その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          北方謙三−三国志(3)玄戈の星

■劉備は一度小沛を捨て時を待つ

<本文から>
 糜竺がうつむいた。五千は、鍛えあげた兵だった。つまらぬことでは.一兵も失いないたくないという思いがある。
「どうなるか先は見えないが、一度小沛を捨てることで、事はうまく転がるかもしれん。曹操にとって、呂布は限障りだろう。足もとを掬われたこともあるのだからな」
「曹操とともに呂布を討てば、徐州は曹操のものとなります。徐州を捨てた時は、取り戻すのは難しくないと思ったのですが、思いのはか、呂布が力をつけました」
 「私も同じだ、糜竺。考えている以上に、呂布は非凡な男かもしれん。戦場で勇猛だというだけでなくな」
 「呂布が力をつけた分だけ、曹操の警戒心も強くなっていると思います」
 曹操は、いずれ袁紹と対峠しなければならなくなる。袁紹は、荊州の劉表と結んでいた。それは、曹操の公孫サンとの結びつきよりもずっと強い。
 もともと、曹操は同盟を嫌う男だ。自分に従う者を受け入れるというかたちで、ここまで大きくなってきた。それは、劉備にとっては驚嘆に値することだった。特に、青州黄巾軍百万を降した、存亡を賭けたあの戦が大きかった。
 自分にはまだ、そういう秋が来ていないのだ、と劉備は思う。それなら、志を胸に秘めたまま耐え続けるしかないのだ。
 「糜竺、呂布とは、完全な敵味方になることはない。曹操のもとに行っても、うまく立回れる。呂布も、本気では怒らぬ。その程度のことにしておこう。天下はまだ、ひとつの流れにはならず、方々で雨が降っては、小さな川の水嵩が増したりしている」
 袁紹、袁術がいる。曹操がいる。公孫サンがいる。荊州の劉表、益州の劉璋、そして徐州の呂布。涼州では、董卓の遺臣たちが力をつけてきているというし、揚州には、袁術のかげに隠れたようにして、孫策がいる。益州でも、漢中郡だけは五斗米道の張魯が固めているという。
 誰が、どの流れに呑みこまれていくのか。一戦一戦で、情勢は動く。
 「まだ待とう、糜竺。幸にして、帝は許都におられ、長安におられたころより、御身のまわりはずっといいという詰も聞いた」
 「曹操が、帝の権威を利用しはじめています。官位など、曹操の思うがままでありましょうし」
 「曹操に、漢王室復興の意志はない、と私は見ている。それは袁紹も袁術も同じだ」
▲UP

■一旦は曹操に屈しても誇りは屈しない

<本文から>
 曹操は、自分に膝を屈しよと言うだろうか、と劉備は思った。いっそのこと、先に屈してしまうべきか。
 流浪の軍のころとは、やり方を変える。すでにそう決めているのだ。ならば、曹操であろうと袁紹であろうと、何度でも膝は屈してやる。心さえ、誇りさえ屈しなければ、それでいい。自分が耐えることで、関羽も張飛も耐えてくれるだろう。
 許都へむかって進んだ。
 三日で、およそ五百里(約二百キロ)。行軍の調練だと武将たちには言い、自分でもそう思いこもうとした。決して、敗軍ではない。
 五日目に、先駈けをしていた糜竺が戻ってきた。曹操が、すぐにでも会いたがっているという。
 軍勢の指揮は関羽に任せ、張飛、超雲ほか二十騎ほどで、劉備は許都にむかって駈けた。
 途中、田畠が拡がっていた。どれも、荒れてはいない。どこまでも続いている田畠だ。以前、このあたりは農民もいなくなっていたが、働いている老の数は多く見かけた。道も整備されている。
 屯田をやっているという噂はほんとうだったのか、と劉備は思った。拠って立つ地がしっかりと固まれば、こんなことも可能になる。同じ土地でも倍以上の兵を養えるようになるに違いない。
 許都に近づくにしたがって、人はさらに多くなった。都とはこういうものだろう、劉備は思った。曹操は帝を推戴することによって、都を作りあげることもできたのだ。ただ、曹操の心の中で、帝の存在が絶対のものとは思えなかった。帝を、十二分に利用している。劉備には、そう見えた。
 許都の城門は開いている。すでに知らされているのか、衛兵は『劉』の旗を見て直立して通した。
 案内の者が駈けてきて、すぐに曹操の館に通された。
 「劉備殿」
 曹操だつた。小柄だが、限には威圧するようは光がある。
 「これは、英雄を迎えることになったな。私は嬉しい。事情はすべて、糜竺という者から聞いた。とにかく、座られよ。急ぎの行軍で、さぞかしお疲れであろう」
 膝を屈しろとは言わず、曹操は劉備の手をとった。指さきにこめられた力が、微妙に劉備の心を刺した。劉備は、ただ頭を下げ、勧められた椅子に腰を降ろした。
▲UP

