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          北方謙三−三国志(7)諸王の星

■赤壁の決戦に望む孫権の決意

<本文から>
  そして、会議の日になった。
 はじまっても、周喩の席は空いたままだった。孫権が座り、その前にむかい合うようにして、周喩と張昭の席がある。中央には人が通れるように道があり、二人以外の幕僚は適当に自分の席を占める。
 魯粛は、空いた周喩の席の、すぐ脇に座っていた。張昭がまた講和を主張したら、反論しようという構えに見えた。
 孫権の前の文机には、なにも置かれていない。硯や筆さえもなかった。
 講和派の幕僚たちが、これまでの意見を声高にくり返しはじめた。諸葛亮に論破された者たちだが、会議でその負けを取り戻そうとでもするように、熱が入っていた。無論、諸葛亮はこの会議には出られない。
 「いま、ハン口で曹操軍に備えて布陣している劉備殿から、諸葛亮という使者が来て、同盟を求めていることを、方々は御存知だと思うが」
 魯粛がそう言いはじめると、講和派の幕僚たちの声が、さらに大きく熟を持ったものになった。ただ、張昭だけは、眼を閉じ、黙然としている。
 苛立っても、表情に出さない習練は積んでいるが、不思議に孫権はこれまでの会議はいつも平静でいられた。
 「周喩将軍、御着到です」
声があがった。
 会議の場が、水を打ったように静まり返った。やはり来た、と孫権は思った。いつか、周喩は会議に来るはずだった。それが今日だということを、昨日からは疑ってさえいなかったのだ。
 具足を付け、赤いサク(頭巾)を被った周喩が、静かに姿を現わした。父、孫堅が与えたというサクだろう、と孫権は思った。
 周喩の後ろには、程普と凌統の二人の部将がついていた。こちらの方は、若の匂いを、すでに強すぎるほど放っている。
 「会議の時ではありませんぞ、殿」
 周喩の声は、静かで澄んでいて、しかし心を揺さぶるような響きがあった。
「私は、剣を執って、ここへ参りました。孫堅将軍は流れ矢に当たり、孫策殿は刺客の手にかかって果てられました。あのお二人の志を、そして揚州に独力で立ったというわれらの誇りを賭けて、闘おうではありませんか」
誇り。志。まさしく、そうだ。口にしたくても、できなかったもの。自分の心の底で、しっかりと自分を支えているもの。孫権は、雄叫びをあげたい思いに襲われた。
「誇りを捨てよ、と言う者は、まさかこの会議にはいまいな」
 ゆっくりと、周喩が座を見回した。顔を伏せなかったのは、張昭だけである。
「孫堅将軍の、この赤い憤。そして孫策殿がはいていた、この剣。私には」
「待て、周喩」
 孫権は立ちあがった。
「その先は、私が言おう」
 孫権は、剣を抜き放った。
「会議の決定を伝える。われらは、これより曹操と開戟する。それが、唯一の私の道だ。降伏は、死ぬことである。命があってもなお、男は死するという時がある。誇りを、捨てた時だ」
 孫権は、剣を振りあげ、渾身の力で振り降ろした。文机が、きれいに二つになった。
「私の決定を伝えた以上、これから先、降伏を唱える老は、この文机と同じになると思え。私は、わが手で、この乱世を平定する」
 声があがり、やがてどよめきになった。
「ふるえる者は、去れ。立ち尽すものは、死ね。これより、戦だ。男が、誇りを賭ける時ぞ」
 三人、四人と立ちあがった。
 孫権は、剣を頭上に高々とかかげた。
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■曹操と戦うことで天下が見えてくる

<本文から>
 「殿も劉備も、お互いにいま曹操と闘うことは、好都合なのですよ。少なくとも、あと二年後、三年後に闘うよりは、勝てる要素はずっと多いのです」
 「同盟は、必然か。いまならば」
 「確かに、いまならば」
 孫権が頷き、鈴を鳴らして従者を呼ぶと、また酒を命じた。
 「兄上が、私の重荷になる、そういうことはなくなった。兄上が生きておられたら、ともあまり切実には感じなくなった」
 「私もです、殿。孫策殿は、孫策殿。殿に従うと決めた時から、そう思っております」
 「天下が見えてくる、と言ったな、周喩。この戦を凌ぎきったら、天下が見えてくると」
 「荊州を、攻略できましょう。揚、荊二州があれば、益州も奪れます。劉表に奪る気がなかったので、益州は独立した国のようになっていたのですから」
「すると、この国は大きく二つに分かれるのか。中原に河北四州を併せた曹操と、南の広大な三州とに」
 「壅州にまだ残る独立勢力、涼州の馬超。これは曹操につくとは思えません。われらにつくことも、ありますまい。南北のぶつかり合いの結果を、じつと見ているはずです。だから、この戦を凌ぎきれば、次には曹操と雌雄を決することになるのです」
 「天下が、まず二つに」
「そこから、殿の天下統一も見えて参ります。そこまでつきつめて考えれば、いま曹操と講和をほかるなどということは、してはならないのです。私は、そう思い続けてきました」
 「私は、素暗しい友を、兄を持ったと思う。それだけでも、生まれてきてよかったと思える」
 従者が、酒を運んできた。本営は活気づいているが、孫権の居室は静かだった。
 こういう思いで、酒を飲めるのは、最後になるかもしれない。待っているのは、滅びなのか。それとも、天下への道のとば口なのか。はじまる。ほじまったら、もう終りなどは見えない。
 孫権も、ほとんど言葉を発しなくなった。
 天下への道。幻で終るのか。夢としてそれを掴むのか。心は、乱れてはいない。なんの迷いもない。孫権も、同じだろう。
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■曹操は赤壁の戦いには隙があったと

