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          一坂太郎-語り継がれた西郷どん

■西郷はクセの強い一面もあった

<本文から>
 幕末のころ、西郷隆盛は二度にわたり、流罪に処されている。西郷は、座右の銘であった「敬天愛人」そのままの人物としてイメージされることが多いが、元来は大変クセの強い一面も持っていたようだ。
 安政元年(一八五四)、藩主島津斉彬が郡方書役助で十年も燻っていた西郷を、御庭方に抜擢しようとした際、「粗暴或いは都万にて同役の交わりも宜しからず」と、誹謗する者がいたという(『鹿児島県史料・斉彬公史料・三』昭和五十八年)。斉彬はかえって興味を示し、西郷を使ったという。
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■大久保は何事も手帳に記しておく人

<本文から>
 あまりニコニコと笑っておられるのを見たこともないが、人と議論などがあっても、人が急き込めば、急き込むほど沈着いて来て、ポツリ、ポツリと話をされた。
 それに、夜分によくお話に上がったが、夜が更けるに従って、段々と味のある話をする人で、しっとりと沈着いた話振りであった。
 小さな手帳を持っていて、何事でもその手帳に記めて置く人であって、洋行中などは殊に珍しい事に出逢うことが多いので、始終手帳に記めておられた。
 なんでも人に聞いては、記める。
 私も一度困った事がある。私に、
 「太平洋を初めて渡った人は誰か」
 と聞かれた。
 私も即座にはお答えが出来ず、後にマケーランというのだと分かって、その事を話すと、どういう目的だとか、何年の何月頃、どんな風で渡ったのだとか、綿密に聞かれ、一々説明すると、スッカリ手帳に控えておられた。
 誰にでも逢われた。そして隔てなく話を聞かれる。
 よく人の話を聞く人であった。
 それに人を見る事が上手で、この点では大久保公程の人は、私は知らぬ。
 なんでも黒田清隆さんの頑固にはよほど手こずっておられたと見えて、よく、
 「黒田如助(清隆さんはもと如助と言った)は元気もんじゃ、こやつが言い立ったら何ごとも黙っちょるか、日を経てばらばら話をすると分かる」
 と、言っておられた。
 西郷が二度目の遠島から帰って、公武合体論はひっくり返る。
 たちまち長州と和議が成るしで、維新の騒ぎになったのじゃが、その西郷の帰るまで、英国との戦争から上洛まで、ほとんど君側(久光)の事は、大久保公一人でやられたのじゃが、年も若かったのに、非常な責任を負んで、非常の大事をさばいてゆかれたのは偉いもんじゃつた。
 大久保公は余程沈着いた人と見えて、その頃の世間の若いもん連中は気が立って、気が立って、それはそれは賑やかなものであったが、その中で公が客気に逸って事をしたという話は、一遍も聞いた事がない。
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■城山陥落

<本文から>
 午前九時過ぎ、ようやく陥落し、将卒八十余名死体重なりおれりと。
 城山龍城のはじめは、三百人ばかりの戦闘員あり。その内、病院に収容されしもの百名ばかり死亡者数十名の多きに達せし由なれば、この日健全にして奮闘されし戦士は僅か百余人としか覚えぬ。
 この寡人数を以て雲霞がごとき官軍との合戦、殿方の武者振りは思いやるだに、勇まし陥落の後もなお、官兵岩崎谷を固め、兵士共口々にここも後家さん、かしこも後家さんと聞くもうるさき言い草なり。中には丸ぼちゃの別嫁さんがいたかと尋ねるものありたり。
 また昨日は、久し振りに十年の仇を返したと力むもありき。
 中には濡れたる紙幣を拾いて我が屋の壁に粘付け、乾かば役に立つべしと云うもあり。
 お身は妊娠なるによくもここにおりしと、慰め下さるものありき。
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