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          池波正太郎-人斬り半次郎

■孝明天皇の毒殺説への真相

<本文から>
  この文章は、歴史小説家として著名であった故村雨退二郎氏の著書の中にある〔病死か暗殺か−孝明天皇の死〕という一文の中から抜き書きさせていただいた。
 村雨氏は、まず、日本医事新報千七百二十五号に、山崎佐氏が執筆した〔江戸幕府時代における朝廷の医療制度〕という一文で、山崎氏が石黒忠恵から直接にきいた話としてのべたものを引用しておられる。
 それは、次のごときものだ。
 「孝明天皇が重体にならせられたとき、岩倉具視の推薦で洋医・石川桜所が、慶応二年十二月二十四日に御所へ上った。その翌日、天皇が崩御なされたので、世間では、岩倉が桜所をして一服盛らしめたのである‥…・という噂が、当時から評判され、桜所は、そのまま郷里へ閉塞した。
 自分は、孝明天皇を診察した医師や桜所にも、当時の模様を仔細にたずねたが、天皇は、まったく癌瘡で崩御なされたのである。
 桜所は御所には上ったが、未だ往診もせず、したがって桜所としては、自分の薬をさしあげぬうちに天皇が亡くなられ、そのまま空しく御所から下ったのが真相である。
 桜所の冤をそそぐために、この点を、はっきり話しておく」
 以上が、石黒忠恵が山崎佐氏に語ったものだ。 
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■桐野利秋への改名と城うけとりの逸話

<本文から>
  中村半次郎が〔桐野利秋〕と、名をあらためたのは、明治二年晩秋のころであったといわれる。
 半次郎は、東北戦争に軍監の役目をつとめ、会津藩降伏に際して、若松城の〔城うけとり〕の大任をはたした。
 こんな話がある。
 城うけとりの作法、進退ともに堂々として古式にかない、立派なものだったので、
 「中村どんな、あげなことを、どこでおぼえたものか」
 「実に、おどろいたものだ」
 薩摩の人々も陛目したという。
 半次郎は笑って、
 「なに、ありやな、江戸にいて戦さを待ちかねて退屈しちょったころ、おいどんな、よう寄席へ出かけ、暇つぶしをしたもんじゃが……」
 つまり、寄席の講釈師が語る軍談の中から、城うけとりの作法をおぼえておいたのが、さっそく役に立ったというのである。
 その真疑はともかく、半次郎の性格と素質を、この挿話はいかにもよく浮きばりにしてみせてくれる。
 ともかく、戦争は終わった。
 江戸へ帰った中村半次郎には、賞典禄・二百石があたえられた。
 これで、半次郎は二百石の薩摩藩士となったわけだ。
 そして、西郷吉之助にしたがい、鹿児島常備隊の大隊長として、半次郎は鹿児島へ凱旋をした。
 このころから、明治維新の指導者たちの改名が、次々におこなわれた。
 西郷吉之助が、西郷隆盛に−。
 大久保市蔵が、大久保利通に−。
 桂小五郎が、木戸孝允に……。
 というわけで、大いに改名が流行した。
 つまり、こういうことなのだ。
 半次郎を例にとっていえば、大隊長・中村半次郎では、どうも安っぽいということなので、ある。
 「おいどんの先祖な、桐野ちゅう姓ごわした。この姓は、どげでごわしょうか?」
 と、半次郎は西郷に相談した。
 「よいじゃごおはんか」
 「では、桐野にきめもす。ところで、名は何としたらよいか……先生、ひとつ、おいどんの名をつけてたもはんか」
 「そうじやのう……」
 しばらく考えていたが、西郷は、かたわらの紙をとって、名を書いてくれた。
 「としあき、とよむのでごわすな」
 「桐野利秋……よか、よか」
 「あいがとござす」
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■桐野は少将に任じらせ得意の絶頂

