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          南原幹雄−百万石太平記

■前田利長の隠居

<本文から>
 利長は心中をあかした。
 将軍を退隠した家康は、大御所として近々のうちに駿府城に住まい、側近の臣をおき、そこから江戸の幕府政治を指導するようである。利長がかんがえたのも、それとほぼおなじである。利長は隠居した後は、越中新川郡に養老領を得て、富山城を居城とするつもりなのだ。
「前田家は今がいちばんむつかしい時機でござりましょう。殿のご隠居はもうすこし後にのばされたほうがよくはございませんか」
 長種が言った。
 長種は重臣筆頭の立場であるし、利光の博役でもあるから、もっとも現実的なかんがえ方をしている。
 「かりに余が数年隠居をおくらせたとしても、前田家の立場はほとんど今とかわることはあるまい。それがあと十年先になったとしても同断であろう。それならば、時機をおくらすことはほとんど意味がない。そうはおもわぬか」
 逆に利長が長種に言った。
 「十年たてば、前将軍はご他界なさっておるやもしれません。そのとき若君様は立派な成人になられておいででしょう」
 長種は当然そこまで先を読んでいた。
 「しかし家康は、他界いたすまでにきっと、新将軍の幕府を確固たるものにそだてていくであろう。そのために今、自分は退隠いたしたとかんがえるべきじゃ。徳川にもすぐれた重臣老臣はそだっておる。幕府の職制や法度なども今後いろいろさだまっていくであろう。十年時をかせいだとしても、あまり意味はあるまい」
 以前からかんがえていたことなので、利長の意中は揺らがなかった。
 「されども殿がご隠居なされれば、家中はまとまりを欠くことは必定でございます。今後まったく幕府の言いなりになっていく恐れもございましょう」
 今度は横山長知が口絶紬さんだ。
 長知は横山家の一世長隆の次男である。幼名を三郎といい、現在は大勝と名乗っている。ずっと利長につかえてきた臣である。
 「余が隠居して、家中がまとまりを欠くようであれば、なんのための重臣、老臣たちであるか。一人欠くれば後がそだつ。それが人の世じゃ。それに余は富山において健在じゃ。心配はない」
 利長の隠居の決意はかたかった。重臣たちの反対や説得で意志を撤回するものではなかった。
 利長は、今の徳川の治世には嫌気がさしていた。しかし百二十万石の天下最大の大名として嫌気がさしたからといって隠居するわけではなかった。
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■利長は生来、柔弱な性格ではなく、家の存続のために誇りや意地をおさえてきた

<本文から>
 利長は生来、保守、保身をこととする柔弱な性格ではなかった。利家にしたがって、若いころから各地を歴戦してきた経歴からもそれはわかるはずである。利長の剛毅果断は、利家に匹敵する。けれども慶長四年の一事だけによって、利長は保身の人物と世間で見られるようになった。
 利長はこのごろそういうことに少々飽いてきた。自分に合った、生来の生き方がなつかしくなったのである。それには前田家の当主としてはやりようがない。隠居という自由な身分がほしかった。
 それに三年前、利長がはじめて江戸をおとずれ、広徳寺において芳春院と会ったとき、母のかんがえが少々であるが変ってきたような感じをいだいた。芳春院は利長に屈従をすすめたことにいくらか後悔の念をいだいているようだった。
 たしかとは言えないが、利長はそう感じたのである。感じただけであるから、そのときたしかめようとはしなかった。けれどもそれへのおもいは近来、利長のなかで大きくふくらんでいた。
 武士は家の存続も大切だが、誇りや意地や名誉も大切である。いや、それなくしては生きていけないことを、この数年間で利長は痛感した。今まで家の存続のために、誇りや意地をおさえてきたことに後悔さえおぼえていた。
 (両方なくては、武士は生きられぬ)
と大胆にかんがえはじめたのだ。
 母もどうやらそれに気づきだしたようだと利長は感じていた。江戸で人質暮しをつづけてきて、いやが上にも芳春院はそれに気づいたのだろうとおもった。
 もっとはやくから、それについてかんがえていた者が、前田家中にいたかもしれない。けれども徳川家の強大な権力の前には、誇りや意地に目をつぶるしかなかったのである。
 (そんな武士の世界ならば、隠居するにしくはあるまい)
 というのが利長の率直なかんがえ方だ。
 百万石の当主に未練もこころのこりもなかった。養老領の二十万石もあればよい。今後は自分の好きなように余生をおくりたい、というのが利長のこころであった。
 屈折した人生はもういやだ。性格に合わない、と自分で断をくだした。
 「殿様はご隠居なされれば、お好きな余生がおくれて大層結構でありましょう。されどわれらはそうもゆきませぬ。相かわらずこのままでいくしかあるまい」
 連龍がやや皮肉をこめてロにした。
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■芳春院は隠居について、武士の魂を捨てるな、と後押し

