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          永井路子-岩倉具視 言葉の皮を剥ぎながら

■長州の品川は岩倉を家格が低く不安があったが密談をすすめた

<本文から>
 もっともこれは明治になって、二人とも勝利者側に立ってからの品川の回想録にあることなので、そのまま鵜呑みにはできない。
 −弁の立つ男だが……
 むしろ不安は残ったかもしれない。
 なにしろ家格が低い。村上源氏系の久我家の庶流で家禄百五十石、下級の小公家にすぎない。当時の公家社会は平安朝以来の家筋がそのまま通用し、藤原氏の何流というように門流ごとに結束することになっている。その上、厳然たる家格があり、摂政関白、大臣になれる家がはっきり決まっているという窮屈さ。宗家久我家も村上源氏とはいえ、藤原氏には劣るし、まして庶流、小禄の岩倉具視に、公家社会をひっくり返すほどの力があるとも思われなかった。
 しかも具視は、これまで勝札には恵まれていない。ここ一発という目のつけどころはいいのだが、ことはおおむね裏目に出て周囲から睨まれ、慌てて首をひっこめる仕儀となる。それにふさわしく彼の揮名は岩亀、守宮である。
 それを品川が危惧していたかどうかは知らないが、ともあれ、密談は続いた。ときに一八六七(慶応三)年十月六日。後世の我々から見れば、変革は秒読みの段階に入っているときだった。舞台なら、析が入る直前、といおうか。が、それにしては密会している中御門宅の農家並みのみすぼらしさ。このとき一座に連なっていた中御門経之は、具視の義兄(具視の姉富子の夫、家禄二百石、岩倉よりやや家格は上席)だが、掲げられた燭もほの暗い。
 貧弱な構図である。後には有名人となる大久保利通も品川弥次郎も岩倉具視も、まだ史の中では、はしくれ的存在だ。大物はいない。将軍も、摂政関白も、薩摩の島津も、長州の毛利も、越前の松平も……。むしろ彼らがすべていないところに構図のおもしろさがある。ではいわゆる「維新の英傑」たちや、勤皇の志士は?これもご登場には及ばない。いや品川ではなく木戸ではないか、という向きもあるかもしれないが、首のすげ替えは後でも間にあう。とにかく変革前後、注目したいのはこの貧弱な構図なのだ。
 このとき具視は彼らに「秘中の秘」を語ったようだ。後には輝いて見えるこの秘策の中には、かなり怪しげなものも含まれていたという種明しはいずれする時が来るだろう。暗い燭の下で非力の彼らの語った密議も、もとより絶対の成算があってのものではなかったのであるが。
 では、非力な彼らのこれからの「偉業」を称えようというのか。いやそうではない。彼らはその後の歴史の中の勝利者だが、勝利者への惚れこみすぎの賛歌も、敗者への過度の挽歌も、歴史をまともにみつめたことにはならないだろう。
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■岩倉の絶妙な公武合体の意見書、裏には妹の堀河紀子がいた

<本文から>
 この一行に、天皇は膵を吸いつけられたことであろう。
「なぜなら、いま幕府の力が衰えかけております。主上のお力にすがって覇権の維持につとめようと必死になっておりますので」
 所司代の懐に飛びこんで感触をたしかめているだけに、その言葉には説得力があった。
 だから今が好機だ。従来どおり政治は関東に委任と見せて、実権をひそかに奪いとるのだ。公武合体(公武一和)を実現し、人心を安定させてから、じわじわと国政の大事件については公家側の承認なしには行えないようにする。もちろん修好通商条約を、和親条約の頃にまで戻す政策もここに含まれる。
 名を棄てて実を取る−これぞ政治の妙諦。和宮の縁組では一歩譲ったかたちだが、
ここから真の勝利を掴むのだ。
