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<本文から>
小西は清正に言いつめられたが、この論争は二人の間に越えがたい溝をこしらえることになった。前にも書いた通り、小西の講和工作は石田三成の意志を受けてのことである。そのことを小西は清正に言いはしなかったし、清正もそこまで疑ってみはしなかったが、小西はこの顛末をくわしく石田に報告した。だから、石田は清正を快く思わない。
「くそまじめなばかりで、融通のきかないやつめ!」
といまいましがった。
二人は少年の時から秀吉につかえ、いわば秀吉の子飼いだ。小姓時代から気の合った仲ではなかったが、それでも秀書にたいする忠誠心は同じであった。誰よりも秀吉を尊敬し、大事に思う点では、優劣はなかった。だから、二人が仲がよかったら、後年の関ケ原役の結果は違った形になり、豊臣家の天下も長く栄えたかも知れないのだが、こんなことがあったために、石田は清正を不快に思うようになり、間もなく石田が、増田長盛、大谷吉継等とともに渡鮮して来て、朝鮮派遣諸軍の監察部となると、益々清正との溝が深くなり、それが後年の豊臣家の悲劇の原因になったのである。石田も、清正も、小西も、決して愚昧な人ではない。その知恵は万人にすぐれていたと言ってよい。それでありながら、七年後のことを見通すことが出来なかったのだから、人間の知恵は知れたものである。かなしいものなのである。 |
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