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          北方謙三−三国志(11)鬼宿の星

■陸遜は耐えに耐えて蜀軍を破った

<本文から>
 「私のために、あえて憎まれ役を引き受けられましたか、韓当将軍?」
 「なんの。あの者どもは、私の息子同然。戦場で、軍人がどうあるべきか、教えてやっただけです。それも、当然持つべき心得のようなものをです」
 「険悪な雰囲気になりかかっていました。私は、助かりました」
 「闘う方が、楽なのです。だから軍人は、敵を前にすると、すぐ闘いたがるのです。陸遜殿は、耐えておられる。私には、それがよくわかります」
 「楽ですか、闘う方が」
 「相手が精強であればあるほど、闘う方が楽なのです。これは、四十年に及ぶ、私の軍人としての生活から、はっきり言えることです。私が見てきたかぎり、耐えた者の方が勝ちます」
 「お礼を申しあげます、韓当将軍。私は将軍がこの陣に加わられることを聞いて、いささか危倶を抱いておりました。まず、将軍を説得するところから、はじめなければならないのかと」
 「勝敗は、私にもわかりません。赤壁の時は、実は勝てるとさえ思っていませんでした。しかし周喩将軍ほ、風を待って耐えに耐えられました。勝利が見える。そういう人が、軍人の中にもいるのかもしれません」
 「私には、実はなにも見えていないのです。決戦場を、夷陵にすべきか夷道にすべきかということも含めて」
 「それでいいのだ、と思います。周喩将軍も、十倍する敵に、勝てるという見通しは持っておられなかった。しかし、勝った。なにか、私には見えないものが見えていたのだろう、といまにして思います。軍人は、特に指揮官は、気持に映し出されてくるものを、信ずるべきです」
 「他人の意見より、自分の心の中を信ずるべきだ、と私は韓当将軍に教えられた、という気がいたします」
 「私ごときが、陸遜殿になにを教えられます。ひたすら闘いに生きた老兵にすぎません」
 それでも、助けられた。自分でそう思っていればいいことだと思い、陸遜はそれ以上執拗には言わなかった。
 「ついに、蜀の主力が進みはじめました、韓当将軍」
 「らしいな」
 「私は、まだ迷っています」
 「そんなことを、一校尉たる私などに申されるべきではない。大将は、ひとりで迷い、悩み、苦しむものだと思う。私が赤壁に従軍した時は、周玲将軍がおられた。すべての苦しみは周喩将軍ひとりが引き受けられ、私はただ闘うことだけを考えていた」
 その周喩の苦しみを、側近の校尉として陸遜はそばで見ていた。あの時、周喩がむかい合っていた敵は、いまの蜀軍よりほるかに強大だったのだ。
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■馬超死去の知らせ

<本文から>
 馬超が死んだという知らせである。馬超の、劉備と孔明に宛てた遺書も添えられていた。軍は、馬岱が掌握しているようだ。
 もともと、馬超軍のいまの実体は馬岱軍だった。一万を率いる部将として、馬岱は文句のない働きをしている。しかし、馬超が指揮していたころの、他を圧するような迫力はない。
 一族ことごとく曹操に殺されたが、馬岱ひとりが残っている。軍の指揮は、このまま馬岱に任せて貰いたい。
 遺書の内容はそんなもので、劉備に宛てたものも同じ内容らしい。
 馬超が死んだと、孔明は思っているわけではなかった。乱世に背をむけた。多分そうするだろうと、死んだ簡薙も言っていた。
 馬超には、働いて貰った。蜀の将軍のひとりとして留めておくことができなかったのは、軍師たる自分の責任でもあるだろう、と孔明は思った。
 出奔ではなく、死んだということにしてくれたのは、孔明に対する思いやりなのかもしれない。自分のどこかを、確かに馬超は認めてくれていた。
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■劉備は義弟の仇を優先して呉に敗れた

<本文から>
 白帝城に戻った。
 劉備は、斜面の手前に立ち、ばんやりと長江に限をやっていた。背中が、いくらか曲がったような気がする。眼に、いつもの強い光もなかった。
 「よくぞ、御無事で戻られました、陛下」
 「天命かな、超雲。やるべきではない戦を、私はしてしまったようだ。多くの兵を、死なせた。私も、死ぬべきだったと思う」
 「そのようなことを、おっしゃられてはなりません、陛下。馬良も陳礼も、陛下に生き延びていただくために死んだ、と思われなければなりません」
 「一生、それを背負えと言っているのか、超雲」
 「また、そのようなことを。陛下は戦人であられます。戦場での人の死なら、背負いきれないほどでありましょう」
 「おまえは、止めたな、私を。魏こそがまことの敵であると。そんなことは、私にほわかっていた。関羽と張飛を殺した者が、まだ生きている。それが、耐えられなかっただけなのだ。そして、兵を出した。大将の資格はあるまい」
 「それ以前に、人として、男としてのありようを、陛下は大事にされたのだ、と私は思っております。孔明殿の戦略を優先されれば、天下への道は近かったと思います。しかし、人としての思い、男としての思いを捨ててまで、なんの天下だ、と陛下は思われたはずです。陛下が出陣せれてから、私はずっとそれを考えていました。陛下には、その思いがなければならぬのだと、痛いほどわかりはじめました。天下を手にされる陛下にだけは、その思いがなければならないのだと」
 「もうよい、超雲」
 「孔明殿も、そう考えたはずです。人の思いを失った天下であってはならないのです」
 「思い出すな」
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■私怨で数万の兵を死なせたと思う劉備

