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<本文から>
なにが起きたのか、次第に明らかになってきた。
客観的に見れば、曹操のかけた離間の計が、見事に決まったということだ。
劉備は、成都の館の居室で、ひとりで考えこむことが多かった。浜中に集結した軍の大半は、すでに成都に戻っている。孔明も、殿軍とともに雑城に達していて、明日は戻ってくるはずだった。
孫権が裏切り、荊州に兵を出してくるというのは、最悪のこととして孔明の想定の中には入っていた。その場合に備えて、江陵、公安に二刀五千の守兵は残し、ひと月やふた月は城に籠って耐えられるようにしていた。同時に、白帝に王平の率いる部隊を置き、攻囲軍を側面から牽制する態勢も取っていた。
樊城は、明らかに落ちかかっていた。上庸、房陵の孟達軍が支援すればたやすく落ちただろうし、それがなくてもあと十日で落ちたはずだった。樊城さえ落とせば、関羽の軍は十万以上に脹れあがり、宛城の徐晃などひと揉みにしただろう。曹操は洛陽、許都を結ぶ線を防衛線とせざるを得ず、漢中に集結した軍が長安を奪るのはたやすかった。
そうなっていれば、たとえ呉軍が江陵、公安を囲んでいても、兵を退くしかなかったはずだ。
江陵、公安か無抵抗で開城したのは、信じられない誤算だった。白帝の王平が、側面攻撃をする余裕もなかったのだ。上庸、房陵を奪らせた孟達が、言を左右してそれ以上動かなかったのが、第二の誤算である。
孔明は、あらゆる想定をして、そのすべてに備えていたが、自軍の裏切りはそれに入っていなかった。そこまで想定すると、戦は不可能なのである。
裏切られたのは、関羽でもなければ、孔明でもない。この自分自身なのだ、と劉備は思った。長く戦陣にあっても、自軍から裏切り者を出した経験が、劉備にはほとんどなかった。負け戦が多かったが、散り散りになった兵も、やがてはまた集まってきた。ふく
六千はどの、小さな軍だったからなのか。それがいきなり、十万を超える軍に膨れあがりつたから、裏切る者も出るようになったということなのか。理由としては、そんなことを並べられる。しかし、理由を並べてみることに、意味はなかった。 |
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