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<本文から>
太閤秀吉の生涯を見る者は、そこに登場する人物が前半と後半とで全く変っていることに気づくだろう。秀吉が天下人となって豊臣の姓を名乗る頃に、活躍する史上の有名人のほとんどは、天正初年のこの頃にはまだ現われていない。
一方、この稿に列記した木下藤吉郎時代からの家来たちの多くは、天下人となった秀吉の周囲からは消え去っている。『太閤記』の前後半を通じて名が現われるのは、御一門衆の秀長や木下、浅野の一族を別とすれば、蜂須賀小六と堀尾茂助吉晴、それに仙石秀久、加藤光泰の四人ぐらいだが、このうち仙石、加藤の両人は一時秀吉の勘気を受けて追放されたのを、小一郎が救済して復帰させてやったものだ。
秀吉草創期の家臣たちのほとんどは、病死した竹中半兵衛らのほかは、大抵戦死するか秀吉白身の手で追放または処刑されている。先に列記した「黄母衣衆」の中でも、尾藤甚右衛門、神子田半左衛門らは刑死であり、一柳市介、宮田喜八らは戦死し、大塩金右衛門、中西弥五作らはその末路が分らない。 |
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