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          豊臣秀長(下)

■秀吉の前後半とでは登場人物が変わっていく

<本文から>
 太閤秀吉の生涯を見る者は、そこに登場する人物が前半と後半とで全く変っていることに気づくだろう。秀吉が天下人となって豊臣の姓を名乗る頃に、活躍する史上の有名人のほとんどは、天正初年のこの頃にはまだ現われていない。
一方、この稿に列記した木下藤吉郎時代からの家来たちの多くは、天下人となった秀吉の周囲からは消え去っている。『太閤記』の前後半を通じて名が現われるのは、御一門衆の秀長や木下、浅野の一族を別とすれば、蜂須賀小六と堀尾茂助吉晴、それに仙石秀久、加藤光泰の四人ぐらいだが、このうち仙石、加藤の両人は一時秀吉の勘気を受けて追放されたのを、小一郎が救済して復帰させてやったものだ。
 秀吉草創期の家臣たちのほとんどは、病死した竹中半兵衛らのほかは、大抵戦死するか秀吉白身の手で追放または処刑されている。先に列記した「黄母衣衆」の中でも、尾藤甚右衛門、神子田半左衛門らは刑死であり、一柳市介、宮田喜八らは戦死し、大塩金右衛門、中西弥五作らはその末路が分らない。

■正月祝いでも秀長は留守を守った

<本文から>
 天正二年(一五七四)元旦、織田信長は岐阜城において恒例の正月祝賀の儀を行なった。生涯徹底した無神論者であったこの男も、正月だけは大いに祝う。むしろ無神論者であるが故に、正月というような無神のけじめを大事にした。信長は、神仏嫌いだがお祭行事は大好きである。
 殊に、この年の正月は、織田家にとって最高に目出度い。朝倉、浅井を討ち亡ぼし、足利将軍義昭という邪魔者を追い、本願寺とも和睦をした。その上、宿敵武田信玄も天命冬きて消え去った。今は、久し振りに交戦中の敵がいないから、織田家の諸将はこぞって岐阜に参集できた。
 北近江十二万石の領地を得た新大名、羽柴秀吉も、多数の組下与力の部将や織田家に降った近江の城主。豪族を引き連れて参加した。だが、その時も小一郎秀長は小谷城の留守を務めていた。誰もが出たがる晴がましい席は他人に譲り、誰かが務めねばならぬ目立たぬ役を果すのが、この人の習いとなっていた。
 正月祝賀の儀は、大勢が列座する表の行事と、高位の一族。重臣だけが許される内輪の酒宴に分かれる。朝のうちに行なわれる表の行事では、大広間の正面、一段高い主君の座の信長に対して、諸将や公家、寺社の使いが次々と祝言を言上し、贈物を披露する。羽柴秀吉も御前に進み、連れて来た与力衆や近江の新参衆を信長に引き合わせた。
 「何某はこれこれの功あり」とか、「何の誰はかくかくの家柄血筋」とか紹介すると、信長が短い言葉を掛けてやる。ただこれだけのことで「お目見えを得た」ことになり、武士としては大いに箔が付く。三度四度とお目見えをたまわり殿様に氏素姓まで覚えられれば、家中でも重視されるようになる。
 それほどだから、武士はみなこういう席に出たがる。この機会に何人の組下や部下を殿様のお目見えに浴させるかが重臣たちの手腕となり、勢力拡張の基にもなる。この織田家で、それを最も厚かましくするのは羽柴秀吉だった。

