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          海音寺潮五郎-加藤清正(上)

■虎之助と市松と左吉

<本文から>
 三人の中では虎之助が最古参でもあれば、年長でもある。従って他の二人を引きまわすことになった。しかし、市松とは遠いながら血のつづいたなかでもあるし、市松は気性のあらい、強情ものながら、気が合ったが、左吉とはどうしてもうまく行かない。水と油のようにとけ合わないものがある。虎之助だけでなく、市松ともうまく行かないようであった。
 俗に言う、虫が好かないというのであったかもしれない。
 左吉はたしかにするどい才気をもった男であった。口も達者である。たとえば、秀吉から何かたずねられたりした場合、虎之助らが答えようを考えてまごついていると、横から左吉がさらさらと答えてしまう。巧みな言いまわしと、適当したことば使いは、聞いていて感心させられてしまうほどである。
 しかし、そのあとでの左吉の、「見たか」と言いたげな、いかにも得意げな顔つきは、癖にさわらないわけには行かない。ツンととがった鼻と細いあごをつき出すようにして、すましている。色白の美しい顔は高慢そのもののようになる。「鼻にかける」というのを絵にかいたようである。
 ある時、虎之助は市松とともに秀吉から十三、四キロの北方にある木之本に使いにやられた。 
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■虎之助は秀吉から絶えず学びつづけた

<本文から>
 その一つ。
 こんな長期戦になると、士卒は退屈する。戦局が膠着して進展しないと、意気も消沈する。秀吉はそのような際における、士卒の気力をはげますことがまことに巧みであった。
 三木城攻囲二年目の春のある夜、秀吉は虎之助らを引きつれて、ひそかに諸陣を巡回すると、ある陣で鼓を打ち鳴らし、小唄をうたう声が聞こえた。近づいてのぞくと、具足を着た兵が三人いて、一人は具足櫃に腰かけて鼓を打ち鳴らし、一人は扇をかまえて謡い、一人は盃をあげて酒をのんでいる。三人ながら、いとも楽しげだ。
 秀吉は虎之助ら供のものをふりかえり、
「退屈せぬ奴ばらじゃな。酒を取らせよ。もっとも、過ごさぬようにとことばをそえよ」
 ときげんよく言って、本営にかえると酒樽をとどけさせた。
 その二。
 ある陣所で空地に青々と野菜を作っているのを見て、
 「これは一段とよい。褒美つかわす」
 と、白米数俵をつかわした。
 その三。
 別所の家来の中村忠滋という者に、密使をつかわして、別所を裏切ってこちらの人数を城内に引入れるなら、重い恩賞をつかわそうと申し入れさせたところ、中村は承知の旨を答えて、娘を人質によこした。しかし、これはいつわりで、つかわした数十人は一人のこらず打ちとられた。
 「憎いやつめ!」
 秀吉は激怒して、人質の娘をはりつけにかけて殺した。
 三木落城の後、中村は行くえ不明になったが、ほど経て、丹波の綾部の山中で発見して、捕えた。
 秀吉は、
 「三木でおれをだましたこと、憎いやつめ、火あぶり、鋸引きにもしてくれようと思ったが、主君にたいする忠節のために、最愛の娘を捨殺しにしたのじゃ。志のほど殊勝でもある。助けてくれる」
 といって、三千石をあたえて召抱えた。
 その四。
 三木開城の時、秀吉は、妻ねねの妹おこいの婿で、執事役をさせている浅野長政に申しふくめて、酒を角樽につめて十荷、種々の肴とともに、鄭重な手紙をつけて別所小三郎におくった。
 小三郎らはこの酒肴をもって、終夜別宴をひらいてなごりをおしみ、翌日、腹を切ったのである。
 その五。
 三木城は兵糧攻めによって、城中飢えて開城したのであるので、秀吉は十数個の大釜に粥を煮立てさせ、開城とともに城兵らに施与して、飢えをすくった。
 その他、秀吉の武将としての機略や、人心の収撹法や、人間としての仁愛心など、ずいぶんあるが、虎之助は一々胸にしみて学びとった。
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■賤ケ獄の活躍

