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          海音寺潮五郎-実説武侠伝

■上泉伊勢守はしないを発明

<本文から>
 この翌年から元亀と年号が改まり、その二年に伊勢守が兵法を天覧に供しているから、大口城の敗戦間もなく、蔵人は京上りしたのであろう。昔から丸目蔵人が禁裡北面の武士であったという説があるが、恐らくこれも前に述べた天流の斎藤伝鬼房と同じく、自分の兵法の名誉のために献金して北面の武士の名義を買ったのであろう。北面の武士の制度などなくなって久しい時代なのである。とすれば、彼の京上りも、北面の武士の名を買うのが目的であったかも知れない。
 あるいはまた、彼は本職は神職で、神祇大伯の吉田家あたりに用事があって来たのかも知れない。このへんのこと、人吉の郷土史家あたりには調べがついているのか知れない。ご存知の方があったら、ご教示願いたい。
 彼は在京中、伊勢守の剣名を聞き、仕合を申しこんだ。伊勢守は申込みを受け、三度立合って三度とも蔵人を打ちこんだので、蔵人は伊勢守の門下生となったと伝える。
 伊勢守がよく他流仕合をしたのは、よほどの自信があったからでもあろうが、一つには彼は「しない」の発明者で、これをもって仕合したからだ。おそらく、当時のこととて、
 「しないなどでは力がこもらぬ。木剣でなくばいやでござる」
 という者もいたろうから、そんな時には相手には木剣を持たせ、彼自身はしないを用いたろう。よほどに自信がなければ出来ることではない。彼がしないを発明したのは、この方が稽古に便利なためであるが、一つには敵を傷つけないためであったろう。彼の人格の立派さがしのばれるのである。
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■武士の出入りはばくち打ちと同様に縄張り争い

<本文から>
 第二には縄張り争いだ。ばくち打ちが、それぞれの勢力範囲をきめて、これを縄張りとして、その範囲内に他の者が入って来てばくち場をひらくことを禁止し、これをおかす者はカをきわめて排撃し、そのためには武力をもって戦い、これを「でいり」と呼んだことは皆知っているが、武士にもそれがあった。
 武士の出入りは合戦と称せられ、後世にはこれが領地の争奪戦となって、何千何万という大軍が動くようになったが、その初期においては十騎二十騎の、ばくちうちの出入りとかわりのない規模のものであった。保元の乱の時、新院(崇徳上皇)側に馳せ参じた鎮西八郎為朝が、夜討の策を献上した時、右大臣藤原頼長が、
 「夜討などいうこと、汝らが同士戦さ、十騎二十騎の私事なり」
 といって献策をしりぞけたことが保元物語に出ているが、当時の地方武士の合戦沙汰が、多くはごく小規模のものであったことがわかるのである。
 規模がこうであっただけでなく、本質もまた縄張り争いにすぎなかったようである。
 今昔物語には、それを立証するような話がいくつか出ている。平維衡と同致頼の合戦、藤原致忠と橘輔政の争い、平維茂と藤原諸任との合戦、皆そのもとは領地の訴訟であるが、それがたがいの威勢争い、意地争いになり、ついに合戦さわぎになったのである。
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■徳川家にたたる村正

<本文から>
 二回目は清康の子の広忠の時である。
 岩松八弥(一説では浅井某、また一説では蜂屋某)という広忠の家臣があった。片目だったので、片目々々と人に呼ばれていたので、
 「その方が通りがよいわ。片目と名字を改めようわい」
 と、片目八弥と自ら名のるようになったともいう。おもしろい風格だけに剛の者でもあったという。
 この男がある日、大酔して登城したが、突然発狂して、刀をぬいて広忠を刺し、太股を傷つけた。これは発狂ではなく、広忠と妻とのなかを疑ってのことという説があるが、情況によって判断すると、その方が正しいようだ。
 とにかく八弥は広忠の太股をつき、人々が狼狽している間に城門を出、濠の橋の半ばまで走り出たところ、その時登城のために橋にさしかかったのが、植村新六郎であった。
 「君を刃傷したてまつった逆臣ぞ!討ちとめよ!」
 と呼ばわる追手の声を聞いて、引っくんで濠におち、首を上げた。主君に刃傷した逆臣を二代ともに即座に討ち取った植村の武運を、
 「よくよく冥加にかなった武士である」
 と、人々はたたえたというが、それはそうだろう。
 この時の八弥の刀がまた村正であった。
 三度目は家康の長男岡崎三郎信康が信長の怒りに触れで緬博した時だ。信康は信長の女婿であった。信康の生母築山殿は今川氏の一族関口氏の女で、家康が今川家に人質となっている時代に結婚させられたのだが、今川義元が死んで、家康が自立した頃から、家康はこの妻にひどく冷たくなった。義元の生きている間は家康にとって最もおそろしい存在であった今川家の一族であるということも、家康には心理的圧迫があったであろうし、家康より十も年上の姉女房だったから大いに飽きも来ていたのであろう。
 築山殿はこれを怒って、甲州の武田勝頼に通謀して、信長と家康は必ず自分の手で除くから、徳川家の遺領は信康につかわしてもらいたいと約束した。これが信康の妻から信長に通報されたので、信長は家康にせまって信康を切腹させよと要求したのだ。
 家康は妻は愛していなかったが、信康には非常に愛情を持っていた。悲しみなげきながらも、せん方なく切腹を命ずることにし、検視役として、服部半蔵正成と天方山城守通経をつかわした。信康は、
「自分は神明に誓って潔白であるが、家のためには死なねばならぬ立場だ。半蔵、そなたとは古いなじみだ。なじみ甲斐に介錯頼むぞ」
 といって腹を切ったが、服部は累代の主君に刃を向けられないと泣いて、介錯しようとしない。そこで、天方が、「ご苦痛見るに忍びませぬ。代って拙者つかまつります」
 と立ち上って、介錯した。その刀がまた村正であった。
 四度目は関ケ原役の時だ。戦いがすんで、諸将が戦勝の賀詞を言上に来ている時、織田有楽斎の次男織田河内守長孝、これは後に加賀の前田家に三千石でつかえた人だが、
これが有楽斎とともに来て今日の戦いに自分の槍が敵の胃を泥をつらぬくよりもたやすくつらぬいたという話をした。
 家康は大いに興味を覚え、
 「よほどのものだな。見たい」
 と所望して、とりよせさせた。
 家康はさやをはらって千段巻のあたりをつかんで、打ちかえし打ちかえし見ているうち、ふととりおとしたところ、鋭い穂先が膝においていた左手の指を傷つけた。家康は顔色をかえて、この槍は村正ではないかと問うた。
「いかにも、村正でございます」
 と、河内守がこたえると、家康は嘆息して、
「村正はわしの家にたたる」
と言ったという。
 以上清康以来四代にわたってこんなことがあったので、村正は徳川家に不祥な刀であるというジンクスが出来た。
 真田幸村が大坂役でいつも村正を帯びて出陣したということを聞いて、水戸光囲が、
 「武士の心掛としてはまさにかくあるべきものである」
 とほめたという話が伝わっている。
 維新時代になっても、勤王党の志士らが好んで村正をもとめて差していたという詰もある。
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■本多平八郎忠勝

