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          田中光顕-維新風雲回顧録

■吉田東洋の暗殺

<本文から>
 「確かであるか」と、半平太は念を押した。
 「もちろん、入念にさぐりました故、間違いはござりませぬ」
 「よろしい」と、半平太は、さっそく、第三組に選ばれた刺客を呼びよせた。
 手配をすまして、彼は、三人に向かっていった。
 「このたびの一挙は、まことにやむを得ざることである、吾々は、佐幕派を排するのが主眼であるが故、必ずしも元吉殿は殺す必要はない、ただ重傷を負わしただけでも事は足りる、諸君の進退は、機宜の処置におまかせする」
 「心得てござります」
 三人は、半平太に別れて、八日の夜の更けるのを待った。叔父の信吾が、私の宿に来て、何くれと後事を託したのは、その時である。
 私が、本町の佐川屋敷で、雨の音をききながら鋸転反側している時刻に、当の吉田元吉は、御殿から戻ってきた。ほろ酔い機嫌であったろう、若党に、提灯をもたせ、傘をさして、帯屋町の邸へ近づくのである。
 と、暗の中から吐き出された巨大な黒影。ひたひたと、吉田の背後に迫るよと見れば、虚空三尺の雷、ぴかと閃く。
「元吉殿、国のために参る」
一喝して、唯一打ちと、首のあたりを見こんで打ち下す。
「なにやつ」
 傘の上から斬ったので、浅手であった。
 吉田は、ふりかえりざま、傘をすてた瞬間、もう手には、刀がぬかれていた。
 斬り込んだのは、叔父であった。
「やッ」
 してやったりと、叔父は、後ずさって、二三合、斬り合わせたが、もとより、叔父は血気壮鋭の壮士である。
 外方より追々に手を下しながら、隙を見て、えいと切声するどく、打ち込んだため、吉田は、ばっさりと斬り伏せられた。
 叔父は、ただちに吉田の身辺に近よって、首を掻き切り、傍の小溝で、首と血刀とをあらった。そして、首は、用意の下帯に包んで、これを提げながら、現場から南奉公人町通りを西へ走った。
 雨でぐしょぬれになっている。
「怪しげな奴!」
 通りすがりに、そこからも、ここからも、犬がわんわんと吠え、近よってくる。
「しッ! しツー」
 いくら追っても、追いかけてくる。果ては、接げている吉田の首へ喰いつきそうになるので、さすがの叔父も、閉口した。
 やっとの思いで、四半橋の観音堂へかけつけると、そこに、同志が待ちうけていた。
 「首尾はどうであったか」
 暗闇の中で、不安そうに訊ねた。
 「上々書、かくの通り」
 叔父は、吉田の首を彼等の手にわたしたのである。
 「いよう、大出来、大出来」
 一同、手の舞い、足のふむところを知らずという有様。大変な喜びである。
 叔父は、ここで、ゆるりと、旅の仕度をすませ、荷物や手槍をうけとって、同志に暇ごいをした。
 「吉田殿をなきものにすれば、土佐の正気は勃然として起こる、諸君、自重して、君国のために、おつくし下さい、拙者は、これより上方へ参る、しばらくのお別れだ、さらばでござる」
 本望をとげたので、思いのこすことは何もない。大石、安岡の二人と共に、夜をこめて伊野に出た。
 ここには渡しがある。時ならぬ場合に、渡守りをよび起こすのは、嫌疑のかかるもと。そこで、釈迦参りの帰りがけといつわって、苦もなく向こう岸にわたった。長浜雪渓寺の潅仏会をさしてこういったものと見える。
 加茂についた時、夜があけた。衣類をあらためると、まだ返り血がこびりついていた。それをすっかり拭きとって、脱走をした。
 どうして、元吉暗殺の事情が、かくまで明らかであるかといえば、それは、叔父が程へて、私の父にあてて報告した書面が、今、私の手元にのこっている。それによって、巨細のことが分かるのである。夜があけると、私は、もうじっとしていられなくなった。
 「どういうことになったかしら」
 胸がどきどき波打つ。とに角、出かけて見ようと、幸い雨もあがったので、一散に、帯屋町へかけた。
 と、帯屋町吉田邸の前に、血がだらだらと流れている。
 「しめた」
 私は、思わず、こおどりした。尚よく見ると、血は、邸の門前まで、糸を引いたようにつづいている。
 「これなら、大丈夫だ、首尾よくやったに違いない」
 ほつと胸をなでおろした。 
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■薩長連合

