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          海音寺潮五郎−加藤清正(下)

■石田は清正を不快に思うようになり、後年の豊臣家の悲劇の原因になった

<本文から>
 小西は清正に言いつめられたが、この論争は二人の間に越えがたい溝をこしらえることになった。前にも書いた通り、小西の講和工作は石田三成の意志を受けてのことである。そのことを小西は清正に言いはしなかったし、清正もそこまで疑ってみはしなかったが、小西はこの顛末をくわしく石田に報告した。だから、石田は清正を快く思わない。
 「くそまじめなばかりで、融通のきかないやつめ!」
といまいましがった。
 二人は少年の時から秀吉につかえ、いわば秀吉の子飼いだ。小姓時代から気の合った仲ではなかったが、それでも秀書にたいする忠誠心は同じであった。誰よりも秀吉を尊敬し、大事に思う点では、優劣はなかった。だから、二人が仲がよかったら、後年の関ケ原役の結果は違った形になり、豊臣家の天下も長く栄えたかも知れないのだが、こんなことがあったために、石田は清正を不快に思うようになり、間もなく石田が、増田長盛、大谷吉継等とともに渡鮮して来て、朝鮮派遣諸軍の監察部となると、益々清正との溝が深くなり、それが後年の豊臣家の悲劇の原因になったのである。石田も、清正も、小西も、決して愚昧な人ではない。その知恵は万人にすぐれていたと言ってよい。それでありながら、七年後のことを見通すことが出来なかったのだから、人間の知恵は知れたものである。かなしいものなのである。
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■清正軍は鬼神の強さがあるが軍規の粛正第一

<本文から> 清正は急には会寧府城を攻めず、脱出するものは脱乱するにまかせ、降伏するものはいのちを助けた。これを聞いて、降伏する者が多かった。会寧府だけでなく、付近の村々も、それぞれの守長を縛り上げて降伏して来る者が多く、日ならず村々は全部降伏し、会寧府は孤立の姿となった。
 会寧府は出陣する者が多かったが、それでも、守備をかたくしてなかなか降伏しそうではなかった。
 ここに、会寧府の役人で、鞠景仁という者がいた。元来、南部の全羅道の役人であったが、罪を犯したため、一族ともども北辺のこの地に遷されて勤務していたのである。かねてから政府をうらんでいたので、復讐の好機到来とばかりに、一族の者共と談合して、二王子とその従臣ら数十人を捕えてしばり上げ、降伏を申しこんで来た。
 清正はその降伏を受入れたが、その際にとったあつかいが実に立派であった。彼は十余騎を従えて城内に入り、二王子とその従者を受取った。皆縛せられている。清正はその縄を解いて、自ら王子らを護って館に案内し、最も手厚く待遇した。
 また、王子には多数の官女らがついている。皆覆面している。清正は兵士らに、
 「顔を見てはならん。着物に触れてはならん。犯す者は斬る」
と厳命して、これまた鄭重に案内し、酒食を供したのだ。
 清正は戦争においては鬼神の強さがあり、当時の在韓の諸将中最も朝鮮軍に恐れられた。やがて明軍も出て来るが、明軍もまた清正を恐れた。しかし、強いだけではなく、その軍規はこれまでしばしば書いたように厳正であり、またこのように礼を知り、情深くもあったのだ。名将といってよい。たとえ、清正がそれほど強くなかったとしても、この一事があるだけで、名将といってよいと、私は思っている。
 ついでに、清正が朝鮮人らに鬼上官とあだ名をつけられていたということについて、私の解釈を書いておきたい。古来、日本ではこれは清正が勇猛であったから、「鬼神のごとき将軍」という意味でつけられたと考えられているが、私はそうは思わないのである。これは清正の着用していた、あの長鳥帽子形の常に由来していると思っている。
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■清正の虎退治