<本文から>
 「わたしは女の身ですし、すでに役目をおわった者ですから、どうなったとしてもかまいません。つらいことなど何もありません。ただいたずらに生きているだけです。母のことを心配することはありません」
 「では.隠居のこと、どうかお許しくださいませ」
 「そなた四十路の半ばにも満たぬ身で隠居いたそうというからには、なにか意図するところがあるようですね。そなたは人一倍気性のはげしい子でしたのに、よく今まで辛抱いたしてくれました。さぞ窮屈なことでしたでしょう。わたしは家のために意地を捨てなさいとそなたに申しました。武士は家を立てることがいちばん大切だとも言いました。けれども、それが間違っていたのではないかと近ごろおもうようになりました。家を立てるために武士の魂をうしないましては、先祖の功もまるで意味がありません」
 芳春院はおどろくべきことを口にした。
 あまりにはげしい言葉が母のロからでてきたので、利長はおどろいた。以前の母からはおそらく聞けない言葉だった。
 「…………」
 利長は沈黙した。
 芳春院も沈黙したが、すぐにまた口をひらいた。
 「家だけ大きくなろうとも、家の中の屋根や柱、床などが腐ってしまっては、どうにもなりません。武士は家を立てることが大事だと言いましたのは、夫が死んで間もなくだったからでしょう。夫が立てた家をどうしてもまもりぬかなければならないという気持からでした。そのために利長には、ずいぶん悔しく、みじめなおもいをさせてきてしまったようです」
 「母上、それはかんがえすぎです。武士が家を立てようとするのは当り前です。家なくして一武土のよりどころはありません。母上がおっしゃってきたことは間違いではございません」
 「けれども武士が魂を捨て、誇りをうしないましては、どうにもなりません。わたしは間違ったことをそなたたちに言ってきたのです。申しわけないことをいたしました。今あやまりましても手遅れでしょうが、後になればなるほど、取りかえしがつかなくなります。利長、今からは自分のおもうとおりに生きてください。母のことも、加賀百万石のこともわすれてください」
 おもい切ったことを言ったものである。いくら過去に悔いがあったとしても、加賀百万石をわすれて、おもいのままに生きよとは、あまりに奔放すぎる言葉である。けれどもそれが芳春院の本心からでた言葉であることはたしかなようだ。
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■幕府では前田家をつぶすことよりも、利長をころす方針をたてた

<本文から>
 幕府からのお付人たちは、どうしても利長の命がほしい。利長を消し去ることができれば、加賀百万石が存続していてもさしつかえないが、もし利長が生きているとするならば、加賀前田家をつぶさなければならない。
 幕府では前田家をつぶすことよりも、利長をころす方針をたてた。この方針をたてたのは、本多佐渡守正信の長男で近年、めきめきと謀臣として頭角をあらわし、実力をたくわえてきた本多上野介正純だと言われている。
 正信は家康の側にあって、肚くろき謀臣と言われておそれられた人物であるが、息子の正純は父以上の権謀術策にたけた側近と恐れられている。
 その正純が、徳川家の将来への基礎づくりとして、利長抹殺を計画しているのであるしかも正純の背後には大御所家康がいることは当然予測されるところだ。
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■徳川の謀略、前田家と謀って太閤を弑す

