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          北方謙三−三国志(10)帝座の星

■自軍の裏切りによって関羽を死なせた劉備

<本文から>
  なにが起きたのか、次第に明らかになってきた。
 客観的に見れば、曹操のかけた離間の計が、見事に決まったということだ。
 劉備は、成都の館の居室で、ひとりで考えこむことが多かった。浜中に集結した軍の大半は、すでに成都に戻っている。孔明も、殿軍とともに雑城に達していて、明日は戻ってくるはずだった。
 孫権が裏切り、荊州に兵を出してくるというのは、最悪のこととして孔明の想定の中には入っていた。その場合に備えて、江陵、公安に二刀五千の守兵は残し、ひと月やふた月は城に籠って耐えられるようにしていた。同時に、白帝に王平の率いる部隊を置き、攻囲軍を側面から牽制する態勢も取っていた。
 樊城は、明らかに落ちかかっていた。上庸、房陵の孟達軍が支援すればたやすく落ちただろうし、それがなくてもあと十日で落ちたはずだった。樊城さえ落とせば、関羽の軍は十万以上に脹れあがり、宛城の徐晃などひと揉みにしただろう。曹操は洛陽、許都を結ぶ線を防衛線とせざるを得ず、漢中に集結した軍が長安を奪るのはたやすかった。
 そうなっていれば、たとえ呉軍が江陵、公安を囲んでいても、兵を退くしかなかったはずだ。
 江陵、公安か無抵抗で開城したのは、信じられない誤算だった。白帝の王平が、側面攻撃をする余裕もなかったのだ。上庸、房陵を奪らせた孟達が、言を左右してそれ以上動かなかったのが、第二の誤算である。
 孔明は、あらゆる想定をして、そのすべてに備えていたが、自軍の裏切りはそれに入っていなかった。そこまで想定すると、戦は不可能なのである。
 裏切られたのは、関羽でもなければ、孔明でもない。この自分自身なのだ、と劉備は思った。長く戦陣にあっても、自軍から裏切り者を出した経験が、劉備にはほとんどなかった。負け戦が多かったが、散り散りになった兵も、やがてはまた集まってきた。ふく
 六千はどの、小さな軍だったからなのか。それがいきなり、十万を超える軍に膨れあがりつたから、裏切る者も出るようになったということなのか。理由としては、そんなことを並べられる。しかし、理由を並べてみることに、意味はなかった。
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■馬超と孔明

<本文から>
  「私を、呼び出された理由は、孔明殿?」
 「呼び出したというわけではありません。簡雍殿の病が篤い。それで、馬超殿は成都におられた方がいいだろう、と思っただけです」
 「病については、袁淋から聞いています。孔明殿も、しばしば見舞われているようですな」
 「好きなのですよ、あの人が。諦念を心に抱いたまま、かぎりなく人にやさしい。私は、あんなふうにはなれません」
 従者が、湯を運んできた。
 部屋は整然としていた。彪大な書類などが積みあげられているが、きちんと区分けされているようだ。大雑把なところが、まるでない男なのだろう。その上、異様に鋭いときている。なにかを途中で投げ出すことも、やれる性格ではないようだ。
 乱世では、生きにくい男かもしれない。新しく国家を建設するような時に、孔明の能力は充分に生きるのだろう。蜀は建国中と言ってもいいが、魏と呉という外敵を抱えているその意味では、いまだ乱世なのだ。
 「決心は変りませんか、馬超殿?」
 「決心とは?」
 「死ぬまで、殿の臣下でいる。死ぬまでというのは、あなたが死ぬまでではなく、簡雍殿が死ぬまで、ということではないのですか?」
 やはり、鋭すぎる男だった。簡雍がそう言ってくれと頼んだので、挨拶代りに口にしてみただけである。自分が死ぬまで劉備の麾下にいてくれ、と簡薙は確かに言ったのだった。
 それ以外に、簡雍が特になにか言ったわけではない。乱世の中で、ずっと劉備に従ってきたので、人間の弱さや悲しみもよく見ることができた、という話を酔いながらくり返しただけである。なぜ劉備に従ってきたからそれが見えたのかは、語らなかった。それでもなんとなく馬超は納得したような気分になった。
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■乱世を終わらせるためには関羽へ謀略すべきでなかった