<本文から>
 チータは走獣の中で一番足が速いが、それが獲物を捕える様を見ると、最初に目をつけたやつを一筋に追いかけて、近くを他の獣がうろうろしていても決して心を迷わさないという。ばかなやつだ、畜生の浅ましさだと、人間は批評するが、チータのやり方の方が結局は成騎がよいのである。これは人間の教訓にもなることだ。小気のきいたように見える人間は例外なく器用貧乏でおわるのである。戦場での武功もこれだ。チータ的でなければならないのである。
 執拗に追って来る清正に、相手はついに踏みとどまった。
 「拝郷五左衛門尉が手の鉄敷芦波判ル」
 と名乗って、槍をかまえた。
 拝郷は柴田勝家の家臣中の聞こえた侍大将だ。戸波隼人という名は聞いたことはないが、拝郷ほどの者の隊の鉄砲頭であるなら、相当な武士であることは言うまでもない。清正はよろこんだ。
 「羽柴が馬廻り、加藤虎之助!」
 と、再び名乗るや、エイヤ!と大喝して、突き出した。ずっと後世にまで有名になった穂が片鎌で、にぎり太で二間の柄が青貝ずりになっている槍。
 この槍は、先年東京日本橋の三越本店で展覧会があった時、本多平八郎忠勝の鞋切りの槍とともに、実見した。色々な伝諸肌があって、最初両鎌槍であったのが、一つが欠けて片鎌になったと言われているが、そうではなく、最初から片鎌につくったものであること歴然であった。
 また彼の長鳥帽子形の育も有名であるが、これは朝鮮役に出陣するについて特に調製したもので、この時代にはまだ着用していない。なぜあんな形の胃をこしらえたのかは、先きに行って説明することになろう。
 エイヤとつき出した清正の片鎌槍を、戸波は片足ひいてかわした。戸波の槍は一間半の長さしかないから、人身になって接近したいと考えたからだ。
 清正の槍は戸波の胸板寸前のところをながれた。
 「得たりや!」
 戸波はふみこんだが、同時に清正は槍をくりこんだ。くりこむ時、ここが鎌槍の利点だ。普通の槍の穂先は突く時しか散を傷けることが出来ないが、鎌槍は引く時も損害をあたえることが出来る二戸波の右の二の腕が鎌にかけられ、さっと具足下が切り裂かれ、薄傷だが血がはしった。
 かすったほどの傷だ。勇士である戸波にとっては、これくらいの傷はものの数ではないはずであるが、運というものであったろう、一瞬はっとした。この一瞬のひるみが、いのちとりになった。
 「南無!」
 と、雷のような声で大喝すると、清正はふみこんだ。鎌槍の先きはしたたかに戸波の腹部につきささった。二つの尖端は厚い革具足のおどし日をつき破り、鎌の根元まで通った。同時に、
「首打て!」
 清正は郎党に言いつけて、なお進んで敵をもとめた。この時清正の討取ったのは山路将監であったと「絵本太閤記」が伝えでいるが、それはあやまり。
 火の出るようなはげしい追撃戦だ。佐久間隊はしどろになって逃げた。この追撃の間に、秀吉の馬廻りの若者らは、それぞれによき敵を討ちとった。いわゆる、七本槍、三ふり太刀の武功。
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■加藤家の三十七将と隈本

