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<本文から> この翌年から元亀と年号が改まり、その二年に伊勢守が兵法を天覧に供しているから、大口城の敗戦間もなく、蔵人は京上りしたのであろう。昔から丸目蔵人が禁裡北面の武士であったという説があるが、恐らくこれも前に述べた天流の斎藤伝鬼房と同じく、自分の兵法の名誉のために献金して北面の武士の名義を買ったのであろう。北面の武士の制度などなくなって久しい時代なのである。とすれば、彼の京上りも、北面の武士の名を買うのが目的であったかも知れない。
あるいはまた、彼は本職は神職で、神祇大伯の吉田家あたりに用事があって来たのかも知れない。このへんのこと、人吉の郷土史家あたりには調べがついているのか知れない。ご存知の方があったら、ご教示願いたい。
彼は在京中、伊勢守の剣名を聞き、仕合を申しこんだ。伊勢守は申込みを受け、三度立合って三度とも蔵人を打ちこんだので、蔵人は伊勢守の門下生となったと伝える。
伊勢守がよく他流仕合をしたのは、よほどの自信があったからでもあろうが、一つには彼は「しない」の発明者で、これをもって仕合したからだ。おそらく、当時のこととて、
「しないなどでは力がこもらぬ。木剣でなくばいやでござる」
という者もいたろうから、そんな時には相手には木剣を持たせ、彼自身はしないを用いたろう。よほどに自信がなければ出来ることではない。彼がしないを発明したのは、この方が稽古に便利なためであるが、一つには敵を傷つけないためであったろう。彼の人格の立派さがしのばれるのである。 |
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