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<本文から> 戦国の世、忍者は諜報、後方撹乱、奇襲、暗殺、謀殺、護衛などに図抜けた能力を発揮し各大名にこぞってもちいられた。忍者のもっとも大きな活躍の場はそのころにあった。忍者はほとんど全国各地を股にかけて世人の目のとどかぬ仕事をしてきた。ところが、乱世がおわりをつげても、忍者は不用とはならなかった。治世において、諜報はいっそう必要となった。合戦はなくなっても謀略はそれがためにかえって有用だった。流言ひとつで有力外様大名をとりつぶすことさえできた。領民たちを煽動して百姓一揆をおこし、治世をみだすこともできる。謀殺、暗殺のたぐいは平和時においても横行している。いつの時代でも護衛という任務は忍者にとってうってつけである。戦国の世がおわっても忍者の需要はいっこうに減らなかった。
しかし幕府についていうと、慶長から元和の年代にかけて、忍者のとりあつかいに大きな変化があった。それは(慶長元年一五九六)、初代服部半蔵が他界したことに原因を発する。半蔵の長男正就と次男正重は忍者の頭領としての資質にとぼしかった。嫡男ということで正就が二代目半蔵をつぎ禄高の八分の五を得て伊賀者同心二百人をひきい、正室が禄高の八分の三をついだが、正就は部下の伊賀者たちをよくつかいこなすことができなかった。慶長九年、伊賀者たちは正就に造反し、四谷にある篠寺という禅寺にたてこもった。この騒動で正就は改易され、伊賀者同心二百人は四家の旗本に分属され、そのうちの大久保玄蕃の指揮によって伊賀者はうごいた。四人の旗本の一人服部保正は伊賀出身であるが、半蔵との血縁関係はない。保正は、かつて桶狭間の合戦のとき、信長につかえ今川義元に槍をつけて名をあげた服部小平太保次の子である。慶長のころは徳川家につかえ千五百石を食んでいた。
正就は放浪の後、大坂夏の陣においてかつての妻の実家松平隠岐守定勝の陣を借りてたたかい、奮闘したが、あえなく戦死をした。正重も不名誉な死をとげ、公にいうと一時服部家は断絶した。
しかし、ここに三代目半蔵忠正がいる。忠正は初代半蔵が死んだとき、わずか五歳にしかなっていなかった。初代が晩年において服部家の将来を見とおして、もっともすぐれた配下のくノ一に生ませた子であったノ。将来服部家に後継者が絶えたときのことをおもんばかって、初代がおのれのタネをしこんだのだ。忠正は父が期待したとおり、抜群の天稟をそなえ、大久保玄蕃にあずけられて、たくましい忍者にそだった。
元和二年、忠正は服郡家を再興し、三代目半蔵をつぎ、伊賀者同心二百人を四家からひきとってひきいたが、幕府はこのことを公にしなかった。服部家は断絶のままで、伊賀者同心二百人も四家分属の状態をつづけているがごとく世間に見せた。 |
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