 さらに「幕府との武力対決は愚の愚」と孝明の不安の核心に触れての見解が披露される。武力対決は公家側には不利だし、そのとき、幕府に代って天下の権力を握ろうとする者も出てくるかもしれない…。ここには幕府と公家政権の間に割って入って権力を握ろうとする有力大名を牽制しようとする意図が読みとれる。ともあれ、孝明の危倶のすべてを見通したよう生息見書ではないか。この時期、こ.の絶妙な政治感覚。もっと注目し評価されていい。
 まさに、一軽臣の意見書が政治を変えた−。天皇は幕府に対してこう言っている。
 「以前から和宮の縁談には絶対反対だったわけではない。『公武一和』もわが思うところである。ただし、その実を示してほしい。それには修好通商条約を破棄して、以前嘉永七年に締結した和親条約に戻すことだ」
 そこから度々の押問答が続くが、幕府は和宮の縁談成立を願うあまり、苦しまぎれに、七、八年あるいは十年くらいかけて、和親条約の線まで引戻すよう努力する、説得できなければ武力に訴えてでも実現させたい、と答えてしまう。具視の提案による交渉は一応成功したことになる(もっともこの時点、一八六〇年の十年後には皮肉にも幕府は滅亡しているのだが)。
 とにかく具視の意見書の効果は絶大だった。それはなぜか。じつは今まであまり注目されていない人物をここに登場させてみよう。
 天皇の寵姫、堀河紀子である。彼女は天皇に密着し、その苛立ちも苦悩もすべてを見聞きしていた−というより、天皇と苦楽を共にしていた。具視は宮廷でも実妹の紀子からじかに話を聞いていたし、紀子が堀河邸に里下がりすれば、より詳しい打明話も聞き知ったことであろう。
 さらに紀子は一八五九年、天皇との間に女児寿万富を儲けている。すでに具視はただの近習ではなかった。一皮剥けば天皇の義兄、そして皇女の伯父なのだ。妹から天皇の苛立ちも悩みも聞いていた。
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■岩倉の蟄居、「四奸」

<本文から>
 その半月程前に、突然、奈落に蹴落されたのだ!
 理由は、前所司代酒井忠義(彼は一月ほど前に罷免され、江戸への帰還を命じられていた)と内通し、公家側の秘事を洩らした、というのである。
  −なにを、いまさら。
 具視としては、そう言いたいところだったろう。酒井忠義との接触は、公武合体を望む孝明天皇の意思を受けてのことだったのに。しかも、安政の大獄が公家に及ばぬようにと努力したことが接触の始まりだったのに……
 しかし、具視はもっと早く危険に気づくべきではなかったか。
 予兆は二月前に始まっていた。まず慎を解かれた近衛忠焦が関白に就任し、九条尚忠が退任した。薩摩の申入れが実現したわけだが、ここでも微妙な渦が巻きはじめていた。
 各藩も同様である。とりわけ長州は長井雅楽の『航海遠略策』で点を稼いだはずなのに、これが崩壊、反対派が権力を握り、結局長井は追いつめられ自殺している。長井らを俗論党、反対派は正論党と名乗っているが、これをそのまま受入れることはできない。言葉の皮はここで剥いておかねばならないだろう。薩摩の進出への反撥と、藩内の権力争いが陶いまぜになって、結局、長州は過激派に傾斜していき、藩主敬親も、あっさり長井雅楽を見捨てて過激派に乗りかえてしまった。
 こうなると、一時島津久光に抑えられた過激派が京で荒れはじめ、テロが横行する様相を呈してきた。まず手はじめに、九条家の家臣島田左近が暗殺され、四条河原に晒し首になった。幕府寄りの立場をとりつづけた九条尚忠への、
 「いずれ、お前もこうだぞ」
 という見せしめである。このころから具視の身辺に怪しげな噂がちらほらしはじめた。京に入って来た過激派が、具視を殺せなどといっているのだ。
 そのころ残念ながら皇女理宮が早逝している。具視の皇女への夢はここで完全に崩壊した。
