うまいと苦闘するときに、辛うじて困難を切りぬけることができるのだ。
 その意味で、この事件は道長にとって、大きな政治的体験だった。やるときは、きびしい姿勢をしめすが、その代り、相手の心情への配慮を忘れない−ごくあたりまえのことをやっただけだが、それはたしかに彼に対する一つの評価をもたらした。
 −なるはど、そういうものか。
 改めて道長は、自分自身をみつめなおす思いでもある。
一方、悪いことは重なるもので、中宮定子のいた二条北宮が全焼した。六月八日のその夜、火事と聞いて道長以下が駆けつけたとき、すでに豪華な邸はほとんど焼け落ち、黒焦げの柱が、くすぶりながら煙をあげていた。
 「中宮はどこに?」
 さすがに不安になって道長はたずねた。火の廻りが早すぎる様子に、その身が気づかわれたが、幸いに定子は無事だった。近くにある伯父の高階明順の宅に難を避けているという。明順は中宮亮(次官)に任じられてもいたから、まずは適切な避難先であった。
 二条宮の近くには冷泉院がある。例の狂疾の冷泉上皇の御所だ。ここに近火見舞の挨拶をしてから道長は公卿たちと明順宅へ行った。もちろん定子と対面はしなかったが、そこで聞いたのは、
 「急なことで、御車にも召されず」
という話だった。′
 「ほ、それはそれは。ではお徒歩で?」
 「いや、とりあえず、近侍の男たちがお抱え申しあげまして。それでも中途からは御車が間にあいました」
▲UP

■末法の世がやってくる不安と絶望

<本文から>
 つまり律令制度が弛んでしまったのだ。もっともここには一種の錯覚がある。昔は律令制度がちゃんとしていた、という思いこみだ。が、もともと中国で作られたこの制度が、日本にぴったりあうわけはなく、これまでも常にぎくしゃくしてきた。が、人間はとかく過去を理想化する癖がある。それに、当時の高官たちは、まだ見ぬ大国、宋を過大視している。
 −それにくらべると、このていたらく。おお、はずかしい。
 じつは、これら大国も大なり小なり矛盾は抱えているのだが。それにもうひとつ、彼らの絶望感を深くしているものがあった。
 末法の世がやってくる。それもまもなく……。
 漠然たる不安、絶望ではない。彼らの考えでは、末世はもうすぐやってくる。多分五十五年ほど後に……。
 いやに年数をはっきり区切っているが、ここには仏教思想の反映がある。釈迦の入滅後、最初は正しい教えが行われる正法の時代、次は教えがあっても信仰が薄れ形式化する像法の時代、そして最後が教えの廃れる末法の時代−。正法、像法をそれぞれ五百年とする考え方、千年とする考え方など、数え方はいろいろあるが、当時は一〇五二年に末法に入ると信じられていた。
 とすると、辛うじてこのときは像法の時代だが、なるほど末法の様相はしだいに現われつつあった。
 −外敵来襲もその一つ。
 実資はそう思ったのである。
 −大体道長のような男が権力の座に坐ることじたい、末法の兆しよ。
 牡の中で、そうののしったりしている。とはいうものの、彼も政治家だ。末法思想におののく半面、現実を直視する眼も持たないわけでは匂い。この大極殿の荒廃、・儀式の停廃、役人の怠慢、つまり律令体制の弛緩の直接原因が何かはちゃんと知っている。
 国家財政が破綻してしまっているのだ。金がないから大極殿の修理も思うにまかせないし、役人の給与もよくないから働かないのである。
 古来の制度で税金がとりにくくなったのは大分前のことで、それぞれの時代に変更を加えてきたのだが、それももう手づまり状態にある。その上、例年の凶作、悪疫の流行……。よいところ一つもなしだ。
 もちろん実資にとやかく言われるまでもなく、道長だって、そのことに気づいていないわけではない。とりわけこの外交問題には衝撃をうけ、以来、すっかり体の調子をこわしてしまった。
 そんな噂が入ってくると実資は、内心にやりとせざるを得ない。
 −そうだろうとも。もし高麗の侵攻がまことなら、どんなことになるか……。
 まさに白村江以来の国難だ。今度の問題は東三条院詮子の病気どころの騒ぎではない。
 −一難去ってまた一難だな。
▲UP