<本文から>
 西郷隆盛は、陸軍大将に任ぜられた。
 中将というのはない。
 少将から大将になる。
 こういうところが、いかにも明治初年の感覚であろう。
 政治も軍事も、まだ、ふわふわと宙に浮いていて、どこから手をつけてよいのかわからぬという状態であった。
 それにしても、陸軍少将である。
「西郷先生の次は、おいどんじゃ」
 と、桐野利秋が鼻をうごめかしたとしても、無理はあるまい。
 しかも……。
 この陸軍少将風下賜された屋敷(官邸といってもよいだろう)というものが、すばらしいものであった。
「おいどんも、ついに、大名屋敷へ住むことになった」
 桐野は感動した。
 屋敷は、本郷・湯島切通しにあった。
 この屋敷は越後高田十五万石を領した榊原侍従政敬の下屋敷だったものだ。
 東面は、茅町の民家をへだてて不忍池と上野の山をのぞみ、西は加賀百万石・前田家の屋敷である。
 何しろ、三千坪に近い敷地であった。
 その中に旧御殿をはじめ、馬場や家臣たちの長屋もふくまれているという広大なものであった。
 上野の戦争で焼失した箇所もあり、何しろ住む人もなかったので、屋敷内は荒廃をきわめている。
「さア、来たいやつどもは、みんな来やい」
 と桐野利秋は、部下の兵士をはじめ、佐土原英助をもさそいこんで、官邸に引き移った。
「おたみさんも、よんでやったらどうじかゃ」
 桐野は、しきりにすすめた。
 おたみは、いま、鹿児島の佐土原家にいる。
 男子が一人、生まれていた。
「よびやいな、英助どん。遠慮はいらん」
「うむ。そのうちに、そうさせてもらうかも知れぬが…⊥
「長屋がいくらでもあることじゃし、おはんさえよけりゃ、御殿へ住んでもよか」
 桐野は、自分が起居しているところを「御殿」とよんだ。
 米もろくに食えなかった百姓侍の中村半次郎が、陸軍少将・桐野利秋となって、旧大名屋敷の主人となったのである。
 桐野の得意は、絶頂に達していた。
 ときに、桐野は三十四歳である。
 すでに、西郷も桐野も髷を落としていた。
 西郷は、ごく短く頭を刈りあげたが、桐野は漆黒の髪がひたいにたれるばかりの、いわゆる〔ザンギリ頭〕だ。
 そしてひげもはやした。
 八の字ひげという、いかめしいやつだ。
 金筋の入った軍帽も、肋骨式の飾りをつけた黒の軍服もフランス風のものだが、これを身につけ、金銀をちりばめた特別製の軍刀を腰につるし、
 「馬ひけい!!」
 馬丁にひかせた栗毛の駿馬にまたがり、悠々と兵部省に出仕する桐野の風采というものほ、男ぶりがよいだけに、道行くものの目をうばった。
 軍刀は、綾小路定利の名刀であった。
 この、二尺八寸の大刀は、桐野が維新戦争終わってのち、鹿児島へ帰る途中、京都で手に入れたものである。
 しのぎ高く、重ね厚く、ゆったりと曲線をえがいた刀身の反りも気に入って、
 「一目見たら手ばなせなくなり、おいどんも、だいぶ無理をして手に入れたものごわすよ」
 と、大自慢であった。
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■桐野と法秀

<本文から>
 原因は、法秀こと、お秀にある。
 中村半次郎時代の桐野が、法秀尼に頭が上がらなかったことは言うをまたない。
 半次郎は、ふくよかな彼女の躯にじゃれつき、甘えかかり、叱られたり、酒の仕度をさせられたりしながらも、
 (よか女子じゃ)
 堪能しきっていた。
 法秀尼は、半次郎の情人であった。
 母であり、姉であり、しかも教師でさえあった。
 武家の未亡人であった法秀尼の教養の前には、半次郎の剣士としての誇りも役には立たない。
 習字を教えてもらい、書物を読むこともおぼえた。
 半次郎の物すごい勉強ぶりがあったとしても、それらはみな、法秀尼がいたからこそである。
 情人として法秀尼も完壁であった。
 うるさくつきまとわれることもなく、気のおもむくままに不了庵へ出かけて行けば、半次郎の性慾……いや性慾以上のものが、心ゆくまでみたされたのである。
 法秀尼が去ったときの、半次郎の慟哭は、単に情人をうしなったというだけのものではなかった。
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■西郷は新政府の改革を急ぎすぎると見ていた

