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<本文から> もっともこれは明治になって、二人とも勝利者側に立ってからの品川の回想録にあることなので、そのまま鵜呑みにはできない。
−弁の立つ男だが……
むしろ不安は残ったかもしれない。
なにしろ家格が低い。村上源氏系の久我家の庶流で家禄百五十石、下級の小公家にすぎない。当時の公家社会は平安朝以来の家筋がそのまま通用し、藤原氏の何流というように門流ごとに結束することになっている。その上、厳然たる家格があり、摂政関白、大臣になれる家がはっきり決まっているという窮屈さ。宗家久我家も村上源氏とはいえ、藤原氏には劣るし、まして庶流、小禄の岩倉具視に、公家社会をひっくり返すほどの力があるとも思われなかった。
しかも具視は、これまで勝札には恵まれていない。ここ一発という目のつけどころはいいのだが、ことはおおむね裏目に出て周囲から睨まれ、慌てて首をひっこめる仕儀となる。それにふさわしく彼の揮名は岩亀、守宮である。
それを品川が危惧していたかどうかは知らないが、ともあれ、密談は続いた。ときに一八六七(慶応三)年十月六日。後世の我々から見れば、変革は秒読みの段階に入っているときだった。舞台なら、析が入る直前、といおうか。が、それにしては密会している中御門宅の農家並みのみすぼらしさ。このとき一座に連なっていた中御門経之は、具視の義兄(具視の姉富子の夫、家禄二百石、岩倉よりやや家格は上席)だが、掲げられた燭もほの暗い。
貧弱な構図である。後には有名人となる大久保利通も品川弥次郎も岩倉具視も、まだ史の中では、はしくれ的存在だ。大物はいない。将軍も、摂政関白も、薩摩の島津も、長州の毛利も、越前の松平も……。むしろ彼らがすべていないところに構図のおもしろさがある。ではいわゆる「維新の英傑」たちや、勤皇の志士は?これもご登場には及ばない。いや品川ではなく木戸ではないか、という向きもあるかもしれないが、首のすげ替えは後でも間にあう。とにかく変革前後、注目したいのはこの貧弱な構図なのだ。
このとき具視は彼らに「秘中の秘」を語ったようだ。後には輝いて見えるこの秘策の中には、かなり怪しげなものも含まれていたという種明しはいずれする時が来るだろう。暗い燭の下で非力の彼らの語った密議も、もとより絶対の成算があってのものではなかったのであるが。
では、非力な彼らのこれからの「偉業」を称えようというのか。いやそうではない。彼らはその後の歴史の中の勝利者だが、勝利者への惚れこみすぎの賛歌も、敗者への過度の挽歌も、歴史をまともにみつめたことにはならないだろう。 |
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