その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          池波正太郎−西郷隆盛

■島津斉興は月照を生かすつもりだった、との話もある

<本文から>
 こういうはなしものこされている。
 老公・島津斉興が、
「幕命あってもかまわぬ。月照をそっと種子島へ送り、松寿院の話相手にさせたらどうじゃ。西郷も共につけてやれ」
 と、言い出したのだ。
 松寿院は老公の妹で、種子島家へ嫁ぎ、いまは未亡人としてさびしく暮らしている。月照ほどの名僧をはなし相手にしてやれば妹も大変によろこぶだろうと考えたのであろう。
 これを老臣・重役が<きこえないふり>をしてしまい、月照を追い払ったという。 
▲UP

■西郷は倒幕を考えていたが時期尚早

<本文から>
 平野国臣がいう。
「いまや各宮家をうごかし、朝義を倒幕一すじにしぼり、天皇から勅旨をたまわって、体当りに幕府を打ち倒すまでだ!」
 これら勤立志立たちの言動の激烈さは、その極点に達していた。
 平野も小河も、
 「西郷氏も、われらと共に起ち上がっていただきたい」
 血相を変えでせまる始末であった。
 事が、ここまで急迫していることを知って、西郷吉之助はおどろきもし、また、(いま、うかつに動いてはあぶない)
 直感した。
 以前の西郷ならば熱血のおもむくままに奮然、彼らと行を共にしたであろうが、三年にわたる大島での蟄居は西郷を見違えるほどに成長させている。
 西郷も彼らと同様に、幕府打倒をめざしている。けれども、徳川幕府の威望というものは、まだまだ馬鹿にはできぬ。二百何十年も天下をおさめてきた大政権を、志士どもの熱に浮かされたような暴動で倒せよう筈はない。
 そもそも、薩摩にしてからが、島津久光はあくまでも、
「幕府と共に新しい政治をしよう」
というのが建前なのである。
 この点で、久光と西郷はこれより後も、ついに和解できなかった。
 故島津斉彬も、かつては「幕府と共に……」の持論であったわけだが、いま斉彬が生きて在れば「必ず先君は倒幕をはかられたにちがいない」と、西郷は信じている。また、それだけの裏づけになるものを西郷はもっていたのだと思う。
 しかし、まだ早い。
 西郷は、あの<安政の大獄>の大弾圧によって幾多の偉材が失われたことを忘れきれなかった。
(ともあれ、いまは、これらの人びとを何とかして押さえばならぬ)
 と西郷はおもった。
 大久保や小松も、こうした事態をおさめるため、西郷にはたらいてもらおうといのではなかったか……。
 西郷の人格の立派はいうまでもないが、見るからに偉人の風貌をそなえているから、その言動は倍加する。
▲UP

■沖永良部島で土持政照は罪人覚悟で西郷を助ける

<本文から>
ついに土持政照は、
「……政照すなわち、牢内の敷物を新たにして、滋味を贈り入浴をすすめ、小使を附して使役に便ならしむる」
ということになり、浴後の運動をさせるのだという名目で外に連れ出し、ついには、
「たまには、ようございもそ」
と自宅へ西郷を連れて行き、酒までのませるという始末になってしまう。
 西郷も、もう牢にいるのだか、政照の家にいるのだかわからなくなり、島の子どもに学問を教えたり、釣竿をつくったり、得意の農政をもって島民をみちびいた。このときの西郷の指導が実り、明治末年には沖永良部島は当時の金で二万数千円の貯財を有していたそうな。島民は、この貯財をもって若者の学資金をまかなったといわれる。
 たしか、いまも沖永良部島には、西郷を祭った<南州神社>がある筈だ。
 イギリス艦隊を何とか撃退したとの報が入ったので、土持政照が私財を投げうち、西郷のためにつくった船も無駄になったわけだが、西郷は、このときの土持の義心を終生忘れず、彼の母の命日には、合掌瞑目をおこたらなかった。
 罪人を助けるのだから、土持も非常な決意をしたわけだろうが、これを母が、
「西郷先生のために、お前んさが罪人となることなら、母はうれしゅうぞんずる」
と、はげましたのである。
▲UP

■世は人を生んだ幕末

<本文から>
 坂本にしろ西郷にしろ、勝にしろ、尊王側・幕府側をふくめて、このような偉人壮麗な人物が動乱の時代をうごかして行くのを見ると……世は人を生むというが、つくづく<歴史>のふしぎさ、おもしろさをおもわぬわけにはゆかない。
 孝明天皇、将軍・家茂、井伊直弼その他、数えきれぬ人びとの生と死は、まるで維新の歴史をドラマ化するために生まれてきたとしかおもえぬほどの影響を<時代>にあたえているのだ。
▲UP

