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          北方謙三−三国志(13)極北の星

■曹操や曹丕は曹叡と違い、戦を前提とした国作り

<本文から>
 「殿は、対蜀戦は、どうあるべきだとお考えなのですか?」
 「周到に待つことだな、尹貞」
 「周到に、待つのですか。それが、私もよろしいと思います」
 蜀は、必ず攻めこんでくる。それを待つ。着実に打ち払うためだけに、すべての力を注ぐ。やがて、蜀の国力は疲弊してくるはずだ。もし攻めるなら、その時に国をあげて攻めればいい。
 いままでとは違うものが、司馬懿には見えはじめていた。
 曹操、曹丕のころと、魏という国は少しずつまた変りはじめているのだ。乱世を生き抜いた曹操はもとより、曹丕も、国というものが、戦を前提として成立している、と考えていたところがあった。民政に力を注いだ曹丕も、やほり戦のための国力という気持は持っていたのだ。
 しかし、曹叡にはそれがない。民政と同じように、戦があり、外交がある。面倒な時は放っておけば、誰かが代りにやるという考えが強いのだ。それは、次第に顕著な傾向になりつつある。
 つまり現実には軍が力をもってくる、ということだった。そして軍の頂点は、曹叡でなく曹真なのである。場合によっては、魏最大の権力をもっているということに、曹叡は気づいていない。
 軍の編成がはじまった。長安と荊州の軍が主力である。洛陽郊外に展開する遊軍もそれに加わるが、かつてのように遊軍に大きな余裕はなくなっていた。少しずつ、戦線に張りつけられることが多くなったのだ。曹丕が死んでしばらくしてから、遊軍は二十万を切るようになった。代りに、荊州、雍州の駐屯軍と、寿春を中心に、呉に対するために展開する軍が増えている。
 曹丕には、曹操の志を継ごうという意志があった。曹叡は、生まれながらに魏の帝なのである。もの心がついた時から、魂という国があったと言っていい。
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■あと一歩で司馬懿を逃した姜維

<本文から>
 あと一歩だ、と姜維は思った。
 司馬懿は、二百騎ほどの旗本に守られて、限の前を駈けている。−馬が、潰れかけていた。駈け回り続け、それから本陣を目指した。無理をさせすぎている。それでも、馬腹を配った。
 司馬懿の背中。槍で貫き通してやる。反転してきて遮ろうとする敵は、槍で瀞ねあげた。何人もが、頭上を飛んで後方に落ちた。
 魏軍の陣地。間に合う。そう思った時、姜維の鉢は宙に浮いた。地面に叩きつけられ、眺ね起きると槍を構えた。敵ではない。馬が潰れたのだ。
 司馬懿の背中が、遠ざかっていった。
 「姜維殿、これを」
 しばらくして駈けつけた張疑が、馬を曳いてきて言った。
 元気のいい馬だったが、もう追うには遅すぎた。姜維は、天を仰いだ。あと一歩が、届かなかった。司馬懿は、命を拾った。
 五千騎は、ほとんど欠けていなかった。
 「掃討がはじまっているぞ、姜維殿」
 張疑が言う。妻維は額き、二万ほどの歩兵がひとかたまりになっている方へ、馬首をむけた。方々で抵抗が打ち砕かれている。
 全身が、血にまみれていた。返り血もあれば自分の血もある。無数の浅傷を受けているようだ。
 「あと一歩だった」
 姜維はまた、駈けながら呟いた。
 残っていた六木の失で、司馬懿のそばの者まで射落とした。槍を脇に挟んで射た矢が、届く距離にまで迫っていたのだ。あと数本の矢があれば。
 騎馬隊が駈け寄ると、歩兵は逃げはじめた。遠くに、防戦しながら後退している軍がいる。張部の軍のようだ。さすがに、数万単位でまとまって後退している軍が多い。本陣を突き崩したといっても、圧勝というわけではないのだ。
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■曹叡を見限った司馬懿の野望

