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          北方謙三−三国志(4)列肆の星

■何故、張飛が劉備を慕うのか

<本文から>
 欲がなさすぎる。そう思うことがしばしばあったが、それが同時に、張飛にはたまらなく魅力的でもあるのだった。子供のころから、限の前にあるものを奪い合う生活をしてきた。欲しいか欲しくないかより、奪えるか奪えないかだった。大抵のものは、奪った。それでも、気づくとなにひとつ持ってはいなかった。欲しいと思うものを、よく見きわめて手に入れ、それをほんとうに自分のものにするために、さらに努力をする。それを教えられたのは、関羽と出会ってからだった。十六歳の時で、ほんのひと掴みの岩塩を盗もうとして見つかり、両手を切り落とされそうになった友人を助けに、役所に暴れこんだ。ひとりで数十人を相手に暴れたが、息があがってもう駄目だと思った時、関羽が助けに入ってきたのだ。そのまま二人で役所から逃げ、一年間の旅をした。旅をしながら、さまざまなことを教えられた。
 そして、劉備に出会った。十七歳だった。
 賊に奪われた馬群を取り返し、そのまま信都まで運ぶ、という仕事をしていた。張飛も関羽も、それに加わらないかと勧められたのだ。加わったのは、面白半分だった。もしかすると、そのまま賊徒になっていきそうな集団かもしれないと思い、その時は抜けようと関羽と話し合った。
 取り戻し方は、鮮やかだった。そして依頼主に頼まれた通り、賊を蹴散ちしながら馬群を信都まで運んだのだ。
 信義を、しっかりと持っている男だ、と張飛は思った。賊をどうやって追い払うかという、戦の駈け引きにも長けていた。
 それだけなら、驚きはしなかった。
 はじめての、戦らしい戦だったという。ふだんは、軟県の郊外の村で延を織り、それを売って生業を立てているのだという。それがほんとうのことだと、軟県に戻ってみるまで信じられなかった。そのくせ、学問は修めていた。血筋は、中山靖王の末裔で、漢王室に連らなるという。
 そういう驚きの連続よりも、劉備といるとなぜか自分が安心していることに気づいて、張飛は戸惑ったものだった。不思議に、自分が出せた。出した自分を見て劉備に叱られると、それは改めようと思った。
 安心ができるということは、いまも昔も変らない。自分がどんなふうに死んでも、劉備ならいつも、卑怯ではなかったということだけはわかってくれるはずだ、と張飛は思っていた。
 劉備が、なぜ自分たちを魅きつけるのか、関羽と語り合ったことがある。余人には持ち得ない、志があるからだ、と関羽は言った。志については、張飛はよくわからなかった。自分が、志を抱くような人間ではない、ということだけがよくわかる。志を持った人間に従うのも、立派な志だと関羽はよく言う。そんなものだろう、と張飛は思っていた。
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■拠って立つ土地がない劉備は耐えた

<本文から>
 曹操は、大きくなった。しみじみと、そう思った。その大きさを、自分の器量では測りきれない、という恐怖に似た感情にさえ、劉備は襲われた。
 啄県を出て、十五年だった。
 この十五年の間に、自分はどれほど大きくなれたのか。五千の軍団を抱え、多少人に名も知られるようになった。天下の情勢も、以前よりはいくらか見えるようになった、と思っている。
 しかし、このまままだ耐えるべきなのか。
 拠って立つ土地がなかった。領地というかたちでそれを持つことは難しくなかったが、そうすればひとりで立っているということはできなくなる。大きな勢力を持った将軍の、庇護を受けるしかないのだ。たとえば、曹操。たとえば、蓑紹。それは、拒んできた。自らに、禁じてきた。
 いつまでも、この状態でいいわけはなかった。陶謙から徐州を譲られた時は、明らかに力不足だった。いまはどうなのか。
 五千に増えた兵は、守り抜いている。調練も怠ってはいない。飛薩の秋を待つだけだが、その状態があまりに長く続きすぎているのではないのか。
 天は、自分に秋を与えるのだろうか。
 考えても考えても、戻ってくるところは同じだった。耐えよ。待て。
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■河北で三十万の袁紹軍を破った曹操、敵陣の書を見ずに焼き尽した

<本文から>
 許都に、戻ってきた。
 袁紹を巽州まで追ったが、追いきれなかった。曹操軍も、ほぼ限界に達していたのだ。
 陽武の陣に残されたままの書簡などは、すべて焼き尽した。袁紹と誼を通じるために書かれたものが、ほとんどだろう。戦に勝った以上、誰が書いたか知っても、仕方がないことだった。誰でも、自分を守りたいと思うのは当たり前だ。
 それを見ずに焼き尽した、ということの効果も、曹操はしっかり考えていた。疑心暗鬼が消える。怯えも消える。それは、これから生きてくる。
 久しぶりに、館でくつろいだ。
 最後に戦の帰趨を決めたのは、張部の降伏だった。それがなくても勝てた、と曹操は思っていたが、犠牲もまた大きかっただろう。張部は、兵卒として働きたいと言ったが、それは惜しいと、まともにぶつかった曹洪が言った。いまは、夏侯惇の預りというかたちになっているが、いずれ一軍の指揮はさせられる男だった。
 勝ったのだ。館の庭をひとりで眺めたりしている時、曹操はしみじみとそう思った。
 河北四州で、三十万の軍を率いて、袁紹はやってきた。
 若いころから、常に自分の前を歩いていた男だった。器量で劣るとは思っていなかったが、それ以外の大きなものを、袁紹はしっかりと持っていた。後ろを歩くのは仕方がない、と思っていた時期も短くない。
 その袁紹を、破った。
 河北の勢力も、曹操に靡きはじめている。
 長く、苦しい戦だった。よく勝てた、といまにして思う。実力だけではかった。運もあった。策謀で、手も汚した。南の勢力を動かして、自分を挟撃しようという衰紹の戦略は、一度適中すると、完全にこちらを潰すことが可能だったはずだ。
 途中で、弱気にもなった。苛或に、それをたしなめられたりもした。
 それでも、勝てばすべてが手に入る。負ければ、すべてを失う。それが戦だった。
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