<本文から>
 ところが、その数日後の夜、小姓の上月左勝という少年が、ちょっと用事があって、陣所の外に出たところ、不意に物陰から虎が襲いかかった。
 「出合え!虎だ!」
 と、絶叫したのがやっとのことであった。一撃に首の骨をたたきおられて、絶息したのである。人々がおどろいてかけつけた時には虎も少年もいない。左膳の備刀と草覆とが散らばっているだけであった。
 清正は激怒した。
 「馬ならばまだしも、家来を畜生に殺されては、もうかんにんならぬ」
 と、陣中にふれをまわし、明日虎狩を行う、皆々その心得にて支度せよと命じた。
 夜が明けると、現地の民らが、虎が棲んでいると言っている山を狩り立てた。適当な場所を選定しそこに銃手をそろえて待ち、勢子らをして、鉦・太鼓・園の声等でさわぎ立てさせて、追いこんで来させるのである。
 清正は大きな岩の上にただ一人鉄砲をたずさえてすわっていた。もちろん、鉄砲には強く火薬をつめ、弾丸を二つこめ、火を点じた火縄をはさんであるのである。
 虎はなかなか出て来なかった。
 野獣ほど用心深いものはない。人間は野獣にとって最も危険な敵である。彼らが人間世界に近づくのは、飢えにせまられてよそでは獲物を得る方法のない時忙かぎるのである。猛獣でも、この点は同じだ。出来るだけ人間に近づくのを避けるのである。狩り立てられて、どこか最も草深い熟知か、潮畑の中にひっそりと身を伏せているのだろう。なかなか姿をあらわさなかった。
 半日近く狩っても、出て釆ないので、
 「どうやら、この山から逃げてしまったらしいぞ。虎は霊力のある獣というから、あるいは昨夜のうちに今日のことを予感して、他の山に移ったのかも知れない」
 と、人々は考えたが、その時、突如として、天をゆるがす咆吼とともに巨大な虎があらわれたのである。巨大な頭や、爛とした双眼や、真赤なロや、太くたくましい肩や脚や、長い尾や、身の毛もよだつほどのすさまじい虎である。三十間ほど向うの岩と岩の聞からあらわれ、きっとこちらを見た。
 待ちかまえていた銃手らは、胸がふるえたり
 虎は引きかえそうとするように向きをかえかけたが、勢いづいてさわぎ立てる勢子らのはやしに、思いかえしたらしく、のそのそとこちらに近づく。
 銃手らは一斉に火縄を吹き、鉄砲の台尻を頬につけた。
 「撃つな!おれがしとめる」
 清正は呼ばわった。
 その声に、虎は立ちどまり、きっと清正を見た。
 清正は火皿に火薬をこぼし、火縄を吹いて、鉄砲をあげた。しかし、まだ撃たない。虎との距離は二十間ほどで、遠いとはいえないが、うんと引きつけて、一発でしとめたいのである。
 虎は危険のせまっているのを悟ったらしい。自分をにらんでいる正面の岩の上の人間がその危険の中心であることも知ったらしい。
 猛然として跳躍し、おどりかかって来た。咆吼が谷をゆるがしておこった。鮮血をしたたらしているかと疑われるばかりの、その真赤なのどに狙いを定め、引金を引いた。あやまたず、のどを射つらぬいた。虎ははたきおとされたように転落し、おき上ろうともがき、一声また唱えたが、すぐ動かなくなった。
 これが清正の虎退治と伝えられている話の実相である。槍で退治したとか、この時彼の槍の鎌の一片が虎に食い折られて片鎌槍になったとか伝説されているのは、ウソである。
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■家康は利害打算を別にして清正に好意を感じていた

<本文から> この意味でも、清正をとりなしたいと思ったのだが、そんな利害打算を別にしても、家康は何となく清正に好意を感ずるようになっていた。純情で真っ正直なところが気に入ったのだ、彼自身は決して正直な人柄ではなく、純情さなど皆無な、ドライな性質の人間だが、純情正直な人間が好きなのだ。不思議なようだが、決してそうでない。人間はそんなものなのである。
 一方、利家は、清正の少年の噴からよく知っていて、その重厚で誠実な人柄が気に入っている。秀吉子飼いの大名の中で、最も秀吉に忠誠なのは、この男だと見ている。大いにとりなしてやりたいのである。
 二人が同じように、清正に好意を持つようになったのは、以上のようなわけからであった。
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■人間はやりなれた方法を使いたくなるが、得意な手は一つしか持たない

