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          河合敦−岩崎弥太郎と三菱四代

■どんな過酷な環境に置かれても、知恵をしぼって発展的な努力ができる性質

<本文から>
 このように岩崎弥太郎という男の前半生は、試練の連続だった。しかとつかんだはずのしっぽをちぎって、夢のトカゲはスルリと弥太郎の掌中から逃げてしまうのだ。だが、弥太郎の偉いところは、そうした現実に消沈せずに、前進を続けようとする姿勢を崩さなかったことであろう。
 官途に就く望みが絶えたいま、今度は岩崎家を富家にしようと動き出したのだ。
 弥太郎は安芸川の両岸に広がる荒地の開拓をはじめ、たった一年間で一町もの田圃を切り開いてしまう。この新田は現地の人々から「岩崎開き」と呼ばれた。なお、開墾のさい、洪水の被害から新田を守る堤も構築したといわれる。
 くわえて新たな畑地も開拓し、綿栽培をおこなった。また、香美郡片地山(官有林)を伐採する許可を藩庁から得、薪炭をつくって商人へ卸す計画をたてた。さらに自分でも山を買ったのである。
 この間、長女の春路が生まれ、慶応元年(一八六五年)八月には長男の久弥が生まれた。
 こうしてわずか三年の間に、岩崎家は見事再建されたのだった。
 弥太郎の行動を見て思うのは、結局、出世する人間というのは、たとえどんな境遇に置かれても、成功するのではないかということである。
 おそらく、弥太郎が土佐藩に役人として再登用されなかったとしても、きっと農業経営で成功し、やはり晩年は大きな経済的成功を勝ち取ったろうと、私は確信している。
 では、大成する人間の共通点とは、いったい何なのか。
 思うにそれは、どんな過酷な環境に置かれても、知恵をしぼって発展的な努力ができる性質ではないだろうか。そして、そうしたねばり強い性格は、生まれながらの資質ではなく、後天的なものであり、己の考え方次第で獲得できるものだと、私は信じている。
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■明治政府に出仕でいなくて良かった幸運

<本文から>
 しかしながら、後藤は弥太郎を明治政府に出仕させるつもりはなかった。弥太郎にはこれからも土佐藩の経済官僚として大いに活躍してもらわねば困るし、そのために、上土の地位を与えたわけだ。
 もちろん、弥太郎だって十分それを自覚していたと思われるが、いままでこれだけ土佐藩や後藤のために尽力してきたのだから、新政府に自分を推薦してくれて当然だという認識の甘さがあったようだ。
 だが結局、弥太郎の願いは、後藤に黙殺されてしまった。
 しかし、それでよかったのである。
 もしも明治政府に出仕していたら、弥太郎は確かに後藤の右腕として活躍したことだろう。けれど、絶対に国を動かす政治家にはなれなかったと断言できる。というのは、明治七年(一八七四年)に後藤は征韓論に敗れ、板垣退助とともに政府から出てしまい、弥太郎が死んだ明治十八年(一八八五年)当時もまだ在野のままであったからだ。弥太郎が官途にあれば、間違いなく後藤と行動を共にしたはずだから、自由民権運動を盛り上げるくらいの功績は残したかもしれないが、きっとそれだけで生涯を終えてしまったはず。
 つまり、運命は残酷なように見えて、じつは弥太郎には優しかったのである。
 土佐藩は弥太郎に対し、明治二年(一八六九年)七月二十四日、開成館幹事心得の辞令を与え、開成館大阪出張所(以後、大阪商会と呼ぶ)へ配属した。弥太郎は同年十二月には権少参事、さらに翌年閏十月には少参事に昇進した。少参事というのは、かつての中老にあたる。これは土佐藩の重臣たる地位だ。驚くべき栄達であり、どれだけ土佐藩が弥太郎に期待していたかがわかるだろう。
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■日本国郵便蒸汽船会社との激闘