<本文から>
 関羽雲長が、策略に依って死んだ。それで荊州の江南は孫権のものになったし、漢中に集結していた蜀軍も、益州全土に散った。戦の火種は、どこにも見えなくなったのだ。
 関羽を、あんなふうに死なせてよかったのか、という思いが曹操につきまとっていた。ときすでに、群雄が割拠しているという状態ではない。天下は三分され、決戦の秋を迎えつつあったのだ。誰が勝つにしろ、力で結着をつけるべきだったのかもしれない。騙し討ちや裏切りなど、最後の覇権の争いでは意味のないことだ。実際に、呉が領土を拡げただけで、状況は再び膠着に入った。乱世が、まだ続く気配が濃厚である。
 関羽が北進し、漢中の蜀軍が雍州に進出する。そこが、決戦の機だった魏にとっては、非常に苦しい決戦になったことは、間違いない。しかし、そこを凌ぎきって勝ち抜けば、それで乱世は終った。
 いまはもう、乱世を長引かせる戦よりも、終らせるための戦をするべき時だ。その認識が蜀にはあり、呉にはなかった。そして曹操にはあったが、曹丕や司馬懿にはなかった。自分が勝ち残りたいという思いは、誰にもある。それと覇権とは、また別のことなのだ。それぞれの力を出しきって闘う。それが、覇権の争いだろう。
 しかし、曹操は、曹丕や司馬懿の動きを、止めなかった。どこかで、負けることを恐れていたのかもしれない。
 関羽を、騙し討ちで殺した。それが、気持にひっかかっているのは確かだった。
 昔ならば、そういうことはなかった。惜しいとは思いながらも、乱世の常だと思い定めることもできただろう。やはり、老いたのだ。心の、そこここが脆くなっている。しかも、崩れてくるまで、自分ではそれに気づいていない。
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■曹操に最期

<本文から>
 限が醒めた。
 朝になっている。
 声を出そうとしたが、曹操は喋れなくなっていることに気づいた。
 庭の方を、見ようとした。その意思を感じ取ったのか、爰京が曹操の頭を持ちあげ、庭の方にむけさせた。
 冬の庭だ。枯れた色と、くすんだ緑だけがある。そこに、蝶が舞っていた。四つ、五つとそれが見えた。
 夏侯惇、と呼ばうとした。やはり、声は出なかった。
 蛛が、舞っている。冬だというのに、どんどんと増えている。美しいではないか。
 限を閉じた。
 土に還る時だ。そう思った。
 生きてきた時が、次々に脳裡に蘇える。死ぬ時はそうなのだろう、と曹操は思っていた。
 しかし、蘇えってくるものは、なにもなかった。
 すでに、済んでしまっていることなのだ。
 思い起こして、なにを確かめようというのか。済んだことは、済んだことだ。後悔もない。喜びも、くやしさもない。充分に生きてきた。そう思うだけでいいではないか。
 爰京が、湿らせた布で、口を拭った。それが心地よかった。
 死も、こんなふうに心地よいものではないのか。最後に心地よい死があるからこそ、苦しくても人は生きられるのではないのか。
 もう一度、あの夢を見たいと思った。畠を作っている夢。詩を吟じながら、作物を見ている夢。しかし、眠ってはいないのだ。
  限を開けた。
 蝶の数が増えていた。そして眩しい。蝶が、光を発しているのかもしれない、と曹操は思った。土に還る前に、いいものを見た。光を発する蝶。
 また、湿った布が唇に当てられた。
 眩しい。しかし、眼は開いたままでいられる。もっと別の、懐しいものが見えてくるような気がした。いつの問にか、眩しさもなくなっている。
 「鍼を、打たせていただきます、殿下」
 爰京の声がした。はかの声は、聞えない。もの音も、聞えない。
 土に還ろう。
 自分の呟きさえ、曹操には聞えなかった。
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■司馬懿の曹丕との戦略