<本文から> この年の三月、秀吉は最も大仕掛な花見を醍噺の三宝院で行なった。数十万の兵が異国で苦労しているのに豪勢な花見を行なうなど、正気の沙汰ではないが、秀吉にしてみれば、おれの気力はまだ衰えんぞ、このように余裕縛々たるものがあるぞというところを天下に示す必要があると思ったのであろう。こんな方法ではもう追っつかないほど事態は深刻になっていたのだが、人間はやりなれた方法はつい使いたくなるものだ。人間の知恵には限界がある。どんなかしこい人でも、得意な手は一つしか持たないものだ。二つ以上持った人を、私は歴史上見たことがない。
 ともあれ、秀吉はこの花見の直後から病気になり、一時軽快したが、すぐまた重くなり、幼い秀頼のことと、在鮮の将士のこととを心痛しながら、八月十八日、死んだ。
 これは、厳重に秘せられて、在鮮軍も知らなかったのだが、こんなことは味方より敵の方が早く知るもので、明軍の動きはにわかに活発となった。
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■清正は朝鮮で習った大規模な治水を百姓らのために行った

<本文から> 清正の連れて来た技術者は石工だけではなかった。瓦工もあり、陶工あった。他の大名も陶工は召連れたのが多数あるが、石工や瓦工を連れて帰ったのは清正だけであった。
 こんなつもりで、帰国した清正だ。帰りつくとすぐ、領内の河川を見て歩いた。
 遠く水源をさぐって、流れに従って見て下り、土地の高低、流れの屈曲などをくわしい図面に作製し、土地々々で領民中の古老を召し、酒食を供して心を打ちとけさせてから、洪水時のことをくわしく聞いた。
 聞くと、図面によって工夫をこらした。合点の行かない時や疑問が出たりすると、いく度も行って視察しなおし、いく度も呼び出して質問を重ねた。
 肥後は小領主の多かった国である。これらの小領主らは佐々成政の時一揆をおこして、皆ほろぼされてしまったが、佐々はすぐ取潰され、かわって領主になった清正はすぐ朝鮮に出陣したので、河川の堤防は小領主時代のままであった。大きな河川など、自分の領地の部分だけはその場しのぎながら埋防らしいものを築いているが、川全体を考えての境防はないのである。
 だから、領民らは、はじめは恐怖して、質問にたいしてもはかばかしい答えをしなかったが、清正の意図がわかると、心の底からよろこんで協力的になった。
 およそ半年くらいで、菊池川の調査が出来、設計も完成した。あたかもとり入れはすみ、川は渇水期だ。工事にかかった
 水は生きものだ。最もやわらかく、そのくせ最も強靭な生きものだ。最も大きく、また最も微細な生きものだ。どんな小さな隙間にももぐりこんで、しくしくと洗い出し、忽ちそれを大きくしてしまう。最も始末におえない生きものだ。
 治水の要領は、水のこの本質をよく理解することだ。だから、さからってはならない。水の性質に従って、これをだましだまし、海に送り出してしまうことに尽きる。
 清正にはもちろんそれはわかっている。流れの激するところは朝鮮式の堅固な石垣を斜めに築いて力をかわして流し、ある程度以上に増水した場合にはとうてい防ぎがつかないと思われるところは、わざと燥が決潰して、そのへんの田畑は荒されても他には及ばないようにと工夫した。
 これは被害を最小限度に食いとめる方法で、なかなかの知恵なのであるが、この頃ある作家の肥後に取材した歴史小説を読んだところ、その作家はこれは清正が国防のために領民の難儀を犠牲にしたのだと解釈していた。不詮索の至りである。こういう治水法のあることを知らないのである。
 そうして水に犯された土地の領民には、年貢を全免し、救い米を出すことによって救うのである。
 川筋の領民らは、これまでの領主の誰もしてくれなかった、最も大規模な、最も堅固な埋防を築いてもらうことなので夫役を割当てられても、厭うどころではない。よろこんで出役して営々と働いた。
 清正もまた、七年の外征で苦しい財政であったが、餅や酒を用意して、夫役の百姓らをねぎらうことを忘れなかった。
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■清正は天下は徳川家に変わっても豊臣家の存続を願っていた