<本文から>
  「すぐに駈ける」
 「三千騎は、いつでも」
 なにか、やり残したことがあるような気がした。しかし、思いつかない。
 思いつかないまま、曹操は馬に乗った。
 「江陵だ、許ト。私を、生きたままそこへ連れていけ」
 「身に代えて」
 許トの言葉は、短かった。すでに、三千騎は駈けはじめている。
 後ろから、赤い魔物が襲ってくる。そんな感じだった。曹操は、ふりむかなかった。この風の中で、炎がどれほど荒れ狂っているかは、見なくても想像がつく。
 負けたのか。この自分が、負けたのか。
 駈けながら、はじめてくやしさの中で曹操はそう思った。荊州では、遮る者とてなかった。揚州軍と対峙しても、負けるはずのない三十万の大軍を擁していた。
 それでも、負けた。
 かつて、圧倒的な大軍を相手に勝ったことが、何度かある。大軍には、どこか隙がある。そう思ったものだ。今度は、自分の方に隙があったのか。しかし、こんな季節に、南の風が吹くということがあるのか。河北でも中原でも、冬は北風が吹き続ける。
 風は、吹くのだ。それを周喩は知っていて、自分は知らなかった。それが、隙というものなのだろう。
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■曹丕と曹植の後継について

<本文から>
  曹丕と曹植。この二人の、どちらかにするしかなかった。将来を見越した者が、それぞれの下につき、次第に派閥を形成しはじめてもいるようだ。
 そして、このところ曹丕と曹植も、後継を意識した動きをしばしば見せる。
 放っておいていいことだと、無論曹操は思っていない。最後まで後継を決めず、兄弟の相克を招いた袁紹の例もある。近くは、劉表が、やはり後継の指名で躓いた。
 曹丕を後継にした場合、自分がいなくなった後は、弟を殺すだろう。殺さないまでも、相当なことはするだろう。曹植は、この曹操の息子としては、信じられないほど惨めな人生を送ることになる。そういう曹丕の冷たさが、このところ曹操にはよく見えた。
 曹植にしたら、どうなるか。曹植は多分、兄をほとんど後見のような立場に置くだろう。最初は立てながら、徐々にその力を削いでいく。それが、曹植のやり方のはずだ。その間に、幕僚の間で争いが起きる。兄を立てるということは、曹丕に付いた幕僚も立てるということになるからだ。
 曹丕、と決めるべきだった。曹植は、やほり甘い。
 しかし、曹操の情は、曹植に大きく傾いていた。
 後継で躓く者を見て、なんと馬鹿な真似を、と思ったのは一度や二度ではない。選ぶことの苦しさが、はじめて曹操にもわかってきた。ここ数年で、骨身に沁みたと言ってもいい。
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■諸葛亮と周喩との最後

<本文から>
  「孫策の呪縛から、逃れたと思った時からでしょう」
 益州を奪る、ということを周喩は否定もしなかった。
 「孫策という方は、それほどに」
 「天才なるがゆえに、孤独でもありました」
 「会ってみたかった。一度だけでも」
 「私も、諸葛亮殿と孫策を会わせてみたかった。いま、ふとそう思いました」
 それから、周喩は海の話をはじめた。揚州には、河があるが、海もある。海の話は、夢の話に似ていて、どこかやさしく、現実感もなかった。
「縁というのは、不思議なものだな、諸葛亮殿。私は孫策に会わず、あなたに会っていたら、自分自身が覇者になろうとしたかもしれない。あなたほ、覇者ではなく、覇者を作る人だ。私は、自分もそうだと思っていたが、あなたを見ていると違うとはっきり言える。
私の、覇者たらんという思いを潰したのは、孫策です。孫策に従い、補佐し、孫策を覇者とすることを、自分の夢にしてしまった。あなたが私のそばにいれば、私は自らが覇者たらんとしたと思う」
 「覇者、周喩公瑾を、私も見てみたかったような気がします」
 「こうして、敵味方になる。めぐり合わせだな、これも」
 まだ、敵味方ではなかった。しかし、いずれそうなる、と周喩は見通しているのだろう。
 兵士が、幕舎の入口に姿を現わした。
 「諸葛亮殿、私はこれから夷陵まで行かなければならん」
 「私は、帰ります。むこう岸へ。お目にかかりたい、と思っただけですから」
 周喩が笑った。そして、かすかに額いた。
 「とりとめのない話。悪いものではないな、諸葛亮殿。あなたと、もう一度話す機会があるとは、どうしても思えないのだが」
 「私もですよ、周喩殿。これが最初で最後でしょう。これからは、面倒なことがいろいろ起きます。そこで話すことがあったとしても、もう土の話などできません」
 「そうだ、できはしない。できないのが、当たり前なのだと思う」
 それだけ言い、周喩は腰をあげた。
 孔明は、歩いて船まで戻った。開平と陳礼が、心配そうな表情で待っていた。
 「帰ろうか」
 「周喩殿が、機嫌のよさそうな表情で、船に乗りこみましたが」
 「私も、機嫌は悪くないのだ、開平」
 開平が片手を挙げて合図すると、船はゆっくりと動きはじめた。
 帰りは、速い。流れに乗るからだ。
 周喩は、遠からず死ぬだろう、と孔明は思った。無性に会いたくなった。会ってくるということは、劉備だけに伝えた。なぜ、とも劉備は訊かず、ただ頷いた。
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