■超多忙な織田軍

<本文から>
 しかも、小一郎の勉学は、今日の受験生のような楽な条件で行なわれたものではない。この頃も織田家の将兵はみな、超多忙である。
 織田信長は、何物かに追われるように生き急いでいた。去年は、長篠で武田勝頼を破り、越前一揆を平定した。領国内の橋と道を修理し、主な街道には並木まで植えさせた。外征。内治共に大いに進んだわけだ。これを機会に、家督を長男。信忠に譲って楽隠居するといい出し、茶道具だけを持って岐阜城を出たりしたこともあった。
 だが、それも束の間、今年の正月には、近江。安土に巨城を築くことになり、着工後一カ月すると、早くも安土に移住して来た。まだ、石垣も櫓もない工事現場に仮小屋を建てて住み込んだのだ。これでは、築城総奉行の丹羽長秀はじめ、安土近くに領地を持つ羽柴秀吉や明智光秀などは落ち着いていられない。何しろ信長という人物は、遅延を嫌い言い訳を許さぬ性格である。
 長浜の築城を終ったばかりの羽柴家は、またしても将兵、領民を大動員して、安土の築城を手伝った。領民の労苦も大変だが、これを治める領主も楽ではない。不安が昂じて一揆にならぬよう四辺に目を配らねばならない。食糧の手当も貨銀の支払いも公平迅速にやらねばならず、その手当に借金をすることもある。十二万石の領主になったのは有難いが、内実は火の車なのだ。
 だが、事はそれだけでは済まなかった。織田信長の軍事的成功と安土進出は、各地の勢力に不安と脅威を与えもした。なかでも鋭敏な反応を示したのは大坂石山の本願寺である。そしてその本額寺の背後には、中国の毛利がついていた。
 「本願寺再び不穏」の報を得た信長は、投降した旧敵、阿波の三好康長(笑岩)や、大和の原田直政、紀州の根来衆らにこれを監視させると共に、明智光秀、猪子兵介、蜂屋頼隆らを派遣した。それが刺激となったのか、本願寺は決起、再び織田家と戦端を開いた。
 この年(天正四年)五月四日、織田方は三千挺の鉄砲を斉えて討ちかけたが、本願寺勢の逆襲にあい、原田直政が討死、諸勢も散り散りになり、ようやく天王寺砦に入った明智、猪子は包囲されるという大敗を喫してしまった。武田椅馬隊には絶大な効果を上げた織田鉄砲隊も、神出鬼没の本願寺勢のゲリラ戦法には翻弄されたわけである。

■兄に劣る弟と冷笑されても愚直を装って耐える秀長

<本文から>
「羽柴秀吉は、昨年秋の播磨討入りでも多額の借金をした。今また、大軍を擬して西下するとなると、織田信長から資金を引き出す以外にない。だが、こと金に関しては、信長も甘くはない。近江十二万石の領地に加え、「中国十カ国斬り取り次第」の特権まで得た秀吉は、自領からの収入と占領地での稼ぎで戦費を賄うのが原則になっている。信長の側から見ても、この上、秀吉にだけに資金まで与えるとなると、家中の公平さを失し、家臣団の統制を損ないかねない。秀吉が、北陸で犯した軍令違反(柴田勝家との対立から無断撤退した事件)の罪をまぬがれるために多額の金品を費消したが、それは、秀吉の責任であって信長が補填すべき事柄ではない。何よりも、この時期織田家には北の上杉謙信に備えねばならぬという事情があった。
 こうした事情を考えれば、播磨の諸侯の間に離反の動きがあるという程度では、信長から大量の資金を引き出すことはできない。それは、秀吉白身の青任で行なった調略の失敗を意味するだけだからである。織田家の資金を使えるのは、誰もが納得するほどの決定的な状況が発生した場合に限られる。
 しかし、こんな事情を播磨の連中に知らせるわけにはいかない。これが知れ渡れば、秀吉の権威と信用は失墜し、味方を繋ぎ止めることも行政統治もできなくなってしまう。今、小一郎が、恐怖と不安に脅えながらも、敢えて呑気な建前論を繰り返しているのは、こうした事をことごとく熟知していたからである。
 たとえ、「兄に劣る弟」と冷笑されても愚直を装って耐えねばならない。補佐役たる者は、時としてあほうになり切る才覚もまた、必要なのだ。