<本文から>「右府の死後ハ天下が右府の子息方に行かず秀吉様の手に帰したように。だから、豊臣家の天下もやがて徳川家に行くだろう。考えることすら忍びないことだが、そう考えるよりほかのない世の中なのだ」
 このような清正にとって、第一の願いは、
「しょせん、豊臣家が天下人としてつづくことが望まれない以上、大大名としてのこしたい」
 ということであった。
 そのためには、豊臣家は家康と衝突してはならないのであった。協調して時をかせぎ、秀頼様が十五になられた頃、自分や福島や浅野父子や、その他豊臣家恩顧の大名らがそろって、
「天下は徳川殿とり給え。秀頼様には百五十万石下されて大名になし給え」
 と、家康に交渉するのが一番よいと思っているのだ。
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■土木工事は民の利益になると納得させ、夫役を割当てるにも細かい心づかいをした

<本文から> 清正はこの時から十年後には亡くなるのであるが、その間の彼の藩政上の仕事は、河川の治水工事と田畑の潅漑工事、海辺の防潮工事、築城工事に尽きるといってよい。すべて土木工事である。
 土木工事というのは、昔は民によろこばれるものではなかった。現代と違って進歩した機械もなく、ほとんど全部を人間の肉体力でやるのであり、その人間はすべで夫役と称する民の労役によったのだから、当然である。
 秦の始皇帝が万里の長城を築いたことを、史上未曾有の悪政として、中国民族は長く始皇帝を非難した。しかし、実際はこの長城があったために、北辺の蛮族の中国侵入はどれくらい阻止されたかわからないのである。
 っまり、民の心は常に目前のことにある。目前の安寧・幸福と目前の災禍しか見ないのである。せいぜい十年後くらいのことしか考えない。百年後、二百年後のことは彼らには見えない。五百年先きのことに至っては、この世のこととは思われないのである。
 治水事業や築城工事などは、百年後、二百年後、三百年後、五首年後の遠い将来を計算に入れてのことである。民には本当のその効果がわからない。自分の田畑や自分の村が洪水から安全になり、潅漑が便利になることほうれしいから、大いによろこんで夫役にも出るが、それが限度である。そこを越えた為政者の大構想には、難儀がって不平を持ち、怨みを抱くようになるのが常であった。
 清正のこうした工事に、肥後人らは常によろこんで服したと伝えられているが、決してそうではなかったろう。必ずや、相当な不平不満があったに相違ない。
 しかし、清正は天性愛情豊かな人であり、人情の機微にも通じていたから、庄屋や長百姓らに、将来長く民の利益になる工事であることをよく説明して納得させ、夫役を割当てるにも細かい心づかいをしたに相違ない。この当時の民の不平不満や怨恨の話が今日に伝わっていないところを見ると、そうとしか考えようがない。
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■清正は秀頼に十五になっても天下は返されないことを教える