■道長の平衡感覚が政治生命を長続きさせる

<本文から>
 これから先も、それは多分時々彼の心をゆさぶることであろう。
 何が何でも権力の座へ、と眼の色を変えてひしめく政治の社会ではこれは珍しい資質のようにも見える。そんな弱腰では頼りないと思う向きもあるかもしれない。が、一種の度胸と、その反対の極にある醒めた思いは、ある意味での平衡感覚なのだ。政治の社会で思いのはかにその人間の政治生命を長続きさせるのはこの資質である。それがいま道長の中に根を据えはじめたようだ。
 実資はいま、おぼろげに道長の中にあるこの平衡感覚に気づいたのかもしれない。
 次から次へと政策を打ちだすきらびやかさはない。平凡児はあえぎ、よろめき、ときには辞めたくなったり、どうにでもなれ、と思ったりしながら、とにかく歩いてゆく。
 やることなすことその場しのぎ、無定見の感をまぬかれないが、しかし政治とか歴史とかいうものじたい、息の長い、捉えどころのないものであってみれば、それと行をともにするには、これも有効な手段なのかもしれない。
 が、人の眼を奪うほどのはったりもないので、大政治家とはどうしても見えないから歴史学者からの評価も芳しくない。
 「彼は亡弊状態にある当時の日本に対して、何ら対策をたてていない」
 と、後世の学者は彼を批判する。たしかにその通りだ。国家財政の大赤字、律令制の弛緩、宮人の怠惰−つづくりのつかないところにきているにしては彼は政策マンではなさすぎる、
 それはなぜか。彼自身、経済的には呆れるほど安定していたこともその一つであろう。彼らの富の実態はつかみにくいが、学者の計算によれば左大臣としての年収は米に換算して約五、六千石。現在の政府の米の売渡価格から割りだすと二億ないし二億五千万。それにボーナス的なものや臨時の給与、これに数倍する個人財産や家に伝わる財産からの収入を併せれば、尤大な額になる。国家財政は赤字でも、まず高官の収入は確保できるしくみになっていたのだ。もちろん下級宮人にはかなりのしわよせはきているのだが……。
 国家は赤字、ただし自分は御安泰−これが亡弊の構図である。危機感にいまひとつ真剣味のない理由もそこにあるだろう。もっともこれは道長にかぎったことではない。日本の歴史の中で末端の民生にまで心を配った政治家は何人いるだろう。あの信長や秀吉だって、民衆の幸福などは考えてもいなかったではないか。
 それに、道長の時代には「民衆」への認識が成立していない。自分が相手にしているのはせいぜい中級官僚どまりだから、「亡弊観」もおぎなりになってしまうのだ。
 しかしこのままでいいとは決して思っていないところが道長の道長たるところである。線の太い父の兼家には、そんなためらいはほとんどなかった。この微妙な親子のずれは、そのまま時代の動きを反映しているといってもいい。そして危なっかしい平衡感覚も、まさに時代の所産といえるかもしれない。
▲UP

■伊周との和解で一番とくをしたのは道長

<本文から>
  −姉君の御恩を思えば…。
死後ひしひしと感じるのはそのことだ。姉はその死に臨んで、何よりも大きい贈物をしていってくれた。
「伊周の本位復帰」
がそれである。詮子自身の延命には何の役にも立たなかったが‥道長にとっては、またとない伊周との和解の機会となった。伊周らの本位復帰は正直いって不安だったし、これも姉のためだと思ってがまんしたのが、むしろ、結泉的に一番とくをしたのは道長自身かもしれない。
 −人生とは奇妙なものだな。
 という気がする。姉の死後も伊周が中途半端な地位のまま溝かれていたら、和解の機はなかなかやってこなかったかもしれない。どうやら詮子が命を賭けて二人の間をとりもってくれたようでもある。いつも蔭の大黒柱として、一族の魂鎮めの役を引きうけてくれていた姉に報いるには、どうしてもここに寺を建てたい、としきりに思った。そして一族が揃って落慶法要に臨んだら、姉に対してのこの上ない供養になるだろう。
 そして、その願いは実現した。数年後、この寺が完成したときの法要には伊周と隆家も参列した。もっともそれまでの間、道長は彼らの位を昇進させたりして、かなりの気は使ったのであるが。ときには、
 −何で俺ばかりが気を使わなくちゃならないんだ。
 馬鹿馬鹿しくもなったが、姉のことを思って耐えた。落慶供養の日、彼は願文の中で、はっきり「別しては東三条院に報い奉らんがために」と言っている。寺の額を書いたり、この願文の清書をしたのは例によって行成だった。
 法要もたしかに一種の政治工作だ。寺院建立も単なる信心や贅沢趣味ではないのである。しかし、それが道長の政治のすべてではない。もっとなまの政治上の難問が、彼の周囲には山積していた。黄泉への道を辿らないかぎり解放はあり得ないのだ。
 第一の難問は財政危機。何も今にはじまったことではない一種の慢性的な現象だが、これにさらに圧迫を加えたのは度重なる内裏の焼失だった。せっかく長保二(一〇〇〇)年に完成した内裏は、その翌年の十一月、つまり詮子の死の少し前には焼失している。一条は結局もとの一条慌に還ることを余儀なくされた。
 次の内裏が完成したのは二年後の長保五年、ところが、これも二年後にはまたまた焼失してしまう。木幡の浄妙寺三昧堂での供養が終って一月も経たないころ−寛弘と改元されて二年めのことである。
 夜中に叩きおこされた道長は、とるものもとりあえず、内裏に駆けつけた。火の廻るのが早すぎて、最初は一条と彰子の身辺には誰ひとりいないという状態だった。そのうち、右大臣顕光はじめ、実資や行成たちも集まってきた。
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■一条の後をついで皇位についた居貞