<本文から>
 戦のことは、あまり思い出さなかった。完膚なきまでに負けた。そう思っているだけだ。関羽と張飛のために、つまり小さな私怨で戦をやり、数万の兵を死なせた。そう言われてはいるだろう。後悔はしていない。男がやらなければならなかったことを、ただやった。
 関羽や張飛のことは、よく思い出す。若いころのことばかりだ。夢は遠く、だから身を切るようなものではなく、流浪は愉しいものだったとさえ思える。流れ歩くことしか知らなかったから、ただ流れていた。
 居室からは、長江は見えなかった。雲の垂れこめた、益州の空が見えるだけだ。雲もまた、流れていた。それを、劉備は寝台に横たわったまま、終日眺めていたりもした。
 侍中(秘書官)が、成都から三人来ている。下女も、何人かいる。劉備にとっては、わずらわしいだけだった。守備隊とは別に、新編成の旗本も一千騎ほどいた。
 一日に一度、侍中が寝台の横にひざまずいて、さまざまな報告をする。
 蜀という国を作り、そこの帝になった。だからこういうことも、仕方のないことなのだ。
 時々、国のことを考えてみる。成都で、孔明が実によくやっていた。自分の敗戦が、蜀を滅亡させるはど大きなものだったことは、よくわかっている。しかしわずかの間に、孔明はなんとか立ち直らせていた。
 民が苦しんだだろう。孔明は、心を鬼にして、民から税を徴発したのだろう。それをさせているのが自分なのだ、ということはあまり考えなかった。そうやって苦労するのが、孔明という男の星であるに違いない。そして寝台にひとりきりで横たわっているのが、自分の星だ。
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■劉備の最期、孔明への遺言

<本文から>
「私が死んだら、呉と和睦せよ」
 「和睦ですか」
 「できれば、連合するのだ。そして北進し、魂を討て」
 「殿が、亡くなられればです」
 「私は死ぬ。死ねば、恨みは消える。関羽、張飛とともに、あの世で孫権を苛めてやろう」
 ほんとうに劉備は死ぬだろう、ということがなぜかはっきりと、孔明にはわかった。呪いたくなるはど、はっきりとだ。
 「殿」
 「いいのだ、孔明。志を果せなかったという無念さもない。力のかぎり、生きたと思う。おまえがいてくれたので、私は大きくなれた。同じ志を抱いて生きてくれたおまえに、苦労だけ残して死んで行くのはすまぬと思うが」
 「私の命は、殿でありました。成都から駈けに駈けながら、はっきりとそう思っていました」
 「孔明、おまえはおまえだ。ただ、ともに生き、ともに闘った。私にとっては、いい人生だったと思う」
 「私は、到らない臣でありました。そのことを申しあげようと思って、駈けに駈けてきました。殿、私は」
 「よせ、孔明。おまえほどの男が、どこにいようか。私はおまえを、臣だと思ったことはない。友であった。いい友を持てて、幸福であった」
 涙が、また溢れ出てきた。劉備は、ほほえんでいる。孔明も笑おうとしたが、涙は止まらなかった。
 「もうひとつ、言っておくことがある。蜀は、おまえに譲ろう」
 「なにを言われます。劉禅様がおられます」
 「禅は、あまりに非力だ。あれの人生を、つらいものにするだけだと思う」
 「この孔明が補佐いたします」
 「ならぬ、おまえが」
 「聞きたくありません、殿。殿は、私を友と言われました。劉禅様をしっかりと補佐し、漢王室再興の志を果すのは、殿に対する私の友情であります」
 「しかしな、孔明」
 「友情さえ認めぬ、と殿は言われるのですか。この孔明が、友情さえ貫けぬ男だと思われますか?」
 劉備が、限を閉じた。
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■孫権は呉の豊かさを目指していた

<本文から>
 呉は、その広さの割りに、人口齢少なかった。荊州では戦乱が続き、それが終る見通しがないので、人が逃げている。帰順してきた交州の人口は、わずかなものだ。
 領土が広ければ、配置する兵の数は当然多くなる。しかし、なかなか新兵を徴発できない。それが、悩みと言えば悩みだった。民政を安定させ、呉が住みやすい国だということになれば、人が流入してくる。それで解決できる悩みだと、孫権は考えていた。ただ、時はかかる。
 魂の曹巫が、あまり戦がうまくないことはわかった。しかし、民政の手腕は相当なものである。統治する組織をしっかりと作りあげ、人口の移動なども把握しているようだ。
 戦ではなく、民政で曹巫と競いたい、という思いが孫権には強かった。領土をこれ以上拡げることに、あまり意味はない。豊かにすることが、第一なのだ。
 国力を充実させて天下を目指すと、陸遜らの軍人には言っているが、孫権の視野に天下はなかった。ただ天下と言えば、軍人にはいつも緊張感を強いることができる。
 なにがなんでも天下にこだわり、持てる力をすべて戦に注ぎこもうとする、蜀の劉備のやり方など、孫権にはどうしても理解し難いところがあった。覇権は、人の欲望の象徴のよらぬものではないか。
 つまり天下を目指すということは、欲望に振り回されているということにすぎなかった。愚かだとしか、孫権には思えない。<BR>
 軍を充実させたいという思いも、魏と蜀が覇権主義で、しつかりと身を守っていなければならないからだ。国内だけでなく、国外にも間者を送るのも、同じ理由だった。
 正式に外交ということができるようになれば、戦はこれまでよりもっとたやすく、回避できるようになるだろう。
 諸葛謹を中心とする、外交を担当する文官も揃いつつあった。
 二度、荊州だけでなく交州にも視察に行くべきか、と孫権は考えはじめた。産業はその土地や気候に合ったものを与えてやるべきだった。そういうことを考えている時は、孫権は充実していた
▲UP

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