<本文から>
「長州、なお男子あり、われわれの腕前をご覧に入れる」
 深夜、武装して、長府功山寺に滞在中の三条公以下五卿に拝謁し、ただちに馬関新地の会所を襲った。ちょうど慶応元年正月二日のことであった。この時兵は、伊藤俊輔(後の博文)の率いている力士隊と、石川小五郎(後の川瀬真孝)の率いる遊撃隊を合したもので、わずかな人数であった。寡をもって衆を破るは、朝がけに限るとあって、夜のうちに押し出し、手もなく、馬関の俗論党を一掃した。
 これに、力を得て、正月六日の夜になると、太田に集合していた諸隊のうち、奇兵隊の雨宮慎太郎が、忽如、決死の手勢を率いて、絵堂を襲った。ここには俗論党の粟屋帯刀が、諸隊鎮撫のため、出張していた、あけ方、帯刀の本営を破り、雨宮は、ついに、有地品之丞に射撃されて戦死した。
 これが、きっかけで、諸隊の奮起となり、俗論党政府を倒し、初めて、藩論の一致をみたのである。
 したがって、私が、中岡とともに、再度、長州に入った際は、防長二州の天地、全く勤王の旗風になびき、俗論党は声をひそめていた。
 だいぶわれわれにとって、都合はよろしかったが、ただこまったことは、諸隊の者、いずれも、薩摩と提携することは欲しなかった。薩摩は、前年、会津に味方し、長州人に煮え湯をのましたというのが、彼等の胸にある。
 「異人の靴をいただいても、薩摩とは和睦なぞできるものか、まして、提携などは思いもよらぬ」
 とってもつけぬ勢いだ。
 「甲子の役に、討死した亡友の手前、薩賊に援助を求めることなどは、いかにも恥じ入る次第だ」
 御楯隊総督太田市之進なども、公然と反対意見を主張していた。
 「これは、面白いご意見だ、死者に対して、和解できぬということであれば、戦国時代にあって、敵国と和睦はできぬことになる、そんな理窟はあるまい」
 むきになって、井上聞多(後の馨)が、喰ってかかったことなどもある。
 諸隊のうち、一番頑固なのは、奇兵隊であった。この間において、掟携運動を起こした坂本、中岡等の苦心というものは、なみ大抵のものでない、勤王倒幕の第一線に立って、剣戟砲丸の間に活躍した勇士の功も、むろん没すべからざるものだが、と同時に、両先輩が両藩の感情を融和せしめて、共同作業の下に維新の機運を開いた努力を忘れてはならない。
 もし、両先輩が存在しなかったら、薩長の連合は行なわれなかったかもしれない、そうなると、維新の大業は、完成しなかったかもしれない、完成しても、よほど遅れることになったとみねばならない。
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■高杉晋作との出会い

<本文から>
 この時、長州で、私が、最も世話になったのは、高杉晋作である。中岡は、「兵に臨んでまどわず、機をみて動き、奇をもって人に勝つものは、高杉兼行、これまた洛西の一奇才」と賞讃しているが、彼は長州における人物のみならず、天下の人物である。
 最初、私が高杉に会ったのは、文久三年、春、国もとから京都に出た時であった。
 高杉は、当時、髪を剃って、クリクリ坊主になって、法衣のようなものをまとい、短剣を一本さしているというような風体。それにはわけがある。
 長藩では、彼を国もとへかえして、政務座に抜擢しょうとした。
 ところが、高杉は役人になることは御免だといい張った。
 藩の家老周布政之助が、しきりに、すすめたが、なんとしても聞き入れない。
 「拙者は、是非とも、勤王の師を起こして、幕府を倒さずにはおかぬ、役人になることなどは思いもよらぬ」
 「といって、今、急に、そうはゆくまい、だんだん時勢がすすめば、足下の望みどおりの時機が参ろう、まず、これから十年も待つことだな」
 周布がそういった。
 「しからば、拙者に、十年のおいとまを願いたい。……さすれば、ほかにあって、毛利家のために働きます」
 「それほど、足下が熱心なら、たってとも参るまい、十年のおいとまはなんとかして、取り計らって進ぜる」
 周布が、中に入ったので、君侯からもお許しが出た、そこで、彼は、すぐに、落籍を脱して坊主となったのである。
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■薩長同盟、桂の入京