 そして逆に、三条実美、姉小路公知ら十三人の連署によって彼は蟄居させられてしまう。同様の憂き目を見たのは江戸に同行した千種有文、具視と縁続きになる富小路敬直。彼らは辞職、落飾を願い出ることになる。少し後れて、彼らを使って幕府と手を組んだ首領格として、久我建通も辞職、落飾させられる。これがいわゆる「四奸」である。
 近習を辞めさせられては、具視も天皇に近づく道がない。取っておきの手は堀河紀子を頼ることだが、すでに彼女も今城童子とともに、天皇の傍から追放、隠居させられてしまう。
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■しつこい続く岩倉の献策

<本文から>
 「家老小松帯刀どの、大久保どのは、旧知の仲だから、これを」
 両役に渡してほしい、ということだった。結論では、さらに具視は前のめりになっている。
 「三郎(久光)氏ヲ指シテ非常ノ偉器卜称スルハ今新二訣言ヲ呈スルニ非ズ。壬成 (一八六二年) ノ年、(中略)己二此語アリ」
 今更のへつらいではない、というのだが、これも形を変えたへつらいであろう。
 この「続編」での批難は公家政権内部に向けられている。優柔不断、対長州策の失当等々。こういう状態だから、天皇の権威も軽んじられるのだ、と。なかなか政界に復帰できない怨念が一編を覆っているともいえる′。
 文中では、しきりに薩長の提携を説いている。この時点では、まだ例の薩長連合は成立していないのに、これは興味あることだ。もう一つ、文の最後に、注目すべき数行がある。
 「既二幕府ヲ廃シ、政柄朝廷二復帰セバ、徳川氏ハ関八州ノ領主タルコト当然ニシテ徳川氏モ恥ヅベキコトニ非ズ」
 おや、もう幕府廃止か。いわゆる「王政復古」はまだ先のことなのに。
 これらは政治の圏外にあったがゆえの具視の見通しのよさ、というべきか。その一方で、ともかく国許に引込んで動こうとしない久光引張り出しのための基盤造り、といった具体策も、この時期の彼の思案の中にある。追放されずに、ともかく渦の中を泳いでいる義兄の中御門経之に、内密に関白二条斉敬に内大臣近衛忠房と提携し、政治の主導権を掌握することを奨めるよう頼みこんでいる。従来から島津と親しい近衛が政界の実権を握れば薩摩の進出も可能になるからだ。ここには幕府と密接して、権力の中心にいる中川宮の得意の鼻をへし折ろうとする魂胆も秘められている。それが実現すれば、自分の政界復帰も可能になろうという、野心を秘めての裏工作ではあるが。
 具視の献策は、この後もしつこい程続く。『全国合同策』『堂上諸卿ヲ誠ムル意見書』
『済時策』。空論もあるし、政界の裏面を衝く意見等々、さまざまだが、四肝にあげられた久我建通はじめ、この時期にこれだけの「意見書」を書いた公家は一人もいない。ヤモリどのは一戸袋の中でただ坤いていたのではない。転んでもただでは起きないしたたかさ、具視が彼らしさを発揮するのはむしろこのときなのだ。
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■天皇毒殺説の誤り

<本文から>
 具視を毒殺の犯人とする方々は、この切々たる書簡を読まれたのだろうか。下手な推理小説なら、これこそ、ぬけぬけとしたアリバイ作りとするかもしれないが、当時の手紙をそうした小細工として読むことはどうだろうか。むしろまず歴史の史料としての真偽を検討すべきだと思うのだが。さらに関連したものとして富小路敬直の具視宛の書簡の中の一首をつけ加えておきたい。
  大みみのもがさのさしも重けれぼかくれましつと聞ぞかなしき
 敬直は具視と常に行動を共にしてきた一人である。孝明天皇には具視同様近習として仕え、和宮の家茂との結婚には逸早く賛成し、東下の旅にも随従した。おかげで四奸の一人として追放され、洛北一乗寺村に幽居していた。影の形に添うごとく具視に同調したのは、彼の親族が早くに具視の娘と結婚し、具視の養子となっている具綱そのひとであるからだ。この敬直が、天皇の癌瘡による死を全く疑っていないことは、間接的ながら毒殺否定の根拠になるのではあるまいか。