<本文から> 秀頼はまたたき一つせず、聞いていた。色白の庶にかすかに血が上って、目が光を帯びて来たようであった。言ってはならないことを言ってしまったのかも知れない。これまで聞かせないで来たのは、もっともな理由のあることかも知れないという気がして来た。
「それでは、江戸内府は天下の主となるのか」
 声がふるえていた。
 「これまでもそうでございましたので、名がそなわったのでございます」
 秀頼はしばらく黙っていた後、
 「それなら、関白はどうなる」
 「関白は京都御所の官職でございます。位は天下一でございますが、天下の政治には関係なさいません」
 「父様は関白でありながら、天下の主でもあったな」
 また声がふるえていた。
 清正は苦しくなった。よしないことを言い出してしまったと思った。
 秀頼の幼い心に動揺があり、いきどおりがあることは明らかであったが、清正は心をはげました。
 「太閤様は天下のあるじとなられましたので、関白におなりになったのでございます。関白であられたゆえ、天下のあるじであられたのではございません。ここのところは、よくよくおわきまえなさらなければなりません」
 秀頼はロの中で何かしきりにつぶやきはじめた。こちらには聞こえないが、今清正の言ったことをくりかえしながら吟味しているに違いない。やがて、意味するところがわかったようであった。
 「それでは、おれは関白になっても、もう天下のあるじにはなれないのだね」
 ふるえる声で言い、両眼は涙に光って来た。
 清正はまた胸が熱くなり、両眼にめくめくと湧いて来るものがあった。
 「おそれながら、仰せられる通りでございます。よくおわきまえになりました」
 秀頼はしばらく黙っていた。清正から視線をそらし、どこか広間の柱の一つを見ている。
 秀頼の左右や、下段の間に居流れている人々の間に、しずかな動揺がおこった。その人々は皆非難するような目を清正に集めている。
 (よしないことを言い出した)
 と、また思った。
 (しかし、いつかはこれは通らなければならない関所だ。言い出した以上、十分におわかりいただかねばならない)
 と、きびしく覚悟をすえ直して秀頼の顔を凝視していた。ふっくらとした白い楓は青ざめ、ぴくぴくとふるえていた。その頼を涙が伝ったかと思うと、ふるえを声で言った。
 「父様のご遺言のようにはならぬのか。ご遺言では、おれが十五になれば、天下は返されることになっていたのだろう」
 知らず知らずに、清正は平伏していた。痛いほど苦しい思いをこらえ、熱鉄をのみこむ思いで言った。
 「事情がかわって来たのでございます。太閤様のおなくなりになる頃、江戸内府はすでに天下一の大大名でございました。加賀大納言はそれについでの大名でございましたが、江戸大納言は加賀の二倍の大身代でございました。それほどかけへだたった大大名でありました上に、石田治部がよしないことを企てまして、関ケ原の大合戦になり江戸内府が勝ちましたので、一層の大身代となり、天下の大名らの心が内府に集まりまして、ついに天下の主となってしまったのでございます。いたし方なき仕儀でございます。よくよくおわきまえ下さいまして、この度の将軍宣下にも、若君様からご祝儀のお便をお送りになりますように、爺はお願いしたいのでございます」
 一気に核心に突入して言ってのけた。はげしく呼吸のはずむ思いであった。
 秀頼は清正を凝視したまま、きびしく口を結んでいたが、つと立ち上った。そして、
 「爺よ、爺の申すことは、おれにはよくわからないところがある。居間にかえって、よく考えてみる。爺もかえれ」
 と言いすてて、くるりと向きなおった。背後の金地に百花の咲き乱れる春の山に群れ遊ぶ群禽をえがいた華麗な襖が左右にひらき、その間にすらすらと歩き入った。近臣らもつづいて入り、襖はしまり、あとは下段の間にいた十数人がのこるだけとなった。
 清正は平伏していたからだをおこし、人々の目が自分を見つめているのを知った。貴殿はなぜあんなことを申されたのですと、責めなじっているような目の色であったが、清正がきびしい目で見返すと、皆うろたえて視線をそらした。
 (とっくに申し上げねばならぬことを、そなたらが申し上げぬ故、おれが代って申し上げてやったのだ。人はいつまでも温室の中に真綿でくるむようにして、見せぬ、聞かせぬというようにしてはおけぬものだぞよ。そんな姑息なことをつづけていれば、やがてかえって途方もない不幸なことにし奉ることになると知るがよい)
 と、清正は言いたいのであった。
 ゆっくりと立ち上がって、袴のひだを正した。
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■清正の死にあたり

<本文から>
 病勢は目を追って悪化し、ついに六月二十四日、最後の日が来た。今も熊本にある日蓮宗の寺本妙寺に葬った。
 この時、朝鮮からの帰化人金官が殉死した。清正の死にたいする金官の悲哀が一通りでなかったので、何かおこりそうなという予感があって、金家の家人らは用心をおこたらなかったのだが、ほんのわずかな隙に、のどをついて死んだのである。清正の生前の恩顧を慕って、あの世まで従って行かずにはいられなかったのであろう。
 今日、朝鮮の人々の間では、清正の評判が大へん悪い由であるが、それは本来は清正に向けられるべきものではなく、秀吉乃至当時在韓した将士全体に向けられるべきものである。ただ、清正が最も強い武将であったため、その代表と見なされたにすぎない。清正の朝鮮における働きは、名将というに恥じない、恩威ならび行われる、最も見事なものであったことは、ずっと書いて来た通りである。
 清正の死から三年目、大坂の役がおこった。清正が生きていたら徳川家は、それに踏み切らなかったであろうし、もし踏み切っても清正が入城して采配をとれば、決して負けはしなかったであろう。大坂方が負けたのは、城内の将士を信頼させるに足る貫録と力量ある中心人物がいなかったためである。城は天下の名城である。駆り集めの浪人勢ばかりでありながら最初の役−冬の陣では徳川方には全然勝味はなかったのである。清正の死は、すなわち、豊臣家の滅亡だったのである。
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