<本文から>
 まだ何ともいわぬ先から、わかったといわれても桂には承服出来ない。高杉は、自分をからかっているものと思い込んで、十分に意見をたたこうとした。
 「実は……」
 「いやもうわかった、孤立は、断じていかんぞ」
 桂は、ぎっくりして、二の句がつげなかった。
 「そもそも、僕が、容易に提携に賛成しなかったものは……」
 高杉が、何かいい出そうとしたので、今度は、桂が抑えた。
 「わかっている、大敵前にあり、決して士気を衰えしむべからずと、なぜ早く吾輩にいってくれぬか」
 果ては、双方、笑い出してしまった。
 これで、桂の意中は、むろん高杉にわかるし、高杉の心中も、桂にはっきりと呑みこめたわけである。奇兵隊では、そんな事は知らぬから、反対の気勢をあげて容易に、桂の京都行に同じない。
 高杉は、これに向かっていった。
 「西郷は、決して、桂を殺しはしない、すみやかに行くがよい、もし、西郷が、さほどな馬鹿をするなら、桂は、国のため死ぬがよい、死は一である、躊躇するなかれ」
 こう鎮撫したので、どうやら曲りなりにも、話はまとまった。
 藩論もまた、とも角、桂を代表者として、京都へ送ることにした。上国形勢視察という名目で、奇兵隊の三好軍太郎(後の重臣)、御楯隊の品川弥二郎、遊撃隊の早川渉、この三人が護衛となって、これに従った。
 私も、この一行とともに、京都へ上ることにした。途中上の関で、慶応二年の正月元旦を迎え、天保山沖で、薩摩の春日丸にのりかえた。同じく薩摩の御用船で、淀川を伏見へのぼると西郷吉之助をはじめ、村田新八、大山彦八(大山巌の兄)等が、出迎えに来ていた。
 伏見から、薩摩の兵隊をもって、桂を護衛し、竹田街道を堂々と京都へのりこんだ。
 桂は、この時、大坂に上陸した際、私どもに、感懐をもらした。
   天道いまだ知らず、是か非か。
   陰雲四塞して月光微かなり。
   我君の邸閣、看れども見え難し。
   春雨、涙に和して、破衣に満つ。
 転句は、大坂の長州屋敷が、取りこわされた事実を指すのだが、長州としては、遺恨、骨髄に徹していたのも無理はない。
 桂及び長人が、抑えきれぬ胸中の情感を晴らそうとするには、薩摩と手を握って、勤王のことに従わねばならない。しかるに、両藩の間は、犬と猿だ、藩の重立った人々は、そういう私怨にとらわれている場合ではないということは、わかっていても、大多数は、そこまで徹底してはいない。
 したがって、長州の代表者たる使節桂小五郎と、薩藩重役の面々との交渉が、どう落ちつくかは、問題であった。
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■高杉による三田尻の勝利

<本文から>
 高杉は、船が三田尻に入ると、まだ時刻が早いとでも思ったのであろうか、ふいと船から下りた。
 これもあとで聞いた話だが、高杉はこの時三田尻の貞永久右衛門の家に、ひょっこりと現われた。貞永は、塩田をもっているこの地方の豪家で、有志が、平生出入りしていたものだった。
 「一寸、二階を借りるぞ」
 そういって、二階へ上がったが、しばらく黙りこくつていて、音沙汰がない。
 「どうしたのだろうか、高杉さんの容子がいつもと違っている」
 心配して、家人が、そっと覗いて見ると、高杉は、頭に両手を当てて、ごろりと寝ころび、両足を柱にもたげて、まるで、越後獅子という恰好で、何か考え込んでいる。
 すると、間もなく下りてきた。
 「どうも、お世話であった」
 挨拶をして、かえつて行ったが、貞永の家では、狐につままれたような按配である。
 高杉は、この間に、じつと作戦を考えていたものだろうといわれているが、あるいは、そんなことであったかもしれない。
 そこで、丙寅丸は、その夜、大畠の海峡を過ぎ、山陰にそって久賀港に向かった。夜聞くして、汲また勤し。星明りに透して見ると、富士山、翔鶴、旭、八重の四艦は、火を消して、勝ち倣れる乗組貞も、安らかに、眠りについている。
 満艦、寂として、声なし。
 「ここだ」
 高杉は、突撃の号令を下した。機関掛の私や一生懸命。
 艦は、待てしばしもなく、いきなり幕艦の間に突入した。
 「撃て」
 左右の砲門を開いて、一度に、発砲したからたまらない。
 段々轟々、不意討ちを喰った幕艦は、あわてふためいて、火を焚いたが、蒸気がそう急に出来るものでない。
 丙寅丸は、縦横突撃、四艦に向かって、さんざんに痛手を負わせた。
 高杉は、甲板の上で、床几によりかかり、手に軍扇をもって、号令を下していた。
 「何故、軍服をきないか」
 問うて見ると、酒落な彼は、にっこりとして、いった。
 「鼠賊の船を撃破するには、この扇骨一本で十分だ」
 この元気には、毎度のことであるが、私どもも、内実、敬服した。
 敵艦の陣形乱れ、狼狽している間を縫って、丙寅丸は悠々と三田尻に引きあげて来た。
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