 さて、いよいよその時期が来たようだ。具視を毒殺の犯人とする説の大誤認、大欠陥を衝く、そのときが……
 具視を真犯人に仕立てあげ、手を打って喜んでいる人々が見過ごしている存在−。それは先刻から見えかくれしている衛門掌侍堀河紀子である。
 彼女は孝明天皇の愛人−それも当時としては陸仁親王の生母の中山慶子を除けば唯一の愛人なのだ。
 なんだ、そんなことか、と冷笑する方々は既成の歴史観に溺れて真実の見落しをしておいでである。たしかに江戸時代は男社会ではあるが、全く女をぬきにして語れると思っているのは大違いなのだ。もちろん下級公家出身の紀子は孝明天皇の正式の皇后にはなれない。が、この時点で天皇の側近から追放されてはいるが、それまでに皇女二人を儲けている(いずれも天折)。特に皇女の一人は、和宮の代りに家茂に嫁がせる詰もあったくらいだ。
 そして彼女の後楯になっている実兄具視は、実質上は孝明天皇の義兄であり、とにかく側近中、最も天皇に近い身内だと自負している。当時の公家社会も、彼の無言の主張に暗黙の了解を与えていたはずだ。
 さきに具視が紀子の宮中復帰を願っていることに触れておいたが、紀子は天皇より六歳年下の三十前後だから、後宮復帰が実現すれば、皇子、皇女の懐妊も夢ではない。もしその皇子が即位しても下級公家の具視が摂政や関白になれる可能性はないが、とにかく蔭の後楯として側近での活躍の幅がひろがることは確実である。
 つまり、天皇あっての具視、紀子あっての具視であり、天皇を毒殺することなど全く考えられないのだ。
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■幕府廃止だけでなく摂関廃止させた王政復古

<本文から>
平安初期から始まった摂政・関白という制度も、ついでに吹飛ばされてしまったのだ。
 それをやってのけたのが岩倉具視−。摂関という天皇を囲む固い壁に悩まされ続けてきた彼は、この機を捉えて、全身で「壁」を打破ったのである。学校の先生はそのことを教えてくれたろうか。私たちの頭が幼稚で理解が届かなかったかもしれないが、私自身そのことの意義を再認識したのはずっと後になってからである。
 外戚として摂政・関白が権力を振ったのは平安時代のことで、江戸末期の摂関にはそれほどの力はない。それでも天皇の意志を遮り、政治を左右する力があったのは確かで、だからこそ摂関になり得る資格のある貴族は、目の色を変えてそのポストを争ったのである。家柄も決まっていて、彼らは五摂家(一条、二条、近衛、鷹司、九条)と呼ぼれ、公家政権のトップとして優越を誇っていた。
 具視の生涯は、彼ら権力者に対する怨念の歴史でもあった。公家政治の改革とは、すなわち摂関制度の打破だった。かつて大久保と品川と岩倉村で会ったとき語ったといわれる「秘中の秘」とはこのことではなかったか。
 十二世紀から始まった幕府を打倒したことだけが、クローズ・アップされているが、具視は九世紀以来続いて来た千年の摂関制度を打破したのである。もし摂関制度が明治以降も続いていたら?と想像するとき、やはりこのときの彼の大業にもっと潅目すべきだと思うのだが。
 しかしここで「王政復古」の皮を剥けば……
 私は昔教えられたこの言葉を、かなり気恥ずかしい思いでみつめないわけにはいかない。
 言葉はたしかに輝いているが、その経過は卑劣な権謀の連続なのだ。十二月八日、宮中に中川宮、二条摂政、左右大臣以下の高官が集まった。松平慶永、徳川慶勝らの有力大名も招かれている(慶喜と松平容保が欠席したのは薄々事情を感じたからか)。議題は毛利父子の官位復旧、入京許可と、久我や具視など出仕を止められた者の赦免だった。会議はだらだらと夜を徹して続き、九日の朝入時過ぎに終了。二条らの退出を見届けながら、正親町三条実愛、中山忠能、松平慶永などが残り、晴れて宮中入りを許された具視が政治革新についての文書を捧げて入り、ここで幕府廃止、摂関廃止が上奏された。
