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          ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎

■アメリカの民主主義を強く印象

<本文から>
 とにかく、約束どおり船長は、間もなく万次郎に教育を受けさせ始めた。
 家のすぐ近くにある「オックスフォード・スクール」へと万次郎は入学し、そこで初等教育を受けた。捕鯨船での二年間の日々で会話は既に身につけていたが、読み書きはさっはりだ。アレソ先生という女教師の指導のもとで、子供たちに混じって万次郎は懸命にそれを学んだ。
 土佐では寺子屋に通えなかった万次郎だ、日本語の読み書きもほとんど出来ない。
 つまり万次郎は、日本人でありながら、初めて正式に学び身につけたのは英語だったのである。
 自分の思いを文字に綴れる、書かれた物から意味や相手の思いを読み取れる…読み書きが出来るようになっていく時の万次郎の喜びは、どれほど大きかったろう。
 ある日万次郎は何気なく町の公会堂を覗いた。そして驚いた。
 そこでは住民たちが集って自由に意見を述べ合い多数決で町の行政を決めていたのだ。
 万次郎には信じられないことだった。日本では藩や幕府の考えを役人が一方的におろしてくるだけなのだから。民意が反映されるなどということは絶対にあり得ないのだから。
 ″感謝の文化"とともにこの ″民主主義″もまた、アメリカの素晴らしさを万次郎に強く印象づけた。
 そして、国とは放っておけば誰かが動かしてくれるものではなく、自分たちが動かしていくものなのだということを覚った。
 この時の思いが、……後の万次郎の全ての原点となった。 
▲UP

■帰国の理由は日本国への危機感

<本文から>
 万次郎を扱った伝記や小説は数多い。しかしどれを読んでもよく分らないのは、
 「一旦外国の地を踏んだ者の帰国は許さない。もし帰国した場合は死罪」という厳しい規則を知りながら、どうして彼が敢えて「帰国」を決意したのかだ。
 帰国後の取調べに対して万次郎は「国恋しさ、母恋しさのただ一心で」と述べているが、むろんこれは罰を逃がれるための方便の嘘だ。本当に「恋しい」のなら十年も待たずとっくの昔に帰国のための行動を起こしているはずなのだから。この手紙にもあるように、米国捕鯨船に対して港を開くよう日本にはたらきかけるため、と考えるのが多分正解なのだろう。では、一体何が万次郎に日本の「開国」を決意させたのだろう。
 自分を育ててくれたアメリカが日本の開港を望んでいる。だから、受けた恩を返すため力になろうと思ったとする「恩返し」説もある。受けた思を返す″侠気″をうたった美しい理由づけである。
 だが美しいが故に疑わしい。人間、そんなことで命をかけるだろうか?
 恩返しの思いもあったかもしれないが、万次郎に「帰国…開国の促し」を決意させたものはもっと別の、もっと切実な理由だったのではないだろうか。それは、自国への危機感である。
▲UP

■教授館での教育に情熱を注ぐ

<本文から>
 藩主山内豊信(容堂)の大英断という読みも出来ないことはないが、薩摩藩主島津斉彬の存在がからんでいるとする説もある。万次郎を誰よりも評価している斉彬が万次郎獲得に動いているという情報を耳にし、土佐藩は慌てたというのだ。万次郎は使い勝手のある男、他藩に奪われる前に自分たちのものに、という訳であろう。
 真偽や上の思惑の本当のところは解らない。
  そんなことは万次郎にも分らない。だが万次郎は、土佐藩からのその命をありがたく喜んだ。侍への昇格などはどうでもよかった。そんなことではない。道が開けたのだ!
 「国」を守るには 「国」を動かさねばならないと思いつつも、実際どうすればいいのかその方策が掴めないでいた万次郎だった。しかし教授になれば、志ある者たちに自分の思うところを伝えられるのだ。「国」を動かす者たちを、この手でつくり出せるのだ!
 命に従い再び高知に出た万次郎は、教授館での教育に、持てる全ての情熱を注いだ。アメリカを語った。海の外から見た日本を語った。世界を語った。世界との関係において鎖国日本が今どれほど危機的状況にあるかを語った。開国の必要を語った。
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■鎖国によって生まれた「ジョン万次郎」が鎖国をぶち破った