<本文から>
 三菱商会が生まれた頃は、国内には同じような海運業者が多数存在した。そうしたなかで三菱商会が生き残ることができたのは、弥太郎が遠大な理想を持っていたことが大きいように思える。
 弥太郎は社員に対し「俺は国内の汽船会社に競り勝ち、さらに日本に君臨している外国汽船会社を追い払い、やがては自ら世界に進出してたくさんの海外航路を開き、どの港にも日の丸がはためくようにしてみせるのだ」と語った。
 大きな夢を語れなくては、リーダーとしては失格である。数カ月先のちまちました営業目標をかかげて社貞を叱咤するだけの上司に、社員は決して魅力を感じはしないだろう。
 偉大な起業家の多くは、部下に対して、仰天するような大風呂敷を広げる。しかも当人は本気でそれを実現しょうとしている。
 これは、じつはとても大切なことである。
 そもそも目標というのは、大きければ大きいほどいいと私は思っている。自分の能力などを考慮して設定してはいけない。能力なんて努力次第で何倍にだって膨らむ。限界などないのだ。
 限界があると思った瞬間に、それが大きな壁になってしまう。たとえば、人間は百メートル十秒の壁を超えられないといわれてきた。しかし、どうであろう。一人がその壁を超えた瞬間、それまで破られなかった十秒の壁を続々と乗り越えるアスリートたちが登場してきたではないか。
 いずれにせよ、常識滋とらわれず、遠大な夢を持つこと、それが成功者の必須条件なのである。
 また、大きな目標を毎日のように聞かせられると、もしかしたら実現できるのではないかと思えてくるし、事実、三菱の社員たちは弥太郎の夢に向かってよく動いた。これが、三菱の台頭をもたらした主因であったことは疑い得ないだろう。
 さらなる勝因は、弥太郎に対する外国商人からの絶大な信用であろう。前に述べたとおり、長崎の土佐商会時代から、弥太郎は大きな信頼を得ていたが、その人脈をうまく利用して彼らから資金を調達したのである。幕末のように、土佐藩から無理な商取引を強要される心配もないので、三菱の海運事業は大きな利益を上げ、弥太郎はきちんと期日までに借金を返済したので、喜んで彼らは三菱に融資した。いずれにせよ、かつての信用によって、資金の調達に四苦八苦せずにすんだのである。
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■台湾への輸送を好機と捉えて勝負に勝つ

<本文から>
 もし日本国郵便蒸汽船会社が台湾への輸送を固辞すれば、間違いなく政府は三菱商会に仕事を依頼するはず。それでまんまと三菱が輸送を請け負えば、三菱が台浮出兵にかかわっている間に奪われたシェアを取り戻せるかもしれない。
 岩橋の予想は、見事に的中した。政府は仕方なく、民間の三菱商会に台湾出兵時の兵と食糧の輸送を依頼したのである。
 このとき弥太郎は、ためらわず依頼を快諾した。弥太郎は、この仕事を頼みに来た大隈重信に対し、
 「今閣下の重命を辱うす。光栄これより大なるはなし。敢へて力を尽して政府の重荷に耐えざらんや」 (『岩崎弥太郎傳 下巻』)
 と快諾したという。弥太郎は、
 「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕らえずして逸してしまう。古語にも『幾を知るは、夫れ神か』とある。機会は雲中に現れる蚊龍のごときもので、たちまち隠れてしまう。これを捕捉するには、透徹明敏の識見と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である」 (『東山先気侍記稿杢)
 とよく語ったが、まさに台湾出兵は、三菱にとって「千載一遇の好機」であった。
 雲の中にたちまち隠れてしまう幸運という龍を、弥太郎は見事につかみ取り、己の懐へ入れたのである。
 台湾への輸送は、現在の持ち船だけでは足りないだろうという政府の配慮から、三菱商会は政府が購入した金川丸、東京丸、東海丸の三隻を貸与された。その後も次々と船を貸し与えられてその数はあわせて十隻となった。しかもこれらの船は、さらに三隻を新たにくわえ、台湾出兵後もそのまま委託というかたちで使用することがみとめられた。これは非常に大きな特典であり、船数において三菱商会は日本国郵便蒸汽船会社を凌駕し、海運のシェアもー気に同社を抜き去った。
 同時に、台湾への往復という遠洋航海の経験は、三菱の社員たちの航海技術を向上させることになり、のちに海外航路を開くさいに大いに役立った。ともあれ、台湾への輸送は順調に終わり、三菱商会は、政府の信頼を得ることができた。
 明治八年(一八七五年)五月、政府の最大実力者である大久保利通内務卿は、閣議に海運三策(「商船管掌事務之義二付正院へ御伺案」)を提出した。これは、これからの海運政策に関する提案である。大久保は次の三案を参議(政府高官)に提示して、このうちいずれを採るべきかをはかった。
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■弥太郎の最期

