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          池波正太郎−近藤勇白書

■芹沢鴨を斬るに永倉の心配をする近藤

<本文から>
「斬る!」
 低い声だが、断乎としていったものだ。
 このときはもう、勇もこれをとめようとはしなかった。
 大きくうなずく勇へ、軽くうなずき返した土方が、立ち上って
「手筈は、あとで……」
「よし」
 土方は、副長みずから島原へ宴会の手筈を打ち合せに出かけて行った。
 京に名高い島原の廓は、屯所から北へ十町ほどのところにある。
 近藤勇は、土方が去った後も、居室の机の前からうごかぬ。
 机上には、墨でまっ異になった半紙がつみかさねられ、習字の手本も数帖置かれてあった。
新選組の局長の一人になってからは、多忙の中を、勇は懸命に習字をやったし、読者にもはげんだ。
 それもこれも、一介の浪人部隊である新選組を、
(このままにはしてはおかぬ)
 という野心に燃えていたし、
(おれも、このままではいないぞ)
 とりあげた筆を、また硯箱へ置き、勇は、庭からきこえてくる永倉新八の掛け声に耳をすませた。
 (土方は……永倉のことを、何かいいかけたようだったな。いったい、どういうつもりなのか……?)
 芹沢鴨を斬るとなれば、彼の腹心である平間や平山なども粛清してしまわねばならぬし、局長の一人でもある水戸出身の新見錦も始末するつもりの勇だ。
 これらの連中は、芹沢一党であるばかりでなく、芹沢をおだてあげ、そそのかし、そのために、
 (芹沢の酒乱もつのったといえる)
 むろん、近藤派とは反目しているわけだし、隊の統一をみだすこと言語に絶するものがある。
 (土方は、永倉も芹沢一味だと考えているのだろうか……)
 そう思い至ったとき、勇は胸がさわいだ。
 (いかん……永倉を芹沢に近づけたのは、このおれだ。永倉だけは殺せぬ)
 何か、居たたまれない気持になり小廊下から玄関へ……。
 「局長。お出かけですか〜」 
▲UP

■芹沢一派を排除し、貫禄をつけて近藤

<本文から>
 芹沢の〔おもり〕を永倉にたのんだのは他ならぬ近藤勇であった。結局、それがために永倉を除外して今度の事をはこばねばならなくなったことほ、勇にしても心外の事というべきだが、あえて策をろうしたのだ。あくまでも、事前に芹沢一派がこちらのうごきをさとることをふせぐためにである。
 「永倉君……」
 「わ、わかっていますよ」
 「そうか……」
 「大丈夫です」
 うなずき合って、二人は手をにぎり合った。
 芹沢鴨と平山五郎の葬儀は、翌日の九月二十日、前川屋敷の屯所においておこなわれた。
 所司代や奉行所、むろん会津藩からも多勢の武士、役人たちが葬儀に参列をし、盛大なものであった。
 近藤勇は、仕立ておろしの黒羽二重の紋つきに仙台平の袴をつけ、威儀堂々として参列者を前に弔詞を読んだ。
 新選組局長は、いまや勇一人となった。
 その責任の重さに立ち向かって行こうという気魄が、この日の勇の言動に威厳をあたえた。
 (これからは、絶対にうしろゆびを指されるような新撰組にはせぬ)
 断固たる決意が、一種、沈黙の貫禄となって見え
「まるで、一夜にして人がちがってしまったようだな」
 暴れ者の原田佐之助も、眼を白黒させていたし、勇自身も、
(おれも、いままでのおれでいてはならぬ。これから精魂をかたむけて隊をひきいてゆかねば……)
 と、考えていた。
 葬儀に列席した幕府側の人びとも、この日の勇を評して、
「三千石の旗本には、充分に見え申す」
 などと、ささやきかわしている。
▲UP