<本文から>
 忠勝は家康が天下取りになってから、伊勢の桑名十万石の領主となった。これは慶長六年だから、彼五十三の時である。
 その頃のこと、ある日、靖輪切をたずさえ、騎馬で河原に出、馬上に石突をつかんで振りこころみていたが、帰ると石突から三尺ほどを切り捨て、
「得物は体力に合わせるべきものじゃ」
 といったという。
 かと思うと、やはりその頃のこと、息子の忠政や家来共と舟を揖斐川に浮かべたところ、皆が船頭の梓を借りて、それで河中に密生している葦を薙ぎ伏せて力をこころみる遊びをはじめた。忠政は当時二十七八、父譲りの剛力だ。梓をふるうと、梓のあたるところ三、四尺の間の葦が皆へし折れた。家来共は感嘆し、忠政は自足の色があった。
 忠勝はにがにがしげに見ていたが、黙って梓をとると、触に立ってビューと横にふった。すると、おどろくべし、七、八尺の間の葦は、鋭い刃物で切ったように切断されたので、人々舌を巻いたという。若ざかりの頃はどれほど強かったか、想像もつかない。
 慶長十五年に死んだ六十三であった。彼は生涯五十余度の戦いに臨み、その度に抜群の手がらを立てているが、身に一剣も負わなかったという。これに反して全身傷だらけであったというのは、榊原小平太康政である。
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■千姫

<本文から>
 結婚して間もなく、二人は姫路に行く。ほどなく、二人の間に女子が生まれる。勝姫と名づけられた。これは後に祖父秀忠の養女として、池田光政に縁づく。
 忠刻は部屋住みのまま、軍水三年五月七日、姫路で死んだ。年三十一であった。千姫が嫁して来てから十年目である。後世、千姫の欲求過大で、腎虚して命をちぢめたなどと伝説するが、もちろん、下々の口さがないうわさである。
 千姫はその年十二月六日に江戸にかえり、落飾して天寿院と号し、江戸城内の竹橋御殿に入って東丸様といわれていたが、後に飯田町に天寿院屋敷が建てられて移り、北の丸様といわれた。
 千姫御殿のことについては後世さまざまな巷説が出来ているが、すべて信ぜられない。友人綿谷雪君の研究によると、千姫は縁切寺として有名な鎌倉の尼寺東慶寺が久しく廃絶していたのを再興し、先夫秀頼の娘をその住職にして天秀尼と名のらせたが、その再建にあたって、監督のために時々行くので、戸塚に宿泊所を設けていた、それは戸塚から鎌倉への分れ道のところにあったが、そのあたりは吉田という地名だ、そこでああいう巷説が出来たのであろう、しかし、千姫のこの拳は義理の娘にたいする愛情からのことで、いわば淑徳の発露である、巷説のようなことのあろう道理はないという。
 「吉田通れば二階から招く云々」の唄は、三川吉田(今の豊橋)の宿場女郎の風裁を歌ったものであるとは、昔から言われていることである。
 近頃高柳光寿博士の書かれたものを読んだが、それには千姫が天秀尼のために東慶寺を再興したのは、秀頼の亡魂がひどく崇ったからだとある。千姫にしてみれば、たしかに寝ざめはよくなかったにちがいない。当時の婦人のこと、ノイローゼになっていたであろう。
 千姫は徳川家からおそろしく大事にされ、−全然出もどり娘のようなところなく
 −七十まで生きて、案文六年二月六日に死んだ。
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