|
<本文から> そのうち、さらに倫子をおびやかす噂が入ってきた。
「伊周たちの外祖父、高階成忠入道が呪詛しております」
というのである。
「陰陽師二人、僧侶が二人、ずっと成忠入道の家に籠りきりで、昼夜をわかたず」
流行病についての医学的知識のないそのころのことだ。成忠は、関白道兼がころりと死んだのも自分の呪狙によるものだと信じきっている。
「それ呪え、やれ祈れ、そひゃ、ふひゃ」
呪詛の効用を信じているという点では倫子も例外ではない。何だか背筋がぞくぞくしてきた。気がついてみると、このところ食欲がめっきり衰えている。道長も倫子の不調に気づいて心配そうに言った。
「どうした、大丈夫か」
つとめて平静を装っているものの、倫子の頼には生気がない。
「大丈夫ですわ、御心配なさらないで」
笑って夫に答えようとするが、呪われている、という不安を抑えることはできない。道長はもちろん成忠入道の呪誼のことを聞かされているのだが、あえてそのことを口に出さないのは、もし自分が言ってしまえば、まちがいなくその呪いが実現してしまいそうな気がするからだ。倫子には夫のその心づかいが痛いほどよくわかる。
「苦労をかけるなあ」
心配そうに言うとき、右大臣の肩書を取り払った普通の男の顔がそこにある。
−そのごく普通の男の俺が、柄にもない地位に上ったばっかりに、そなたにも迷惑をかけてしまった。
夫の眼はそう言っている。そしてその瞳の奥に、倫子は彼のたじろぎの翳を感じるのだ。
多分彼は自分の周囲がみな敵のように見えるのではないか。伊周との口論、隆家との対立。
そしてそれを皮肉に眺める公卿たちの眼、そして呪詛…。そんな中で自信喪失状態になるのはあたりまえだ。
「苦労をなさっているのはあなたですわ」
思わず涙ぐんで言うと、道長は黙ってかぶりをふり、やさしく背中を撫でた。
「俺はいい、それよりもっと効験のある陰陽師を呼び集めよう」
じじつ、高僧や陰陽師、修験者などにさまざまの読経、祈席を行わせているのだが、いっこうに効果があらわれない。そのことが、ますます成忠入道の呪詛の執拗さを裏づけているようにも思われる。
倫子は床につきがちになった。八歳の娘、四歳の息子がまつわりついてくるにつけても涙がこぼれる。
−この子たちの成人した姿を見られるだろうか。
のびかけた姫の黒い髪を撫でながら、ふと弱気になってしまうのだ。そう思っただけで胸苦しくなり、何も食べていないのに度々吐き気に襲われる。 |
|