■漢室復興の志を語らうが呂布は軍人であろうとする

<本文から>
 「まさか。曹操殿も、帝の臣です。私が言っているのは、覇者が帝の最高の臣になればいいということです。ただ、覇者は覇者であり、決して秩序の中心ではなく、民の心の拠りどころでもないということです。覇者であろうと、国の秩序の中心である帝には、決して触れることは許されない。乱世をまとめて、そういう国を作っていく覇者が、いまこそ必要なのです」
「難しい話だな。陳宮は、国は民だという。俺にも、それはわかる。しかし、漢王室四百年の間に、帝は民になにをした。苦しめただけではないのか?」
「この国に、帝がどうあるべきかという考えがなかったからです。しかし、四百年続いた血なのです。それが五百年になれば、高貴で冒し難いものになり、千年続けば神聖なものになる。帝の血を、そうやって純粋なものにしていく、いまは絶好の機会なのですよ」
 純粋な血。つまりそれは、帝を人ではない別なものにしていくということなのか。
 劉備という男が、苦しい闘いをしている理由が、ばんやりとだが呂布にはわかるような気がした。手柄は、いくつも立てたはずだ。それでも、いつまでも流浪の軍であり続け、やっと手に入れた徐州の地も、あっさりと呂布に譲った。譲られたのだということが、いまははっきりわかる。
 誰とも同盟せず、ことさら兵を増やそうともせず、ただ黙々と闘い続けた。それは、心に描き続けた帝の存在のための闘いだった、ということになるのか。
 呂布は、自分を見つめる劉備の眠から、視線をそらした。
 「馬がいて、戟がある。鎧を着て、敵と打ち合う。それが戦のすべてだ、と俺は思っている。そこで、俺は生きている。だから、戦をするのだ、劉備殿。それではいかんと言うのだろうが、俺には陳官がいる。戦の意味は、陳官が考えてくれる。国は民。その考えが、すべてのものに貫かれていれば、俺はそれでいい」
「しかし、呂布殿」
「もうよせ、劉備殿。俺はただの軍人なのだ。ひとりであろうと、数千、数万の兵を率いていようと、軍人である俺は、変らない」
「戦には、志というもがいるのだ、呂布殿。志のない戦に、なんの意味がある」
「つまり、その志を、陳宮が考えてくれる、と俺は言っているのだ。軍人は、兵を精強にし、その場の戦をどう闘うかだけを、考えていればいい」
 熱い心がある。それは、呂布にも伝わってきた。俺の血が熱くなるのは、戦に出る時だけだとも、呂布は思った。
「飲め、劉備殿」
「呂布殿、−私は」
「もうやめよう。そういう志の話なら、曹操にすればいいだろう。帝を擁しているのは、やつではないか」
 劉備がうつむき、しばらくじっとしていた。再び顔をあげた劉備の限から、強い光は消えていた。柔和な、徳の将軍と呼ばれる顔が、そこにあった。
▲UP

メニューへ


トップページへ