<本文から>
 十一月十一日には胃癌による胃管下口の狭窄がひどく、余命三、四カ月であるとの告知が、医師より家族になされた。
 弥太郎は、癌による胃痛と吐き気に苦しみながらも、共同運輸との闘いに屈する姿勢を見せなかった。頻繁に部下に経営状況を報告させ、このときになっても、みずから直接指令を下したという。驚くことに、側近の亭水治道は、一日四十回も弥太郎の命令で本社と六義園を往復して、連絡にあたったといわれている。
 だが、明治十八年一月、弥太郎は部下の豊川長平に、
「医者は不治ではないというが、自分は再び社会に出て活躍することは覚束ないように思う。治か不治か、真実を聞いてこい」(『岩崎弥太郎傳 下巻』)
 と命じているから、もはや自分の死期は悟っていたようだ。だが、担当の池田謙斎医師は、本人に癌告知をしなかった。
 同年二月に入ると、いよいよ弥太郎は最後の苦しみを迎える。毎日のように胃液とともに大量の吐漬物を吐き、胃内を突き刺されるような激痛に悶絶した。モルヒネがたびたび注射され、ほとんど発声が困難な状況に陥った。
 そして二月七日、とうとう危篤になった。
 同日午後四時、弥太郎は寝返りを打とうとしてにわかに変調を来し、息絶えたのである。だが、医師が劇薬を何度も注射し、気付け薬を鼻に近づけると、再び呼吸を開始した。ただ、苦痛がひどいようで、周囲の者が見るに忍びないほどだったという。
 午後六時、「母と姉妹を呼べ!」と突然大声を発したので、皆が枕元に集まってくると妻に向かい「泣くな!」と言い、「静かにせよ、静かにせよ」と言って、堂々たる遺言を告げ、世を去るのである。
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■戦前の三菱財閥、戦後の三菱グループは弥之助から始まる

<本文から>
 資本と社員の大半は日本郵船へと移り、弥之助の手元に残された事業は、業績の良い吉岡銅山だけ。そのほか、弥太郎が生前手を染めたいくつかの業種があるものの、まだこの時点では採算性が低く、その将来性は未知数であった。ちなみに利益は、出なかったので僧なく、出せなかったのである。政商だった三菱は、政府の保護をうける代償として海運業に専念する義務を課され、原則として他業種への進出を禁じられていた。そのため、三菱ではなく岩崎家の個人的商売として、細々とした経営展開しかできなかったという事情があった。
 もちろん、弥之助がこのまま引退しても、岩崎一族が生活に困ることはなかった。ありあまるほどの資産を弥太郎が生前稼ぎ出してくれたからだ。巨大海運会社となった日本郵船の株券も半分近くが同家のもの。ゆえに何もせずとも、弥之助は安穏と世を送れたのだ。しかし、弥之助の脳裏からは、死の間際における兄との約束が離れなかった。
 「弥之助、我の事業をして墜すことなかれ。弥之助、我の志を継ぎ、我の事業を堕すなかれ」
 死の床で弥太郎は渾身の力をふりしぼって、弥之助に事業の継続を願った。これに対して弥之助も、
 「兄上よ、我が天地の間に身を蕨めて死せざる間は、粉骨砕身して勉励すれば必ずご安心あれ」
 そう誓ったのだ。なのに、それから1年も経たぬというのに、兄が血を吐くような努力をして一代で築き上げた海運業を他人に譲渡してしまったのである。いくら国家や社員のためだとはいえ、弥之助は、おそらく自責の念にさいなまれつづけたことだろう。そして、
「このままで本当によいのか」
 という天声が、絶えず弥之助を叱咤するようになり、やがて、三菱再興−という気持ちが、心の底から沸々と湧き上がってくるようになったのだった。ここにおいて弥之助は、兄の遺志を継いで、もう一度奮起する決意をしたのである。
 明治十九年(一八八六年)三月二十九日、弥之助は政府に新会社の設立を届け出た。
 事業内容は、以下の五つである。
 一、銅山−−吉岡銅山と付属銅山
 二、水道 − 千川水道会社
 三、炭鉱 − 高島炭鉱
 四、造船 − 長崎造船所
 五、銀行 − 第百十九銀行
 本社は、神田淡路町二丁目十一番地に置かれ、社名を三菱社とした。
 世に再び、三菱という名が復活したのである。
  第一岩崎家事務所の称号を三菱社と唱う
  第二 当社役員の進退及び業務の執行は、細大総て社長之を示命すべし。
     他の役員をして決して専行するを許さず
 これは、弥之助が社員に出した「事務規定」、すなわち社則の冒頭部分である。
 社長独裁という弥太郎以来の方針を、弥之助が明確に意識して継承していることがわかる。ただ、弥太郎以来の伝統を受け継ぎながらも、三菱社は以前の三菱商会とは、業種も事業内容も全く異なる、別個の会社であった。
 そして、戦前の三菱財閥、戦後の三菱グループ−この巨大組織は、弥太郎の興した三菱商会からではなく、弥之助が立ち上げた三菱社からすべては発展していったものなのだ。そういった意味では、弥之助もまた、三菱の創業者であったといえる。
 すなわち、三菱という巨大企業は、二人の偉大な創業者を持っているのである。
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■弥之助は日本初のビジネス街を建設

