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<本文から> 翌年の明治六年四月二十九日に、天皇は下総国大和田原に行幸せれ、ここで陸軍の演習を親閲された。
西郷は騎馬でお出でになる天皇のわきについて、七里の道をてくてくと歩いてお供した。元治元年(一八六四)の蛤御門の戦いの時は、西郷は騎馬で薩摩兵をひきいて出陣しているが、その前に沖ノ永良部島での不衛生な生活中に、フィラリヤという、蚊によって感染するといわれる風土病に感染していたのであろう、畢丸がはれて来て、維新戦争の時にはもう馬に騎ることも出来ず、徒歩または駕籠で出陣している。この駕籠には当時の大坂角力の大関陣幕の東物を借りて用いたといわれている。
この下総の大和田原がこの時天皇によって「習志野」と名づけられ、長く陸軍の演習地になった。今鹿児島に建っている西郷の銅像は、この時の西郷の徒歩供奉の姿をうつしたものといわれている。
征韓論がおこり、政府の大問題になったのは、この明泊六年の夏から秋にかけてのことだ。
西郷はついに冠を掛けて故山に帰臥したが、後年天皇は、
「一旦西郷に遣帝大便として行くことを許しながら、途中それを取り消したのは、わしのあやまちであった」
と、仰せられたとも聞いている。
西郷は西南戦役をおこし、ついに職名を着て倒れた。彼が西南戦役をおこした原因や理由については、当時の人々や後世史家がいろいろと解釈をしているが、ぼくにはぼくの解釈がある。しかし、それはこの短紙幅では説明しつくせない。
西南役中から西郷は逆賊ということになって、政府また、西郷が国民的莱雄として最も評判のよい人物であっただけに、その評判をたたきおとすことに懸命につとめ、悪口至らざるはなかったが、天皇は毎夜のように西郷のことを、ご晩酌の時、お側のものにお話しになったという。それは前述した軍艦竜簸で鹿児島にお出でになった時の、西郷のことであった。
「…西郷がおこってのう、むっとした顔になったが、西瓜を引きよせると、こぶしをかためて、グヮンとたたきわった。しずくが顔から、胸に飛び散ったが、拭きもせんで、手づかみでむしゃむしゃ食べとるのよ。こわい顔をして。おかしかったなあ……」
これが、明治二十二卑二月十一日、憲法が発布せられた日、大赦令が出て、西郷の賊名がのぞかれ、正三位を贈られると、ぴたりとやんだというのである。
西郷は天皇にとって最もなつかしい人物であり、それが賊名を着て、悪評にさちされていることは、天皇にとって忍びがたいおんことであったのであろう。上野の銅像はこの時ご下賜になった金を基金にして、人々から募金して建てられたのである。 |
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