<本文から>
 この六年間に、新政府が断行した数々の〔大改革〕を、
 「急ぎすぎる」
 と、西郷は見ていた。
 日本統一の権力[中央政府]へあつめるための改革であったわけだし、西郷もそのたびに、
 「たのむ」
 と言われて、新政府に引っ張り出され、はたらいてもきた。
 岩倉や大久保や木戸などの同志たちや伊藤、井上、山県など新進気鋭の人々がつくりあげた政策をたすけて来たのも、
 (われわれが、せっかくつくりあげた新政府じゃ。何とか育てあげねばならぬ)
 そう思えばこそであった。
 しかし、不満である。
 新政府が、必死になって政権の土台がためをするため、次々に新しい改革をおこなうのはよいが、
 (あまりに外国のまねばかりしすぎる。日本には……日本人には、それに似合ったやり方があろう)
 一歩一歩と急がずにやりたい。
 新政府の人々が身を粉にし、国民に率先して、身をつつしみ、はたらきぬけば必ず国民はついてくる。
 それでもついて来ないのなら、もう仕方がないことだ。
 権力というものは自然にそなぁってゆくもので、無理につくりあげるものではない。
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■新政府を去るとき、西郷の思いとかけ離れていた桐野らの思い

<本文から>
 「だから、また帰っち来るちゅのじゃ。よいか、おまき。西郷先生はな、鹿児島の若者どもをあつめ、国のお役に立つ立派な人間をつくろう、と、こういう考えじゃ。むろん、桐野も先生をたすけ、薩摩の国力を大いにやしない、戦力をたくぁえ、いざ外国と事をかまえようとも、一歩もひかぬだけの軍人をつくりあげる、と、こういうわけじゃよ」
 どうも、このあたりから桐野利秋も妙なものになってくる。
 この言葉をきけば、何も知らぬものは、まるで桐野が西郷の心を代弁しているようにもきこえる。
 日本のどこにも、色濃く藩閥意識が残っていた時代ではあるが、西郷はいうまでもなく、天皇を中心にして統一政権に希望をかけてはたらいても来たし、
 「お前さアにたのむ」
 の一言を大久保利通へのこしたのも、
 (わしはもう中央へは出ぬが、有能な若い人々を育て、これを東京へ送り、日本のためにはたらかせたい)
 という考えであり、この仕事に余生をかけるつもりで帰国したのだ。
 だが、桐野は、
 「今に見ちょれ!!」
 なのであった。
 陰謀と狡智をもって西郷を政府から追い出した岩倉、木戸、伊藤、大久保らへのうらみは、盲目的な西郷への愛情と相まって熾烈に燃えあがり、
「あの奴どもが何と言おうとも、明治天皇な、きっと西郷を呼び戻せちゅて、きっと迎えな来もそ、天皇の西郷先生を御信頼あそばさるることは、山のごとく高く海のごとく深いのじゃ」
 などと、おまきがきいてもわからぬことを滔々とのべたて、
「それよりもじゃ、西郷先生がおらぬ政府は、きっと内側からくずれ、奴どもの権力あらそいが、あっちでもこっちでも火の手をあげ、西郷先生な出て来ぬとおさまらぬようになるにきまっちょる。その時こそ、薩摩の軍隊は先生の、お供して、ふたたび東京へ戻って来るのじゃ。わかるか……わかるな、おまきー」
 おまきは、泣きじゃくっている。
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■能本城炎上の真相

