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          北方謙三−三国志読本

■劉備・関羽・張飛は三人で一人

<本文から>
  例えば、劉備という人間は、ある激しさがなければ人の上には立てない。そうすると、その激しさは、時には督郵に対する怒りみたいな形で表れてくる。怒りが表れてきたときに、劉備の徳の人という売り込み戦術のような発想があるわけだから、小兄貴の関羽にはできないので、弟分である張飛に「大兄貴が変なことをしてしまったら、おまえが代りにやったことにしろ」と。劉備が督郵をぶん殴ったら、さらにその後で、張飛が行ってぶん殴って外に行って「俺がやったんだ」という感じでぶら下げたりする。そういう役割を、張飛が担っていたと思います。
 あの三人というのは、いつも三人で一人という関係性。これは、心情的に三人で一人というのもあるけれども、そうではなくて役割の関係性から言って三人で一人、それで人を惹きつけて来た、というふうに解釈して小説を構成しました。
 そうすると一人が欠けただけでも、どこかバランスが崩れる。関羽が死んで、張飛がおかしな死に方をしてしまう。劉備が突っ走ってしまう。結局、三人とも死んでしまう。これは一人が欠けただけでも、人間の腕を失ったのと同じような状態になってしまうということです。
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■諸葛亮は日本では誤解され過ぎ

<本文から>
 そういう弱さも持ってただろう、と思うんですよ。
 諸葛亮は、曹操の下にいたら、苛或に取って代ったでしょうね。曹操が帝になり、諸葛亮が宰相になる、そういう形になったんじゃないか、という気がする。
 でも、諸葛亮は日本では誤解され過ぎです。何か神の如き軍略があるよう……。
 そういう軍略があれば、絶対に勝ってるはずなんだよ(笑)。漢中争奪戦とか。魏とは五回ぐらい戦うでしょう。あれ、勝ってるはずなのに、勝っていないんだ。よく見ると、負けている。
 実は日本人は、七度捕られて七度放つなんて話が凄く好きで、そういう好きなことをやってくれる諸葛亮は優れた軍師である、というふうに見てるんだろうと思うけれども。
 やほり諸葛亮は、内政ですね。内政は、非常に優れていた。軍事的には優れてはいたけれど、究極の勝利を獲得するまでには至っていない。究極の勝利を掴むはどの国力がなかった。運がなかった。それから、軍事的才能がなかった。そこまで行く軍事的才能が、なかった。五十人で五百人をやっつけることだって、可能といえば可能なんだから。そういう点では、その才能はなかった、というふうに思わざるを得ない。
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■猛将型から知将型に変遷した三国志時代

<本文から>
  ところが官渡以後の戦いとなると、戦争において花形として活躍するのが周喩、諸葛亮、司馬懿、陸遜といった知将タイプの人物が知略を尽くして指揮するといった戦争になっていくのである。
 この戦争において花形となる将のタイプが猛将型から知将型に変遷していくのは史実でも同様で、これは明らかに後漢末から三国時代にかけての戦乱期に戦争の形式が変わっていったことを意味するのである。
 三国時代は中国史上でも稀なほど数多くの戦争が各地で勃発していた戦乱の時代であるだけに、おのずと戦争の用法が発達を遂げていった。
 後漢末期が戦乱の時代となった当初は、勇猛さや人格的魅力を持って兵たちを統率し、士気を盛り上げることによって戦いを勝ち抜くことが可能であった。つまり、この時期の戦争というのは戦術や作戦などよりもむしろ兵の数と士気がそのまま戦況に影響する、後の時期に比べると戦争その場物の様相は単純であった。そのため指揮官に求められる資質は個人的武力や勇気、兵を鼓舞する人格といったものであった。
 これにはもちろん事情があった。
 後漢という王朝はそもそもの成立が豪族の協力によってできた王朝であり、各地方の豪族は以前として広大な私有地と数多くの私兵(部曲という)を有していた。そして後漢末期の混乱期ともなると、中央の統治能力が衰えたと同時に各地の豪族は漢王朝を見限って独立勢力となっていく。後漢末期に頭角を現す群雄はこういった豪族の盟主の色彩が強く、軍隊は私兵の連合体というような状態にあった。
 このような状態では、満足に訓練をほどこすこともできず、豪族として私兵を率いる指揮官に命令系統を整備するのも困難であった。このため戦いはおのずと前述した兵数と士気の勢いで決まる状況となり、活躍する将も猛将タイプの人物ばかりとなるわけである。
 こういった状態に風穴をあけたのが曹操である。
 曹操は彼自身が『孫子』に注釈を施して編集し、『孫子』という書物を現在まで残る形に編纂したという当代きっての軍事研究家であった。曹操は理論を実戦で立証しつつ、生涯を戦いの中で過ごし、史実に残るだけで六十七度の戦争を経験するという当時においては最高の戦闘経験を持つ歴戦の軍人へと成長していく。
 しかし曹操といえども、戦乱の時代に身絶投じた当初は董卓の将、徐栄の前に大敗を喫するなど理論を実践まで持っていくことが適わなかった。それはそうだろう、烏合の衆である兵士を率いて勢いと個人的武勇に頼るような戦争では、体躯に恵まれなかった曹操にとっては甚だ不本意であったろう。
 その彼が理論を実践に移すのを可能にしたのに、青州兵の存在があった。青州黄巾族の残党を吸収した。この青州兵は豪族の手垢がついていないし、官軍というわけでもない、一から十まで彼のために存在する軍団である。曹操は純粋な直属の兵士とも言える青州兵に徹底的な訓練を施し、彼の軍事理論のとおりに動く兵士へと鍛え上げていく。
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