■岩倉の粘りで西郷の征韓論は無くなる

<本文から>
 「何とあろうとも、私は、朝鮮使節の件を白紙にもどし、再議にかける。これが補弼の大任にあるもののつとめである」
 顔面蒼白となりつつも必死にねばり、
「三条公は三条公。岩倉は岩倉でござる」
言い張って、きかない。
さすがの西郷もたまりかねて、
「勝手になされ」
 席を立ってしまった。
 この夜、岩倉邸を出てから、西郷は各参議に向い、
「いやどうも……今夜の岩倉のねばりかたには、おどろきもした」
 洩らしたそうだが、ここで西郷は、
(岩倉が太政大臣となったからには、もういかぬ)
 と、あきらめてしまったとさえ、いわれているほど……それほどに、この土壇場へ来ての岩倉の反撃はもの凄かったといえよう。
 岩倉は西郷たちが帰るや、すぐさま、宮中にある宮内卿・徳大寺実則へ密使を飛ばしている。
「西郷らが直接に参内し、天皇に謁見して朝鮮問題の勅裁を仰ぐようなことがあったら、宮内卿として天皇御不例(病気)のゆえをもって、これをはねつけられたし」
と、いってやったのである。
 こうなると岩倉の智謀と迅速な処置には間髪を入れぬものがあり、麹町の大久保利通とも密使を往来させつつ、今後の対策をねりにねった。
(冷静、友を敵にまわす大久保と、魔性の岩倉が手をにぎり合うてしもうては、もういかぬ)
 翌二十三日、の朝、西郷は辞表をしたためた。
▲UP

■大久保利通の政治生活は清廉そのもの

<本文から>
 この日清間の紛擾を解決した報奨金が出たときも、これを受げた大久保の評判は悪かった。
 大久保は意に介さぬ。
 この金で、霞ヶ関へ私邸を建てた。
 これまた評判が悪い。
 けれども、実に粗末な私邸であって、安建築のため、壁の砂が室内へながれ出たり、鼠が巣をつくったりして、とても今をときめく政府最高権力者の住居とは思えなかったという。
 大久保の政治生活は清廉そのもので、西郷以外の明治太官のうち、こうした政治家は大久保のみであったといわれるほどだ。
 大久保が死んだとき、家には、わずか三百円の金が残っていたにすぎない。
 西郷従道いわく
「人間ちゅうものな、平常は正しいことをいうちょっても、いったん怒ると常軌を逸し、言語動作もみだれがちになるものじゃが、大久保公は、いかな場合にのぞんでもみだれることなく、御自身が怒れば怒るほど、ますます条理が正しくなる人でごわした」
▲UP

■桐野が勝手にだした紹介書、熊本鎮台は背水の決意に

<本文から>
 この紹介書を受けとったとき、
「馬鹿にするな。よし、おれは鬼神となって熊本城と守りぬくぞ」
と谷長官は決意したといわれる。
 ところが西郷は、そのような紹介書が発せられたことを、はじめは全く知らなかったのである。
 この紹介書は、桐野利秋が、県庁の第一課長・今藤宏に命じて起草させ、発送したものが。
 西郷は、これを知って、
「取り消してもらいたい」
と命じたが、すでに発送ずみである。
 西郷は不快であった。
 鎮台を白痴あつかいにした非難きわまる文書を出すような西郷ではない。
西郷は、軍列が進むうちにも、桐野へ一言も口をきかなかった。
 二月二十日から二十二日にかけて……。
 薩摩軍は、熊本城の南二里のところにある川尻町へ集結を終えたが、早くも二十日夜には鎮台兵数百が、西郷本営に夜襲をかけてきたものだ。
 この旺盛は鎮台兵の闘志を知って、薩軍もおどろいた。
「なっちょらん。なっちょらん!西郷先生に夜討ちをかけてきた。こりゃ許せん。断じて許せん!」
 と、桐野利秋などがは激怒したが、内心意外におもったろう。西郷の軍列いくところ、草木もなぼくと思っていたのだ。
 この前日、谷千城は、みずから立てこもる熊本城を焼き払って背水の決意をかためている。
 熊本城放火のことを、熊本の人は本気にせぬが、いまや、これは事実といってよいだけの資料が出ている。
▲UP

メニューへ


トップページへ