<本文から>
 そして条約締結の知らせを受けた時、万次郎は笑ったかもしれない。
 だって可笑しくて仕方なかったろう。
 十数年前自分が遭難漂流して米国の捕鯨船に救助された時、日本には戻れず遥か遠い国まで行かざるを得なかったのは、日本が外国船の侵入・接近を認めなかったからだ。「鎖国」が自分をアメリカヘと追いやったのだ。
 そして、その結果自分は外から日本を見ることが出来るようになった。日本の危機が見えた。だから日本に帰ってきた。何とか日本を守ろうと「開国」を促すことに努めた。老中に訴え、とうとう国を動かすことになった。
 つまり、鎖国が「ジョン万次郎」を作り、その「ジョン万次郎」が、舞い戻ってきてその鎖国の壁をぶち破るのに一役買った訳である。
 この皮肉な構図を思えば可笑しくてたまらない。万次郎は笑った。
 と同時に、悔し涙が出た。
 確かに日本は開国への第一歩を踏み出しはした。しかし自分が本当に望んだ「開国」とはこんな形ではなかったのだ。
 表舞台にこそ出なかったが、アメリカ側が提出してきた条約実の翻訳作業を万次郎は任されていた。その条約実に目を通すや、後に日本には万国公法という訳で紹介された国際法に精通している万次郎は憤激した。アメリカに最恵国待遇を与える一方、開港場に逗留するアメリカ人の日本の法律遵守義務の規定もないという、一方的にアメリカ優位の極めて不平等なものだったのだ。
「このような屈辱的な要求をこのまま呑んでは絶対にいけないッ」
 万次郎はそう進言した。しかし国際事情にあまりに無知な幕府首脳陣は万次郎のその訴えを切実には受けとめてくれず、結局、アメリカ側の要求をことごとく呑んでしまったのだ。
 もし自分が交渉の席に加わっていればアメリカ側と徹底的に話し合い、とことん互いが遵守すべきことを協議できたのである。
 そう思うと万次郎は悔しくてたまらなかったのである。
 しかし、たとえそれが不平等な条約の締結という形であれ、頑に孤立してきた日本が、″太平洋を挟んだ隣国″ アメリカとの間に架け橋を渡し、国際社会の海へと船出した記念すべき瞬間であることには間違いない。
 そしてそれに万次郎が貢献したことも、紛れもない事実なのである。
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■変化した第二の故郷・フェアヘーブンに帰る

<本文から>
 そして十四歳の時に鳥島で救助された万次郎も、頭に白いものが目立つ四十三歳であった。
 思えばあの″運命のめぐり逢い″から三十年も経っているのである。
 何もかもが懐かしく、思い出話は尽きることがなかった。
 かつて自分が使わせて貰っていた部屋で万次郎がやっとベッドに入ったのは、東の空が白みかけてからであった。
 二十一年間ずっと気になりつづけてきたこと、育てて貰った感謝の言葉と、別れの挨拶もせずに消えたことへの詫びが、手紙などではなく直接会うことで伝えることができたのである。肩から重い荷をやっと降ろせた思いで、万次郎は眠りについた。
 だが長くは眠っていられなかった。翌日は早朝からとんでもない大騒ぎになったのだ。オックスフォード・スクールやバートレット・アカデミーで一緒に学んだクラスメートをはじめ、昔の友人知人たちがドッと押し寄せてきたのである。そしてその数はどんどん増えていくのだ。
 人から人へ、口からロヘ、
 「ジョン・マンがお礼を述べに帰って来た!」
 「ジョン・マンだよ、あのジョン・マン!」
 ニュースがフェアヘーブンの町中を駆けめぐったのだ。
 連れ出されてみんなと一緒に思い出の町を散策しながら万次郎はフと思う。自分はこの町を″第二の故郷″と思ってきた。ならば遭難漂流から十年目に日本に帰ったのも「帰国」なら、今のこれも、二十一年日のもう一つの「帰国」なのかもしれない。
 やはり訪ねてきてよかった……、そう思った時、万次郎は目にした。
 フェアヘーブンの港は変わり果てていた。対岸のニューベッドフォードの港にも、捕鯨船がまばらに停泊しているだけだった。
 かつてはあれだけ捕鯨船で溢れ返り、ひっきりなしに出船入船の光景が展開されていた″世界一の捕鯨基地″ が、まるで嘘のように活気を失っていた。
 鯨油の担ってきた役割がどんどん石油に取って代わられているのは万次郎も承知していたが、目前に見る光景には心迫る寂しさがあった。
 苦さとともに万次郎はこの時覚った。
 もう捕鯨の時代は終わったのだ。
 もう、時代は変わったのだ。
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■万次郎が現在に至る日米交流の歴史をつくった