■池田屋騒動後、近藤の威厳ある態度に一変した

<本文から>
 これを、もっともよろこんでくれたのは会津侯・松平容保で、
 「新選組の命をかけてのはたらきが、ようやくむくいられた」
 京都守護職としての会津侯は、感状と共に金五百両を隊士一同へおくり、負傷者たちへは医薬と共に見舞金をあたえ、
「身も健康を害して、何事にも思うように手がつけられぬ。この上とも、京都守護のため、わが藩をたすけて活動してもらいたい」
 重役を通じ、近藤勇へいってよこした。
 当夜。会津藩の出兵が遅れたのも松平容保の病状が重く、重臣たちが直接に容保の決裁を仰ぐことに手間どったためだが、
 「市中警衛の名目をもって出動し、池田屋へは打ち入らぬこと」
 それならかまうまいということになり、ようやく出兵のことがきまった。
 さらに……。
 朝廷からも、
 「慰労のおばしめし」
 によって金百両が新選組へ下付されるし、新選組の声望は一時にあがり、
「いやもう、隊士たちの顔つきまでも変わってきた」
 またも永倉新八の語りになるが、
「近藤さんの顔つきや態度が変わり、この土地へ根が生えたような貫禄というか…威厳というかね。ちょいと若い隊士などは近寄りがたい感じになってね。ま、それだけ重い責任を背負いこんだわけなのだろうが、江戸の試衛館のころから近藤さんを知っているわれわれにしてみると、ちょいとこのね、さびしい気がしたものだ。それまでは結構、島原の女あそびのはなしなぞも気軽にしていた近藤さんが、ぷっつりと……そりやもう笑うのが損だというような顔つきになっちまってね。もうその、うっかり近藤さんなぞと呼べない感じになってしまい、そこへまた土方なぞも撃っ面で何事にも勿体をつけ、局長局長とたてまつるし……」
 なにかのとき、永倉が、つい以前の調子で、
 「ねえ、土方さん……」
 呼びかけて、気やすげにぽんと土方の肩をたたいたら、
 「まるで橋下の乞食にでもさわられたような面つきになって……」
 土方歳三が永倉へ、
 「君。副長と呼びたまえ。平隊士たちの手前もある。ちと言動をつつしまれたい」
 切口上で、こういったという。
▲UP

■新撰組の働きと裏腹に幕府の権威が落ちていく

<本文から>
 ところで長州藩では、藩内革命を成功させた若い新勢力が、
 「これからはもう何ひとつ幕府へ遠慮することほない。わが藩ほ総力をあげて幕府を倒さねばならん!」
 藩論を統一してしまった。
 むろん、下関開港についても、幕府のいうことなどに耳もかさぬし、依然、態度を強固にし、相変らず京都へも革命志士たちを送りこみ、蠢動は激烈化するばかりであった。
 「やはり、長州をこのままにしてはおけぬ。どうしても討たねばならぬ」
 ふたたび、征長軍編制を幕府は考えはじめる。
 「なにをしていやがるのだ。あきれて物もいえねえ」
 原田佐之助なぞは、ばかばかしくて口もきけないといった表情で、
 「これでは、いくらおれたちがはたらいて見ても駄目だよ。上に立つ幕府の足もとが、これほどにひょろひょろしているとは思わなかった……」
 と、永倉新八にこぼした。将軍・家茂も江戸へ帰れない。政局は、まさに京都を中心としてうごきはじめ、幕府の本拠たる江戸は、その政治機能をほとんど失ってしまっている。
 外国列強は、
 「兵庫の港をひらきなさい。下関はどうなりましたか」
 と、幕府を責めつづける。
 莫大な償金も支払わねばならない。
 幕府も将軍も、八方手ふさがりのかたちで〔ためいき〕をつくばかりなのである。
 近藤勇も、
 (いつの間に、こうなってしまったのか……)
 去年の池田屋騒動あって以来、新選組の声望は一時に上がり隊士も増えたし、立派な新本営も完成が間近いというのに、
 (どうも、いかぬようだ。おれたちが精魂こめてはたらきぬいている、その効果がさっばり上がらないのほどうしたわけか……)
 なのである。
 あれほどに熱望した将軍上洛が実現しても、幕府側の気勢が上がるどころかむしろおとろえてしまったような気さえする。はっきりと時勢の動きがつかみきれぬもどかしさなのだ。
 勇は何か得体の知れぬ激流の淵を、自分が心細げに歩いているような気がするときもあった。
▲UP

