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<本文から>
営舎まで、ひと駈けだった。麾下の兵に、出動準備を命じた。
王允のために、董卓を斬ろうと思ったわけではなかった。瑠の恐怖を、取り除いてやりたかっただけだ。
出動準備は、すぐに整った。
黒ずくめの軍勢である。旗を立てていなくても、呂布の軍勢だとは誰にもわかる。長安の民は、見ただけで道の端に避ける。
丞相府から宮中への道筋に、呂布は五百の麾下を配置した。
しばらく待った。方天戟は持っていなかった。黒い鎧に、果報の剣を倣いているだけである。背後に、部下を二人立たせた。
董卓の辛が見えてきた。呂布が立ち塞がると、車が止まった。丞相府から宮中まででも、百名はどの警固の兵がついている。
「これからは、この呂布奉先が警固つかまつります」
「おお、呂布か。なにかあったのか?」
車から、董卓が声をかけてきた。
「なにも。長安は平穏でございます。私はこのところ、妻の病で出仕を休んでおりましたが、ようやく快癒にむかい、まずは董大師の警固からと思いまして」
「それはいい。呂布将軍自らの警固とは、このところなかったことであるな」
董卓は上機嫌だった。
警固の兵をとどめ、呂布は文官だけがついた車の前に立ち、門を入った。
「車を停めろ」
呂布は声をあげた。
「何事だ。すでに宮中だぞ」
董卓の声。濁った、低い声だ。
「宮中なればこそだ。逆臣董卓を討て、との詔が出た」
「なんと申した、呂布?」
「逆臣董卓を討つと。早く車を降りてこい」
二十名ほどの文官は、ひとかたまりになってふるえていた。
董卓が、車から出てきた。さすがに、かつては猛将と言われた男である。剣の柄に手をかけ、すさまじい形相で呂布を睨みつけている。
「おまえとは、父と子ではなかったか、呂布」
丁原が言ったことと同じだった。呂布は、黙って剣を抜いた。董卓も剣を抜く。すでに喘いでいた。
陽の光が降り注いでいる。二本の剣が放つ照り返しが、宙でぶつかり合った。きれいな“光だ”と呂布は思った。董卓の額の汗も、輝きはじめている。
「父が斬れるのか、呂布」
董卓の、濁った声。斬れる。言う代りに、呂布はにやりと笑っていた。これで、瑠を恐怖からも解放してやれる。
二歩、前へ出た。董卓が、よろめくように退がった。
「相手をするのは、俺だけだ。多勢で取り囲んで討ち果そうというのではない。俺を斬れば、助かるのだぞ、董卓」
「この裏切り老が。忘恩の犬が」
董卓が突きかかってきた。董卓はいつも、上衣の下に具足をつけている。動きはひどく鈍かった。呂布は、董卓ののどに剣を突きつけた。董卓の鉢が静止した。踏みこむ。同時に、剣を横に払った。
董卓の首が飛んだ。
静まり返っていた。陽の光が、鮮やかに血の色を照らし出す。
「勅命により、逆臣董卓を、呂布奉先が討ち果した」
それだけ言い、呂布は門外に出た。呂布に斬りかかってくる老は、誰もいなかった。 |
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