<本文から>
 弥之助の仕事のなかで、私が最も評価しているのは、日本初のビジネス街を建設したことである。現在の丸の内オフィス街がそれだ。
 江戸時代、丸の内二帝は大名屋敷がひしめく地域で、維新後は陸軍省や司法省、農商務省などの兵舎や練兵場、施設に変貌した。
 だが、明治二十年代になると、丸の内を整備して市街地にすることが決まり、陸軍関係の兵舎や練兵場は場所を移すことになった。
 政府は空き地を一括して民間企業に売却しようと考え、約十三万坪を百五十万円で競売にかけたが、あまりに高価で手を挙げる企業がなかった。そこで、松方正義蔵相が、弥之助に買い取りを依願したのである。
 もしこのとき弥之助が断っていれば、おそらくいまの丸の内地区の発展はなかっただろう。
 だが、弥之助は、これを快諾した。
 彼は、この地に一大ビジネスセンターを建設しようともくろんだのである。当時としてはあまりに突飛な構想だった。
 だが、先進諸国にビジネス街あることは、アメリカに留学していた弥之助は熟知していたし、ちょうどこの頃、ロンドンに出張していた重役の荘田平五郎に、丸の内買収の話を打電したところ、やはり荘田も「速やかに買い取るべし」という返事をよこしたため、大きな賭けに出たのである。
 どちらかというと、兄の弥太郎のほうが、弥之助より大胆な経営を展開してきたようなイメージがあるが、それは弥太郎の快活な性格に起因する。弥太郎は、経営に関してはかなりの慎重さを見せた。弥之助は反対である。鉱山業にしても、造船業にしても、そしてこのビジネスセンター計画にしても、むしろ、温厚な弥之助のほうが、経営者としては大胆な英断をおこなっているのである。
 かくして丸の内八万一千坪、三崎町二万三千七百坪を、弥之助は百二十八万円で陸軍省から買い上げたのである。これは、当時の東京市の予算の三倍にあたる額だという。いかに三菱が、危険覚悟でこの土地を入手したかがわかるだろう。
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■久弥の会社組織の大改革に着手し若くして引退した

<本文から>
 会社の業績は順調に伸び、とくに日露戦争においては、造船で大儲けした。ところが、戦後の恐慌で、明治四十一年の純利益は、三十九年に比較すると四割減という危機的な状況を迎えてしまう。
 このとき久弥は、思い切った経費節減とリストラを断行したと伝えられる。
 同時に、会社組織の大改革に着手する。当時の組織を抜本的に変えたのだ。明治四十一年十月のことである。
 各部門に独立採算制を導入、部ごとに資本金を設定し、広範な権限を与えるなど、経営の合理化を推進したのだった。
 この改革により、鉱業部・造船部・銀行部・庶務部の四部が本社から切り離されて独立採算性をとることになり、社員の採用も、それぞれの部が独自におこない、部から部への異動は、基本的にできなくなった。のちに、営業部、地所部がさらに本社から独立した。
 かくして、財閥としてのコンツェルン形態の基本形が整うのである。
 大正五年七月、久弥は突然社長を辞任した。後継者には、従弟(弥之助の楠男)の小弥太が選ばれた。
 この引退は、久弥の独断だったようで、社内だけでなく岩崎一門も驚嘆したと伝えられる。なぜなら、まだ久弥は五十二歳の若さであり、健康に全く問題のない壮健な身体だったからだ。
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