■おわかの妹のお孝に手をつける

<本文から>
 勇が醒ヶ井の妾宅で、おわかの妹のお孝に手をつけてしまったのもこのころだ。
 お孝は子供のころから大坂の親類にあずけられていたのを、おわかが勇のゆるしを得て引きとったもので、この年、十七歳。
 姉とちがって、細っそりとした小さな鉢つきで、あまり口もきかず、黙々として女中がわりの仕事もやってのけ、
 「あのようにはたらかせなくとも、よいではないか」
 勇が、おわかにいってやったこともあるほどであった。
 それは初夏の或日のことで、勇は公用で伏見奉行所へ出かけた帰途、ふと思いたって従者を本営へ帰し、只ひとり、騎乗で醒ヶ井の妾宅へ立ち寄った。
 おかわは、富小路・四条下ルところの知り合いをたずねたとかで、間もなく帰って来るだろうという。そこで、勇はお孝へ酒の支度をたのんだ。
 別に一人の女中も、おかわの供をして行ったとかで、家中に、お孝と老僕の平というのがいるだけであった。
 どうしてそうなったのか、勇にはわからない。
 庭に面した奥座敷にいて、馴れない手つきで酌をするお孝を相手に、うまくもない酒をちびちび飲んでいるうち、勇の袴へお孝が酒をこぼした。
 「あれ……」
 おどろくお孝を、
 「よい、よい」
 制して、勇が手ぬぐいを出してふきとりながら、ひょいとお孝を見やると、どうしたものかこのとき、お孝が得もいわれぬ愛嬢をたたえてにっこりと笑いかけてきたものである。
 ふだんは無口な少女だけに、こんなこともめずらしかったが、お孝としては何かにつけて自分をいたわってくれる勇に、胸の底では馴ついたのかも知れない。
 勇は、このお孝の笑顔を見たとたんに、このところむしゃくしゃしていた種々の鬱憤が一度にほとばしり、
 「おい……」
 いきなり、お孝を抱きすくめてしまった。
 か細い少女の身は、勇に組みしかれたまま、いささかの抵抗もしめさない。
▲UP

■明治になっての、おかわとお孝とお勇

<本文から>
 明治の世になってから、お孝は、勇との間に生まれた子を里子に出し、神戸の開港場へ稼ぎに出たといわれている。
 おわかとお孝は相談し、この子の名を〔お勇〕とつけた。姉妹ともども、勇をしのぶよすがにしたものであろうか。
 そのうちに、お孝は神戸から上海へわたり、行方不明となってしまうし、おわかは関口其の後妻に入った。
 また数年を経て、おわかは、お勇が祇園から舞妓に出ているのを見出した。
 おわかは、次のように語りのこしている。
 「……お勇は、その後、祇園の女街にだまされ、どこかへ売り飛ばされてしまったような……そのうちに、妹(お孝)が、神戸へ帰ってまいりました。なんでもホンコンだとか、シンガポールだとか、とんでもないような遠いところへわたって行って、荒稼ぎをしたらしゅうございます。それでも千円はどの金をもって帰ってまいりましたのです」
 そこで姉妹が懸命にお勇をさがしまわったところ、下関で芸者に出ていることがわかった。
 かくて、お孝とお勇は二十年ぶりに母子の対面をしたそうな。
▲UP

■近藤の斬首と有馬藤太の語りのこし

<本文から>
 子母沢寛不朽の名著〔新選組始末記〕に、有馬藤太の語りのこしが、次のようにのせられている。
 ……拙者は、そのとき三十二歳。近藤は三十五歳であった。香川の奴は近藤の首をとった上に、それにあきたらず、塩づけにして京都へ送り、三条河原に晒した。実に、くやしいことであった。どうせ殺すなら拙者の手にかけてやりたかった。武士の情けさえ知らぬ香川ごときに殺られたのは、なんとしても心残りでたまらぬ。奥羽平定後に、拙者は香川に会ったから、
 「なぜ、貴様は近藤を殺したんだ」
 と、怒鳴ってやったら、
 「近藤を生かして置くと、それを監視するために、莫大な兵力を要するから、仕方なく斬った」
 という。拙者はむかむかして、
「馬鹿!」
 といったきり、その後は、いかなる場合でも、再び彼とは口もきいたことはない。
(中略)近藤は敵であったが、徳川氏にとっては非常な忠臣じゃ。その上、彼は断じて皇室に鉾を向けるものではない。しかも神妙に降服している。地を換えて考えれば、決して憎むべき人物ではないのじゃ。中村半次郎(桐野利秋)や野津兄弟(後の鎮雄・道貫)なども、
 「乃公等がいたら、決して殺させるんじゃなかった。立派な人物を惜しいことをした」
 といって、非常に惜しんだ。近藤という人物は一種の英傑で、拙者はたしかに、大鳥圭介以上の人物であったと思う。
 有馬は初対面のときから、よほどに勇へ好感を抱いていたものとみえる。
 勇は、約二十日間。板橋の官軍本営において厳重な取調べをうけた。
 有馬藤太の〔語りのこし〕にもあるように、官軍首脳部の中で、近藤勇の処分につき、連日のように激論が反復された。
▲UP

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