<本文から>
  五十歳を、いくつもすぎた。軍の頂点に立っているが、それが特に大きな意味があるとは、いまは思えなかった。師と昭の二人の息子は、それぞれ目立たないが力を持てる位置に置いた。曹真の息子の曹爽が宮中で力を持っているのに較べたら、慎ましいものだ。
 この国は、いずれ疲弊する、と司馬懿は感じはじめていた。曹叡の持っている二面的な性向は、ますます極端になるとしか思えないのだ。蜀とだけでなく、呉との戦もやがて起きると考えれば、もう財政ももたなくなる。宮殿の造営や気紛れな行幸のたびに、二十万の遠征軍を一年出すのに匹敵する出費となるのだ。
 曹丕が死ぬのが、早すぎた。あと十年曹丕が生きていれば、国の体制は動かし難いものになっただろうし、曹叡に帝の心得を叩きこむこともできたはずだ。
 国の疲弊の先になにがあるかと、司馬懿はひとりの時によく考えた。
 力を持つ臣下が出てくる。そのひとりは、自分だろう。曹叡の持つ軍事的な傾向に合うのは、自分以外に見当たらない。天性のものがあるので、自分を売りこもうとする者など、すぐに見抜いてしまうのだ。
 もうひとりは、曹叡の浪費癖ともいうべきものを、きちんと支える人間だろう。陳葦は、厳しすぎる。浪費の傾向とは正反対のものしか持っていない。とすると、曹爽か。父の曹真には誠実なところがあったが、曹爽は若いころから上に弱く下に強かった。帝のわがままなら、下の者を搾りあげてでも実現しようとするに違いない。
 そしていつか、自分と曹爽は対立する。警戒すべきは暗殺だけで、政事であろうが力の結着であろうが、曹爽に勝てる自信はあった。
 この国で、自分ひとりが吃立する。その時に、帝はどうするのか。
 はっきりとわかるのは、曹叡は魏の帝で満足しているということだ。呉や蜀が攻めてくれば闘うが、こちらから攻めて天下を統一しょうという気は起こさない。
 しかし、この国は統一されるべきだろう。そう考える者は、数多くいるはずだ。それを.糾合すれば、帝位は纂奪できる。不忠という言葉は魏ではあり得ても、統一された国ではあり得ない。それに、帝位は簑奪するものだと現実に示したのは、とりもなおさずこの魏という国だった。
 尹貞が予見したことが、気味が悪いはど実現にむかっている、という気がした。
 しかし司馬懿は、それを息子たちにも語りはしなかった。心の中に、秘めておけばいい。
 そしていまは、軍内の基盤を不動のものにしていけばいいのだ。
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■孔明の最期

<本文から>
 長安は、そこにある。洛陽も、遠くない。いまの軍だけでも、進攻は可能だ。しかし、雍州西部が加わる。涼州も靡いてくる。大軍になるのだ。
 中原まで制すると、次はどこなのか。河北か。それとも、呉か。
 「天下統一は、遠い夢でありましたな、殿」
 孔明は、劉備に話しかけていた。劉備が、なにか答えている。不思議に、声だけが遠い。姿は、すぐそばにあるのだ。
 「しかし、殿。われわれが目指した天下とは、なんだったのですか?」
 劉備が、答える。やはり、聞き取れなかった。
 不意に、胸苦しくなった。痛みもある。またか。しかし、さっきより気味が悪い。
 孔明は立ちあがった。痛みが、激甚なものになってきた。壁に焦れるようにしながら進み、寝台のある部屋へ行った。
 なんなのだ、これは。痛いのか。苦しいのか。呻きが出た。寝台に倒れこんだ。痛みは続いている。胸の上のものを、孔明は払いのけようとした。
 死ぬのか。それなら、それでいい。死が、こういうものだと思うだけだ。しかし、死んでいない。痛みが、さらに強くなっているのだ。
 気が遠くなった。いや、眠ったのか。
 夜明けに、限を開いた。鉢を起こすだけで、ひどく息が苦しくなった。痛みは、もう消えている。しばらくじっとして、それから寝台を降りた。また息が苦しくなったが、構わず執務室まで歩いた。
 やっておかなければならないことが、なにかあったはずだ。
 丞相の後継は、蒋碗、次に費緯。丞相になった者が、大将軍を決めるべし。
 別の紙に、名を書いていく。雍州からの、撤退の順序である。
 自分ほもうすぐ死ぬから、こういうことをしているのだ、と孔明は思った。死を前にしての、動揺ほない。恐怖もない。楽になるとさえ、思わなかった。
 ほかに、書き残すべきことは、なにもなかった。
 そういうものだろう。立ちあがった。死ぬ、という思いは、消えない。
 自分の生涯をふり返ろうとは思わなかった。人は生き、人は死ぬ。それだけのことだ。ゆっくりと、歩いた。部屋の中だ。
 闇が、近づいてくる。その闇に、孔明はかすかな、懐しさのようなものを感じた。闇が、さらに歩み寄ってくる。
 自分が、笑ったのがわかった。
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