<本文から>
 利長はしばらく興津兄弟を見つめていた。
 「弟には弟の立場とかんがえがあったのだ。十七年前に上野介がたくらんだ秘密は、まことにもって許しがたきこと。太閤殿下をはじめとして天下の諸大名をあざむくものであった」
 叱咤するように利長は興津に言った。
 興津がやや顔をあげたが、何も言わなかった。
 「慶長元年といえば、まだ戦国名残の世と言ってもよき時代でござる。武力と謀略によって覇を制するのが、戦国のならいでござろう。たとえ徳川家と上野介様が謀略をもちいたにしても歪められるべきことではないはず。前田家としてもその謀計に成功いたす自信があれば、上野介様がもちかけた話に乗ったでござろう。高徳院様はただ自信がなかったから乗らなかっただけのことであろう」
 短かからぬ沈黙の後、興津は利長に抗弁してきた。
 「何を申すか、興津内記。あのころ、諸大名はほとんど大軍をひきいて朝鮮へわたっておった。国内にとどまっておったのは、徳川、前田のほかごく少数の大名でござった。そのときにあたって、太閤殿下の病臥に乗じて、徳川と前田南家によって天下を分け取りしようといたしたのは、火事場泥棒にも似た卑劣な策略でござる。徳川家はわが国全体の敵じゃ」
 利長はきびしく極めつけた。
 利長の気晩のはげしさに興津はだまりこんだ。
 「徳川大御所は上野介とはかって、太閤殿下を弑したまい、朝鮮および明国に通じ、おのれが日本国王に封じられんとし、前田家に相談を持ちかけたのじゃ。前田さえおさえておければ、国内にのこった諸大名はことごとく制圧できるとふんだ策略にござる。朝鮮にわたっておる諸大名は、明、朝鮮との戦で海のかなたに釘づけにされておった。国にもどりたくても、もどるにもどれぬ。そして朝鮮と明国への使者には、興津内記、その方がおもむくことになっておった。朝鮮、明国との仲立ちは宗家以外にはつとまらぬ。興津、その方、朝鮮、明国の事情にあかるいことを買われて、上野介に利をもってさそわれ、引き抜かれたのだ。どうだ、興津。それに間違いあるまい」
 利長はぴんと背をのばし、鉄扇を持って興津をにらみつけ、徳川のたくらんだ謀略の大筋を暴露した。
 興津は沈黙をもって応じた。
 「高徳院様の拒絶によって、その策謀は未然についえた。前田を敵にし、徳川一家のみではその謀略ははたせぬからだ。徳川家の前田への恨みはこのときにはじまり、慶長四年の前田家討伐の作戦にまでつながった。興津内記、異論はあるか」
 利長が叱咤したが、興津に異論のあるはずがなかった。
 興津は沈黙をつづけた。
 前田家をまきこもうとした徳川家の謀略はやはり、朝鮮役を舞台にしたものであった。
 利長は当時の情勢からして推論すると、どうしても朝鮮役に行きついた。それで宗家の江戸屋敷から、興津の弟を高岡までつれだして、とうとう隼人の口を割らせたのだった。
 太閤の念願だった〈唐入り)は、日本軍の釜山上陸から京城占領まで、まったく予期以上の戦績をあげ、太閤をよろこばせた。太閤はみずから渡海と入明の準備をおしすすめた。そして関白秀次に朱印状をあたえ、大唐に都をうつし、北京に後陽成天皇の行幸をねがい、都の周囲十ケ国を御料所に進上し、大唐関白は秀次に、日本の関白は大和中納言豊臣秀保か宇喜多秀家にあてると書きおくったほどであった。
 けれどもその後、日本軍は徐々に制海権をうばわれていった。はじめ朝鮮水軍は水使元均のひきいる弱体勢力であった。しかし日本軍の釜山上陸後、全羅水軍節度使李舜臣が協力をしはじめ、しだいに強力な水軍になっていった。巨済島の玉浦、油川、唐浦、唐項浦などの海戦で日本軍はことごとくやぶれた。制海権をうばわれて、日本軍はしだいに補給路がよわくなっていった。これによって日本軍の士気は低下し、劣勢に追いこまれた。その上に打撃をあたえたのは、文禄二年、三年にかけての大飢饉であった。この飢饉は疫病まではやらせ、渡海した日本軍はまったく兵糧の欠乏になやまされた。
 こうして両軍のあいだに講和の気分がつよまり、小西行長と沈惟敬とで和平交渉が行われた。この和平交渉がさまざま難航しているときにあたって、本多正純と家康とのあいだで、天下奪取の謀略がはなし合われ、宗義智の臣興津内記を正純は引き抜いた。そして国内で太閤を耕し、興津が明、朝鮮と交渉して講和をはかり、明帝の国書によって、家康を日本国王に、前田利家を日本準国王に任じようという謀略の絵図がえがかれた。正純と興津内記の暗躍がしきりにおこなわれたのは、この時期である。
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■前田日記を漏らさない引きかえに幕府が前田家に末代までも手をださぬ

<本文から>
 利長の死後三日めに、ようやく正木は高岡城にもどってきた。
「話し合いはついた。兄は(前田日記〉の件を外へ洩らさぬことと引きかえに、幕府が前田家に末代までも手をださぬことを誓った」
 正木は刀十郎にそうつたえたが、利長の死を知って、一層をおとした。
 正木は江戸の正純のもとへ、前田家の浮沈をかけた命がけの交渉にでかけていたのであった。
利長の死は、豊臣家に味方しようとする利長を前田家の家来たちが幕府をはばかって、ひそかに毒をもってころしたとも、前年の傷がなおらず死にいたったとも世間で言われている。
 かくして加賀百万石は大坂の陣をくぐりぬけ、江戸時代を天下最大の雄藩として明治維新までつづいた。
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