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          南原幹雄−寛永風雲録

■江戸初期における伊賀者の変遷

<本文から>
 戦国の世、忍者は諜報、後方撹乱、奇襲、暗殺、謀殺、護衛などに図抜けた能力を発揮し各大名にこぞってもちいられた。忍者のもっとも大きな活躍の場はそのころにあった。忍者はほとんど全国各地を股にかけて世人の目のとどかぬ仕事をしてきた。ところが、乱世がおわりをつげても、忍者は不用とはならなかった。治世において、諜報はいっそう必要となった。合戦はなくなっても謀略はそれがためにかえって有用だった。流言ひとつで有力外様大名をとりつぶすことさえできた。領民たちを煽動して百姓一揆をおこし、治世をみだすこともできる。謀殺、暗殺のたぐいは平和時においても横行している。いつの時代でも護衛という任務は忍者にとってうってつけである。戦国の世がおわっても忍者の需要はいっこうに減らなかった。
 しかし幕府についていうと、慶長から元和の年代にかけて、忍者のとりあつかいに大きな変化があった。それは(慶長元年一五九六)、初代服部半蔵が他界したことに原因を発する。半蔵の長男正就と次男正重は忍者の頭領としての資質にとぼしかった。嫡男ということで正就が二代目半蔵をつぎ禄高の八分の五を得て伊賀者同心二百人をひきい、正室が禄高の八分の三をついだが、正就は部下の伊賀者たちをよくつかいこなすことができなかった。慶長九年、伊賀者たちは正就に造反し、四谷にある篠寺という禅寺にたてこもった。この騒動で正就は改易され、伊賀者同心二百人は四家の旗本に分属され、そのうちの大久保玄蕃の指揮によって伊賀者はうごいた。四人の旗本の一人服部保正は伊賀出身であるが、半蔵との血縁関係はない。保正は、かつて桶狭間の合戦のとき、信長につかえ今川義元に槍をつけて名をあげた服部小平太保次の子である。慶長のころは徳川家につかえ千五百石を食んでいた。
 正就は放浪の後、大坂夏の陣においてかつての妻の実家松平隠岐守定勝の陣を借りてたたかい、奮闘したが、あえなく戦死をした。正重も不名誉な死をとげ、公にいうと一時服部家は断絶した。
 しかし、ここに三代目半蔵忠正がいる。忠正は初代半蔵が死んだとき、わずか五歳にしかなっていなかった。初代が晩年において服部家の将来を見とおして、もっともすぐれた配下のくノ一に生ませた子であったノ。将来服部家に後継者が絶えたときのことをおもんばかって、初代がおのれのタネをしこんだのだ。忠正は父が期待したとおり、抜群の天稟をそなえ、大久保玄蕃にあずけられて、たくましい忍者にそだった。
 元和二年、忠正は服郡家を再興し、三代目半蔵をつぎ、伊賀者同心二百人を四家からひきとってひきいたが、幕府はこのことを公にしなかった。服部家は断絶のままで、伊賀者同心二百人も四家分属の状態をつづけているがごとく世間に見せた。
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■家光の襲撃の失敗

<本文から>
 家光の行列はちかづいてきた。先頭の旗や槍を持つ男の顔が見えてきた。先払徒士、馬先、口附組頭、徒士組、挟箱……とやってきた。家光の乗物は先頭からだいぶ後方である。葵の金紋を打った異塗の乗物が陸尺にかつがれ、小納戸、側衆、小姓、草履取、徒土日付らの近臣たちをしたがえてちかづいてきた。その前後を鉄砲、弓、槍の各組が警固しながらやって
くる。
 「用意!」
 大膳の命令が山腹の空気をゆるがした。
 狙撃隊となった猟師たちは火縄をはさみ、おもいおもいの姿勢で筒口の狙いをはかった。
 息づまるような時がながれていった。
 大膳はくいいるように黒塗の乗物を凝視しつづけた。
 太陽が雲にかくれて、暫時、盆地は陰におおわれた。
 陰がすうっとひいた。盆地はふたたび日光にさらされた。乗物はおもわぬまぢかなところ
にあらわれた。射程内だ。先頭の槍や旗はすでに正面にさしかかっていた。
 「狙えっ」
 大膳の命令で狙撃手たちの筒口はぴたりと乗物の中央に狙いをつけた。
 乗物はいよいよ真正面にちかづいた。
 「撃てっ!」
 大勝はさけぶように号令した。
 天地をゆるがす轟音が鳴りわたった。約三十丁の筒がいっせいに火を吹き、硝煙とその臭いが山腹にたちのぼった。
 黒い乗物が地上に横転し、行列のくずれたつのが見えた。
 「鉄砲用意!」
 行列が大わらわにみだれるのを見ながら、大膳はもう一度号令した。約半数の弾丸は乗物に命中したといっていい。手ごたえは十分あった。だが、さらに大勝は念を入れた。
 狙撃者たちはふたたび猟師簡を装填した。
 「狙えっ」
 「撃て!」
 大膳の号令とともにふたたび轟音が山間にこだました。
 横転した乗物がふたたび一転し、逆さまにひっくりかえった。文字どおり乗物は蜂の巣だ。
 供揃いは大きくくずれたったが、間もなく旗本は整然とした陣立てに立ちなおり、乗物の向きもなおされた。見ている間に陣立てはふたたび展開し、乗物を中心にして本陣の形がくまれた。
 そしてばらばらと松尾山山腹にむかって突進してくる兵の一団が見えた。兵の数はみるみるうちにふえ、たちまち百人、二百人にふくれあがって、なおも後続の兵がつづいた。
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■徳川家光の将軍宣旨

<本文から>
 元和九年七月二十七日、二条城において、御三家、閣老、諸大名らが参列する中、勅使、院便、副使をむかえて、家光の将軍宣下の儀式が厳粛なうちにおこなわれた。家光は征夷大将軍、右近衛大将、淳和奨学両院別当、右馬寮御監、源氏の長者の宣旨をうけた。
 勅使、院使らがひきあげて後、祝賀に参列した外様大名をあつめて家光は昂然と胸をはって宣言した。
『わが祖父家康が天下を草創したのは、各々方の助力によった。また父秀忠もかつては各々の同輩であった。だから各々にたいしては客分の礼をとってきた。しかしこの余にいたっては、生まれながらの将軍である。各々も譜代大名とおなじく我が家来である。よって今後は他の家来同様に臣過するつもりであるから、左様こころえよ。もし意に満たざるものがあらば、すみやかに本国へ立ちかえられよ。そして去就を決せよ』
 外様諸大名はみな平蜘妹のように平伏し、誰一人として頭をあげる者はいなかった。外様大名はことごとく家光の剛毅果断な宣言の前に声もなかった。
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