<本文から>
 能本城炎上は二月十九日で、薩軍の第一回総攻撃は二十二日から始まったのであるから、まだ大砲は一発も撃たない三日前である(中略)城が突如炎上したことについては、種々な風説があった。
 失火だとか、敵の間者の放火だとか、よく知らない人は、大砲の弾によって焼けたと思っている人が多い。
 だが、ここに、長らく秘せられた実話がある。それは今から約五十年前、明治四十年の頃、私(青木氏)の姉、青木とく子が、飽田中部高等小学校の教員をしていたときである。
 私が姉の帰るのを小使室で待っていると、そこにいた屈強な五十四、五歳の小使が、
 「あなたはどこか?」
 ときいたので、
 「島崎だ」と答えると、その老小使は「西南の役で、島崎段山の戦闘は相当に烈しかった」と、語り出した。
 その小使は村上某と言い、戦争のときは軍曹だったそうで、
 「私は射撃が上手だったが、はじめは谷干城司令長官の従卒をつとめていた」
 と、いう。
 「では、当時のことをよく知っていますね〜」
 と問えば、村上老は、
 「よく知っています」
 「いままで、熊本城炎上については、多くの疑問があります。風説もまちまちだが、いかがです?」
という私の問いに、村上老人は、
 「それを知っていたのは谷司令長官と私の二人きりでした。
 谷将軍いまや逝き、いまでは私一人となりました。私も五十五歳となり、いつ死ぬかわからない。もし、このままにしておいたら永遠の疑問の火となり、谷干城英断のほどもわからずにしまうことだろう。
 では、あなた一人に話しておきます。五十年もたったら天下に発表して下さい。はじめてなぞがとけましょう。
 明治十年二月十五日附で、西郷隆盛の手紙が谷長官にとどきましたが、その日であったと思います。
 谷長官が、ひそかに私をよび、誰にも知られぬよう一の天守閣と二の天守閣の床下に、わらくずや薪をつめておけ。わしが火をつけろといったら直ちにつけろ、といわれたので、その通りにはからいました。
 糧食や重要書類は、その前に持出させて、外の倉庫へうつしてありました。
 いよいよ二月十九日になると、長官が、村上火をつけろ、と命ぜられたので、二の天守閣と一の天守閣の床下にもぐりこんで火をつけました……」
 以上で〔青木覚書〕の記述をやめるが……。
 このとき村上軍曹が、たちのぼる白煙を見つめながら、熊本鎮台司令長官・谷干城に、
 「どうして、城をお焼きになるのですか?」
 たまりかねて、きいた。
 「わからんか、村上には……」
 「わかりませぬ」
 すると谷干城いわく、
 「城中に糧食は不足、弾薬も、兵も、みんな不足じゃ、このままではこの城も敵の手中に落ちること間違いはない。
 もし、能州本落城せば、反乱軍に熊本の兵も加わり、さらに北九州、佐賀、大分方面の兵も、みなこの城へあつまり薩摩軍に合流することであろう。
 そうなって、この天下の名城を敵が本拠とすれば、日本は東西二つにわかれ、戦争は一年や二年では終わるまい。
 そして、その損害は、この城一つ焼くこととくらべものにならぬものになろう。
 いまここで、この城を焼いておけば、たとえ城が小洛ちても、敵は中へ入れぬ、入っても立てこもることが出来ぬ。それで焼くのだ」
 村上軍曹によると、谷干城は、
 「加藤清正がきずいたこの名城を、谷ひとりの独断で焼いた。すまぬ、すまぬ、……」
 こう言って、清正の墓所がある本妙寺の方向へ向かい、瞑目合掌したという。
 こうして、熊本鎮台の政府軍は、谷司令官の決断により〔背水の陣〕をしいて戦備をいそいだ。
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■桐野が西郷の名で勝手に出した照会書