<本文から>
 清正には、飯田覚兵衛、森本儀太夫、斎藤立本、三宅角左衛門、庄林隼人、和田勝兵衛等のほかに、かねてからひそかに捨扶持をやっている者が三十余人ある。この者共にも便を立てて集めたので、重立った者が三十七騎になった。これは後に加藤家の三十七将といって、有名になった者共である。
 清正はこの者共をはじめとして、侍、下人らを引きつれ、六月十三日に大坂を出帆して、瀬戸内海を西に向い、一週間ほどで、豊後の鶴崎につき、阿蘇の北側を通って二十七日に隈本についた。
 すでに秀吉からの朱印状が来ているので、佐々の遺臣らは静粛に城を守っていて、尋常に引きわたした。清正は佐々の遺臣三百人を召抱えた。
 しばらくは領内の始末に明けくれた。新たに召抱えた佐々の遺臣らに一揆の様子を聞き、強硬で、将来不安のありそうな者は、自ら出かけていって征伐し、一々首を取ってさらした。元来一揆が肥後におこったのは、佐々の政治の拙劣さによるのだから、その後始末をこんな形でするのは、真の正義の観念からすれば正しいと言えないのであるが、こういう場合には恐怖政策もやむを得ないのである。政治というものの限界であり、政治が厳格な意味では必要悪であるといわれるゆえんである。
 清正は幸運であった。すでに佐々によって目ぼしい地侍は退治されて、危険のあるような地侍は一人もいなくなっていたので、日ならず領内は平静になった。
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■天草落城の挿話

<本文から>
 この落城の際、二つの挿話がある。
 清正軍が本丸まで攻めこんだ時本丸の建物の中から、甲南をきびしくつけた三十人ほどの武者が一団となって駆け出して来て、槍、薙刀をひらめかし、勢い猛に斬ってかかる。こちらは大軍のことだ。取りこめて、全部打ちとってみると、これが皆女であった。一人も男はいない。皆おどろいたのであるが、この女子軍のために斬り立てられ、手傷を負うた者が五、六人あったので、悪口を言うものがあった。
 「おなごじゃぞよ。おなごに手を負わせられるとは」
 高いうわさになったので、女子軍に手を負わされた人々は面目なく思った。
 これが清正の耳に聞こえた。清正は家臣らが集まった時、こう言った。
 「しかじかの批判をする者があるそうだが、それは定めし武道不吟味なる若輩者共の言うことであろう。女というものはしょせん助からぬことのわかっている場になっても、いのちおしさにもがくものである。しかも、あの時は決死の覚悟をきめて切って出たのだ。その心は男より堅固であったろう。これに手を負わせられたとて、何で落度であろう。しかしながら、これを討取ったとて、手柄には出来ぬ。一人も漏らさず討取ったをこころよしとするだけのことよ」
 これで、悪口はぴたりとやんだという。清正の心の用いざまはこまやかであったと言えよう。こんなことから、家中の不和やあつれきが生ずるものなのである。
 その二話。
 ある若侍が金ののしつけの刀・脇差をさしてこの城攻めに参加した。のしつけは緊斗付とも書くが、これはあて字で、延付けと書くのが正しい。金ののしつけの刀とは、金の丸鞘の刀だ。金の薄板を鞘の上にかぶせるのだ。この若侍が城の塀を乗り入り、まさに越えようとする時、味方者が二人、うしろから尻を押上げてくれる者がいる。誰かわからないが、
 「かたじけなし」
 と、礼を言い、勇み立って城に乗り入って戦ったが、落城・の後、気がついてみると、刀も脇差も、金の丸鞠が半分以上切りとられていた。押し上げてくれると見せて切り取ったのである。
 人々は、
 「わが差している刀、脇差の鞘を切り取られながら気がつかなんだとは、不覚千万」
 と、うわさして、笑いものにした。
 清正はこれを聞いて、
 「不覚なことはない。城に乗り入ろうと一心に思いつめて、うしろをふりかえらなかったことは、わしはあっばれと思うぞ。武士は場に臨んではそれほど無二無三となるべきである。しかしながら、陣中で金ののしっけの刀、脇差をさしていたのは、ものなれぬふるまいである。そんなものは陣中では差してはならんものである。さりながら、その若者は見所がある。度々場に逢ったなら、必ずよい武者になるであろう」
 といった。
 金ののしつけの刀や脇差をさしている若い武士が、城乗り入りの際、こんなことに逢った話は、戦国時代にはずいぶんある。味方といえども油断のならない時代だったのである。
 さて、清正は本戸城をおとすと小西にわたして、隈本に引上げた。天草は小西の所領で、清正は討伐の手伝いに来たのである。
 隈本でこんどの戦さの行賞をした後、十二月二日、隈本を出発して、大坂へ上った。新しく領地を拝領したお礼言上のためである。
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