<本文から>
  一条の後をついで皇位についた居貞、つまり三条帝は三十六歳。従弟の故一条より四歳年上である。東宮の方が天皇より年上という、今考えればまことに奇妙な現象がまかり通っていたのは、当時の皇位継承が、しばしば兄弟や従兄弟の間で行われたからだ。
 藤原氏の中で、師輔を視とする九条流は、これら歴代の天皇に要領よく娘を送りこみ、その所生の皇子の即位実現を企んでは、またそこへ娘を、という方策をくりかえしてきた。つまり、天皇家に師輔流の娘たちがべったり貼.りつく形がここ数代続き、それが九条流が他派を圧して独走する原動力となっているのだが、これを九条流の男の側から見るならば、ここ数代の天皇は、どちらを向いても自分の義兄弟や甥、ということになる。
 今度の新帝三条も、道長にとっては甥−−つまり長姉超子の生んだ皇子である。もっとも超子は年も違っていたし、比較的早く世を去ってしまったので、すぐ上の姉、故東三条院詮子ほどの親しみはない。従って詮子の産んだ故一条帝ほどの身近さを三条には感じないことばたしかだが、しかし道長はある思いをもってその顔を眺めることがしばしばある。
 −似ておられるなあ、わが父に。
 外祖父だからあたりまえでもあるが、三条は、道長の父、兼家にそっくりなのだ。
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■正室の倫子が三宮なみの待遇を得る

<本文から>
  念には念を入れてたしかめるような気配のあることを見逃してはいない。陽気な半面にあるこの小心さが、彼を今日まで左大臣に止まらせていたのだ。道長の胸の底には、
 −道隆兄も道兼兄も、無理して急いで摂政や関白になったから早死した。
 という思いがある。つまり、摂政や関白は外祖父になってから手にするのが自然なのだ、と思っているのだ。
 −大丈夫ですとも、あなた。
 倫子はそう言ってやりたい。
 −帝は姫の生みまいらせた皇子。摂政におなりになるのに何の侍ることがあるものですか。
 いや、それは口に出もないでもいいことなのだ。すでに結婚三十年め、自分が道長の心の中が読みとれると同じくらい、相手も、自分の微笑ひとつで、すべてをわかってくれているはずだから。
 その後倫子は道長と並んで、三宮(太皇太后宮、皇太后、皇后)に准じて年官年爵を得、封戸が追加された。年官、年爵というのは、毎年官吏の任官や加階を推薦できる権利で、最高の栄誉である。倫子はいまや天皇の外祖母として、三宮なみの待遇を得たのだ。こうした例はないわけではないが、まず破格の栄光といっていい。
 −よろしいのでしょうか、あなた。
 今度は倫子が不安になる番であった。道長の無言の微笑が、彼女にとっては何よりの支えだった。
 倫子にとってより嬉しいのは、これらが皇太后である娘の彰子の計らいという形で行われていることだ。幼年の後一条に代って、政治の中心にいるのは、彰子である。
 −いつのまにか立派になって……。
 改めてその姿を見直す思いである。
 幼いときから、物おじせず、線の太い彰子であった。かつての東三条院詮子の役割を引き受けて、宮廷の中心にどっしり腰を据えている。後世は彼女たちの存在をつい見過しがちだ
が、あたかも廻る独楽の軸のような役をしているのは彼女たちなのだ。そして詮子や彰子のような、しつかりした母后が軸をなしているとき、政治は安定を保つ。後一条の時代は、道長の時代であるとともに彰子の時代でもあった。
 父に似て、彼女も政治社会の平衡感覚を忘れない。以前からへそまがりの大納言実資などにも、
 「どうしているか、時々顔を見せるように」
 といった言伝てをこまめに伝え、反対派に廻るのを未然に抑えてしまっている。さすがの実資も彰子の昔顧に悪い気はしなかったらしく、道長への根廻しを頼むときなどは、彰子の許にしげしげとやってきた。このとき、彼の窓口になったのが紫式部だったというのもおもしろい(もっとも、長和二(一〇一三)年ごろから後は彼女の消息は掴めなくなっているのであるが)。
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■末法の不安、造寺造仏こそ最高の救済手段