<本文から>
 「それ、見やい」
 桐野は胸を張り、
 「熊本鎮台な、おいどんの息が、かかっちょる。みんな武器をすてて出迎えもそ」
 と言ったものだ。
 西郷隆盛が、
 「もはや熊本鎮台の技備もわかりたり。わが軍この峠をこゆれば九州一円は風をのぞんで瓦解せん」
 と、よろこんだという〔鹿児島征討録〕と同じような記事をのせた新聞もあるが、ばかばかしいことだ。
 こんなことを言ってよろこんだのは、桐野である。
 西郷は行軍の途中でも、実に厭な顔をしていた。
 桐野が、三太郎峠で馬を駈け寄せ、
 「先生。熊本な、もはや手中に入ったも同然ごわす」
 満面をほころばせて叫ぶや、西郷は返事もせず横を向いてしまった。
 鹿児島を出るときから、西郷は桐野に口をきかなかった。
 「おやじどんな、あのことをまだ怒ってござる」
 桐野は、わがひきいる大隊が休んでいる山道へ戻って来て、べろりと幸吉に舌を出して見せた。
 幸吉も、むろん桐野の従卒として、薩軍に加わっていた。
 幸吉も、二十一歳の若者になっている。
 すっかり薩摩の青年らしくなって、薩摩なまりも堂に入ったものだ。
 幸吉は、縞木綿の筒袖の裾をからげ、脚半に草鞋がけの旅装だが、桐野からもらった大脇差を腰に帯し、桐野の下着など身のまわりの小物を入れた皮のトランクをひ丈でからげ、これを背負っていた。
 「先生。あのことちゅのは何で〜」
 幸吉がきくと、
 「よか、よか。つまらんことじゃ。おやじどんが、そげに気をつかうようなことじゃなか」
 桐野は笑い飛ばしてしまった。
 それは、こういうわけであった。
 薩軍、鹿児島を発するに先立ち、次のような照会書が、熊本鎮台司令長官へ送りけられた。
 拙者儀、今般、政府へ尋問の廉これあり、明後十七日県下発程(中略)旧兵隊の者
 随行致候間、貴台下通行の節は、兵隊整列指揮を受けらるべく、此段御照会に及候也
 陸軍大将・西郷隆盛
 つまり、自分は兵隊をひきつれて、東京政府を詰問しに行くのだから、自分が熊本城下を通るときは、政府軍はこれを出迎えて整列し、自分の指揮をうけよ…‥と、西郷が鎮台長官谷干城に命じたわけだ。
 この〔照会書〕をうけとったとき、
 「よし、鬼神となっても龍巻城は守りぬくぞ」
 と、谷長官は決意したといわれる。
 谷干城は、旧土佐藩出身で、維新戦争にも抜群の武勲をたてて陸軍少将にまでなった男だ。
 鎮台を白痴あつかいにした照会書をつきつけられて頭を下げるような軍人でほない。
 「西郷さんも、どうかしとる」
 谷は、龍城の決意をかためつつも、首をかしげた。
 当然である。
 むろん、西郷が書いたものではなかった。
 この照会書は、桐野利秋が、鹿児島県庁第一課長・今藤宏に、
 「こげなふうに書いてくれい」
 と、命じて起草させ発送させたものであった。
 気づいたときには、すでに照会書は熊本へ舟けて発せられていたので、
 「早々に取消してもらいたい」
 西郷は、すぐに、今藤へ言ってやったが、時、すでにおそかった。
 同じ日に西郷は、大山県令にあてて、取消しのことをさいそくしている。
 西郷が困るのも当然であった。
 政府詰問の名目で上京するのも変なものだが、ここまでは、西郷も命をすてて身をあずけたのだから、もうよい。
 しかし、桐野が書かせた〔照会書〕は、大胆不敵というよりも非常識にすぎる。
 城下を通行するからそちらも思うような処置をとられたいといってやるなら、まだしもであった。
 今藤は、あわてて「実は桐野どんから申されて……」書いてしまったと返事をしたが、大山県令は、
 「よか、よか」
 取消しの文書も出さず、
 「どうせ、すぐに、おやじどんな政府の中心となって国事にあたられる。そげなこつ、問題にせんでもよか」
 平気なのである。
 こんな工合だから、東京へ向かう薩軍は、食糧の用意もろくにしてはいない。
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