 これでは欠席裁判ではないか。二条摂政も慶喜もいないところでの決定である。しかも参内を許されたばかりの具視が、許してくれた相手を蹴落したのだ。この上奏文(沙汰書)は前以て天皇が「寅裁」したものとされているが、倒幕の密勅同様、きわめて疑わしい。
 もっともこの手口は驚くには及ばない。さきに中州官が、三条実愛と長州勢力を追放したやり方そっくりである。あのとき中川宮はひそかに参内、あっというまに事を運んでしまった。このとき宮門を守っていた長州勢は退けられ、会津と薩摩が有無を言わさず交替する。そして今度も宮門を守り、他藩の兵士の入門を禁じたのは西郷隆盛の指揮する薩摩勢だった。そして長州勢を追放した中川官が今度は政治の圏内から放り出されたのは歴史の皮肉というべきかもしれないが、何となく後味のよくないなりゆきである。
 ともかくも、摂関廃止、幕府廃止はあっけなく決まってしまった。
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■“幼沖の天子”失言は後世創作のエピソード、具視の校智と弁口が豊信を上廻った

<本文から>
 −これほど巧くいくとはな……
 具視自身、わが眼を疑うはどの素速さで、「秋」は過ぎていったのである。中川宮、二条以下高官の参内を即刻差止めとするあたり、長州追放と同じ手口にぬかりはない。その後、小御所でいよいよ新政府成立の会議が開かれる。これも大筋は具視の披露した上奏文の中で決まっていて、総裁有栖川宮以下、閣僚級の議定(上級公家と大名クラス)、その下に参与(具視ら下級公家と薩摩、土佐、尾張、紀伊などの諸藩の藩士)が加わることに一任っていた。
 そこへ遅れて京に到着した山内豊信がやってきた。豊信は慶喜を除け者にした会議の進め方に大不満である。
 「慶喜を呼びもせず、この決定は何事だ」
 慶事には数々の功績もあるではないか、といえば具視は慶喜が度々天皇の意思を柾げた不忠の臣だ、と反論し、論争が続き、さらに具視が、もう先程天皇の決定によってすべては決まっているのだからと言うと、豊信が、
 「そもそもこれは陰険な暴挙だ。幼沖の天子を擁して権力を盗みとったようなものだ」
 と言うと、すかさず具視がその言葉尻を捉える。
 「なにを言う。ここには帝も来臨しておられるのに、幼沖の天子とは何事だ!」
 ここで豊信は平伏、すべての事は解決、というのが従来言われていることだが、事実はそう簡単にはいかなかったようだ。これは後に天皇が絶対化されてからふくらんだエピソードではないかと思われる。豊信は、「いや、これは失礼」くらいは言ったかもしれないが、論争はまだまだ続いた。第一、当時の史料を見ると、この後慶喜も再三「幼沖の天子」を擁した彼らを批難している。ロにしてはならない禁句ではなかったのだ。
 たしかに豊信の言い分には理がある。本人も呼ばず、言い分も聞かずに行われた恥しらずな欠席裁判。これが輝かしい「王政復古」なのだ。しかもここ特異視の言う「上計」の場ではなくて、まさに中計、権謀術数の修羅場だった。わずかに具視の校智と弁口が豊信を上廻ったというべきか。その場に侍していた後藤象二郎と大久保との激論も、大久保が後藤を押しまくり、これ以上は却って不利と見た後藤の進言で豊信も反論を引込めた。豊信と同調していた松平慶永もやむなく鉾を納めざるを得なくなった。
 機を見るに敏な豊信としては珍しく変身の機を掴みそこねた感がある。まして慶喜はなおさらのこと、そもそも前日の会議を病気と称して欠席したのが失敗の第一歩だった。
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