<本文から>
 いや、崩れてゆくのは彼の身辺だけではなかった。世の中全体がすさまじい勢で崩れつつあったのだ。すでにこれ以前から、殺人、強盗、放火は日常化していた。つい先ごろは花山法皇の皇女までが何者かに殺害され、路傍に棄てられた死体は犬に食い荒されていた。
 高官たちの従者の乱闘沙汰は毎度のことだが、主人はそれを制することもできない。中級官僚どうしの殺しあいもあるし、ときには女官たちの暴力沙汰さえある。そしていま、東国では大規模の飯乱の芽が育ちつつある。平忠常の乱と呼ばれるそれが火を噴くのは少し先のことだが、将門以来の大動乱の火種は確実にくすぶりつつあった。
 近親の死を食いとめることができなかったように、道長にはそれをどうすることもできない。長年培った平衡感覚の範囲をこえる、それは時代の変動だったからだ。
 ときの人は、それを末法の世到来と思った。
 −末世の足音がしのびよってくる。
 そのころ、人々は、末法の世の始まるのは一〇五二年、と固く信じていた。さきにも触れたように、当時仏教の数え方では、その年に正法に続く像法の世が終って末法に入るということになっていたのである。
 とすれば残りは三十年足らず、大災害や革命の予告をうける以上のおののきをもって、人人は迫りくる年をみつめていた。世の中の不安はすべて末法の前兆と思われた。
 出家直後から道長が仏寺の造営に力を入れたのもそのためである。上東門邸の東隣に造りはじめられた中河御堂は、はじめ無量寿院、のちに法成寺と呼ばれ、しだいに規模を拡張していった。これがいわゆる「御堂」であって、道長の御堂殿という名も、これからきている。
 九体の金色の阿弥陀像を安置した阿弥陀堂、百体仏を安置した釈迦堂はじめ、薬師堂、十斎堂……。ここで道長は念仏にせいを出す。もちろん完全に隠退したわけではなく、時には関白となっている頼通を叱りとばしたりしているが、寛仁末年ごろの日記には、九月一日十一万遍、二日十五万遍、と念仏のことしか出てこない。
 しかし造寺造仏も、しつこいはどの念仏への凝り方も、宗教心の深まりというより、むしろ彼の不安の裏返しではなかったか。
 当時の貴族たちは、不安が昂まれば昂まるほどそこへ行きつく。出家が病気治療の特効薬でもあったのと同じ理屈で、造寺造仏こそ最高の救済手段であるように思えてくるのだ。かつての奈良の大仏が栄光の象徴ではなく、底知れない不安の虜になっていた聖武、光明の心のよりどころであったと同様に、壮麗な堂宇は、近づく末法の世に対する不安とおののきの記念碑だったのである。
 だから不安が昂まるごとに、堂宇はいよいよ壮麗になる。嬉子が死ぬと三味堂が建てられ、研子のためには、阿弥陀堂で大がかりな供養が行われたように……。
 道長が死の床に就くのは万寿四(一〇二七)年十一月。研子の法要の後まもなくだった。すでに六月ごろから食事が進まず、むざんに痩せ衰えていた彼は、たちまち重態に陥り、十日ごろからは失禁状態がはじまった。
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