<本文から>
 この年建国二百年を迎えたアメリカが、その記念行事の一つとしてワシソトンのスミソニアン博物館で催した『海外からの米国訪問者展』で、万次郎を取り上げたのだ。
 それは、米国を訪れ、後に自国に戻ってからアメリカのことを紹介した″外国人〃全二十九名(二十八個人と一団体)を取り上げた展覧会で、チェコのドボルザークやイギリスのディケソズ、イタリアのプッチーニなどと並んで、日本からは万次郎のみが選ばれたのである。
 もちろんそれはとても名誉なことだ。だが、そのように高く評価される人間に万次郎が育つことが出来たのは、全て恩人ホイットフィールド船長の存在があったればこそなのである。
 捕鯨船を下りたホイットフィールド船長は、晩年は地元マサチューセッツ州選出の代議士として活躍した。しかし陸に上がってもその気骨と信念の姿勢は変わらなかったようだ。議員特権として送られてくる鉄道会社の無料パスを、全く使わずに返却するほど、生涯潔癖さを貫き通したといわれている。
 その船長の墓はフェアヘーブソのリバーサイド墓地にある。死別した一人日の妻の墓と、二人日の妻アルバティーナの墓に仲良く挟まれている。その横にはマーセラスの墓。更に右端では、船長がただの一度も抱いてやることの出来なかった、幼くして逝ったウイリアム坊やが小さく眠っている。
 誰も彼もが逝ってしまった。
 しかし、万次郎とホイットフィールド船長の縁は一代限りのものではなかった。
 父万次郎に託された手紙をきっかけに三男慶三郎と船長の長男マーセラスが対面したのを始まりとして、中濱家とホイットフィールド家の交流は、次の代へと手渡されたのである。
 昭和六十二年(一九入七)十月四日、当時の皇太子御夫妻が、「日米友好発祥の地」としてフェアヘーブンを訪問された。
 千五百人を超える人々が集っての町をあげてのその歓迎式典には、中濱家とホイットフィールド家、両家の者たちの顔があった。万次郎と船長から数えれば四代目の者たちである。太平洋戦争という不幸な季節を挟みながらも、途絶えることなく両家の交流は、子から孫へと代々受け継がれてきたのである。
 その御訪問の際、皇太子殿下は英語でこうスピーチされている。
 「フェアヘーブンの方々が、日本人と米国人との最初の友情を大切にし、これを後世の日米両国民に伝えるという歴史的な使命を果たしてきておられることに深い敬意と感謝の意を表します」(朝日新聞)
 万次郎と船長から始まった太平洋を挟んでの日米交流は、中濱とホイットフィールド両家の間だけには留まらなかった。各々の故郷をもつなげた。
 皇太子御訪問の二カ月後、十二月二日、万次郎の郷里高知県土佐清水市と、フェアヘーブソ市ならびにニューベッドフォード市が、姉妹都市として結ばれたのである。
 そして万次郎の没後百十年が経つ現在…。
 ″鯨の時代″はとうの昔に終わったが、フェアヘーブソもニューベッドフォードも、今も″海の町″として立派に生きつづけている。かつて″世界最大の捕鯨基地″だったニューベッドフォードからフェアヘーブソにかけての港は、今では帆立貝の荷扱い量が全米一なのである。
 中濱家とホイットフィールド家の交流も、今では五代目同士による時代となった。
 また、姉妹都市である土佐清水市とフェアヘーブソ・ニューベッドフォード両市との絆も、より強いものになっている。交換留学生制度が設けられたのだ。毎年、万次郎が太平洋を渡った時と同じ年頃の十五、六歳の少年少女を中心に、ホームステイをはじめとする交流を重ねているのである。
 遠い日に万次郎が渡した架け橋を、かつての万次郎のような若者たちが、夢と志を胸に往き来しているのだ。
 若い世代による異文化交流。
 「ジョン万次郎」が残した、最大の遺産である。
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