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<本文から>
この文章は、歴史小説家として著名であった故村雨退二郎氏の著書の中にある〔病死か暗殺か−孝明天皇の死〕という一文の中から抜き書きさせていただいた。
村雨氏は、まず、日本医事新報千七百二十五号に、山崎佐氏が執筆した〔江戸幕府時代における朝廷の医療制度〕という一文で、山崎氏が石黒忠恵から直接にきいた話としてのべたものを引用しておられる。
それは、次のごときものだ。
「孝明天皇が重体にならせられたとき、岩倉具視の推薦で洋医・石川桜所が、慶応二年十二月二十四日に御所へ上った。その翌日、天皇が崩御なされたので、世間では、岩倉が桜所をして一服盛らしめたのである‥…・という噂が、当時から評判され、桜所は、そのまま郷里へ閉塞した。
自分は、孝明天皇を診察した医師や桜所にも、当時の模様を仔細にたずねたが、天皇は、まったく癌瘡で崩御なされたのである。
桜所は御所には上ったが、未だ往診もせず、したがって桜所としては、自分の薬をさしあげぬうちに天皇が亡くなられ、そのまま空しく御所から下ったのが真相である。
桜所の冤をそそぐために、この点を、はっきり話しておく」
以上が、石黒忠恵が山崎佐氏に語ったものだ。 |
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