<本文から>
 しかし司馬懿は、曹操に人を見る限があるなら、曹丕を選ぶと確信していた。曹植は人望があったが、その人望に縛られていた。やがて身動きがとれなくなることは、見えていた。一度得た人望は、失うのがこわいものだ。
 焦燥の中にある曹丕を、司馬懿は抑え続けた。あまり側近を置かせなかったし、なによりも曹丕の閥というものを、家中に作らせないようにした。
 そして、ともに待った。
 まず、副丞相になった。それで後継に決まったわけではないということは、二人で何度も確認した。曹丕を副丞相にすることによって、曹植になにかを伝えようとしている、とも思えたからだ。
 曹丕は、耐え続けた。曹植を後継にという動きは、家中でほさらに露骨になっていたのだ。管玉が耐え続けられたのは、事の本質がなにかを見通す、賢明さがあったからだ。名君の素質である、と司馬懿は思った。
 大らかさがない。軍事の能力では、いくらか心もとないものがある。しかし、冷静な判断力はある。人を見る限もある。
 曹操は魏を建国し、魏公となった。それでも、後継の決定はなかった。唯一の曹丕の側近と言ってよかった自分が、閑職に追いやられたこともある。その間は、曹丕と話もできなかったが、曹丕はひとりで耐え続けていた。
 後継が正式に決定したのは、曹操が親王に昇ってからである。
 呉と蜀が争っている時に曹操の後を継ぎ、すぐに帝に昇った。いま魂は、外敵がいないという状態なのである。その意味で、曹丕は運を持っている。
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■張飛の最期

<本文から>
 「俺も、おまえの唾が飲みたい」
 「そんな」
 「何景の唾を飲んでみたい」
 口を押しっけた。激しい勢いで、何景の吾が張飛の口の中に押しこまれてきた。唾が流れこんでくる。飲んだ。唾とはこんな味がするものか、と張飛は思った。自分の唾には、味など感じない。
 不意に、何景の鉢に力が入り、跳び退った。限を見開き、張飛を見つめている。口が割れ、それが笑ったのだということが、しばらくして張飛に、はわかった。
 「やったぞ」
 何景が叫ぶ。
 「私はやった。おまえは死ぬのだ、張飛」
 「なにをやった、何景?」
 唾。味がした。しかし、唾だ。
 「もはや、吐いても無駄だ。おまえは死ぬ。唾に毒を混ぜた私も死ぬ」
 「そうか、死ぬのか」
 張飛は、一度閉じた限を、開いた。
 いま死ぬわけではない。すでに、俺は死んでいた。多分、そうだ。だから、なんの実感もなかった。
 「酒に混ぜた毒に、おまえはすぐ気づいた。酔っているところを襲わせても、けだもののように反撃してくる。私の巫術にも、惑うことがなかった」
 「そうか、すべておまえか」
 「抱かれている間さえ、隙を見つけられなかった。しかし、私はやった。私も死ぬが、おまえも死ぬ」
 「相討ちだな」
 ゆっくりと、張飛は立ちあがった。
 何景が、指笛を鳴らした。男が二人、影のように現われた。短い剣。張飛は、蛇矛を掴んだ。二人とも打ち倒したが、思ったように鉢は動いていなかった。脇腹に、剣が突き立っている。
 「大きな男だった。壁のようだった。しかし、おまえは死ぬ、張飛翼徳」
 「この剣、致死軍だな」
 「そうだ、私の名は路幽。路何の姉で、路輔の母だ。おまえを殺したら、路輔は列公に取り立てられる。当然なのだ。それだけの血を受けている」
 「そうか。おまえも、死ぬのか」
 路幽が、二、三歩退がった。
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