■中国攻め渦中、功は少ない留守を守りきる

<本文から>
「二カ月半ほど前、宿敵武田家を完全に亡ぼした織田信長は、戦勝祝いの終るのも待たずに、天下平定の軍を四方に進めさせた。自身は武田攻めに功労大であった徳川家康を上方見物に招待したりしながらも、諸方の軍を遊ばせたりはしない。羽柴秀吉には中国毛利への攻撃再開を促し、三男の信孝と丹羽長秀には四国攻めの準備を命じる。東では滝川一益をして関東の北条を攻めさせ、北では柴田勝家に命じて越後の上杉景勝を追わしめた。織田五軍団は、徳川家康の接待役に当っている明智光秀以外、休む間もなく四方の平定に当っていたのだ。今の織田家には、四隣の敵を一度に相手にしてなお余裕あるほどの実力が備わっている。事実、北陸方面を担当する柴田勝家は、織田主力が武田領を攻め潰している間にも、上杉方の越中魚津城を陥している。羽柴秀育とて安穏とはしておれない。
 羽柴秀吉は、まだ武田勝頼の死の伝わらぬ三月十五日、早くも行動を起していた。二万の大軍を率いて山陽道を西へ。目指すは毛利方の防衛前線拠点・備中高松城だった。
 「今度は毛利に止めを刺す戦さじゃ。みな、心してやれい」
 出陣に当って兄・秀吉はそう叫んだ。天正五年に中国政めの総大将に任じられて以来丸五年間、秀吉はそういい切れるほどの優勢を築き上げていたのだ。
 「楽な五年間ではなかった…」
小一郎秀長はそう思う。中国攻めの総大将という大役を与えられた時、兄・秀吉は雀躍りして歓んだものだ。中国十カ国を領する毛利は、当時も今も織田家の最大の敵である。それを攻める総大将こそは、家中第一の部将である。尾張中村の水呑百姓の小停が、足軽として仕えてから二十七年やそこいらでこの地位に就けたのは奇蹟であり、信長の織田家ならではのことだ。
 それだけに毛利との戦さは苦しかった。相手は二百万石の大領の主であり、唐南蛮とも交わる先進性と豊かな財源の持ち主だ。おまけに強力な水軍を摸して機動力も抜群、家中の結束も固い。その戦力と縦深性は、山国の武田家の比ではない。
 だが、何より厄介だったのは毛利の外交力だ。織田信長に京を追われた足利将軍義昭を引き取り、本額寺と結び、雑賀・根来の衆を唆し、播磨の別所を叛かせるなど、巨大な外交戦略を展開して織田方を苦しめた。中でも毛利外交の白眉は、織田家の高級部将荒木村重を叛乱に導いたことだ。この時ばかりは羽柴秀吉も、危うく退路を断たれて滅亡する所だった。
 だが、織田信長はそれ以上の強靭さと機動力を発揮、九州の大友らを動かして毛利の動きを牽制し、畿内の敵を一つ一つ叩き漬していった。この間、羽柴秀吉も何度か招集され、各地の戦さにこき使われた。そんな時、留守を守るのは、大抵小一郎秀長の役だった。
留守居といっても平時の城代とはわけが違う。大敵毛利と直面する最前線を、僅かな兵で守るのだから恐ろしい。兄・秀吉が主力部隊を連れて転戦している間に毛利の大軍が攻め寄せればまず命はない。内部から裏切り者がでてもいけないし、軍資金と兵糧の持ち出されたあとのやり繰りも楽ではない。それでいて、無事に終れば誰も功を認めてはくれない。そんな損な役回りを、小一郎は確実に務めた。
 やがて、その甲斐はあった。戦さでも外交でも織田方が優勢になったのだ。兄・秀吉は外交調略の達人で、尼子の残党を使ったり、鳥取城主だった山名皇国を出奔させたりした。中でも最大の成果は備前、美作二カ国の領主。字書多直家を寝返らせたことだ。これによって、五十余万石の兵が鉾を逆にしたのだから大きい。今日の中国筋における織田家の優位は、これによって決したといってもよい。
 去年(天正九年)の七月から十月末まで丸四カ月にわたった鳥取城の兵糧攻めを破れなかったことが、毛利軍の実力低下を如実に示している。今回の出陣に当って、兄・秀吉が「毛利に止めを刺す」と豪語したのも、これだけの背景があってのことだ。

■常に味方の力に合った戦さで連戦連勝の秀長

<本文から>
「 世に、長久手での徳川の勝利ぼかりが名高く、伊勢での羽柴方の働きはあまり伝わっていない。自らの武名を轟かせたかった一方の主役。徳川家康と、あくまでも補佐役に徹した小一郎秀長の違いであろう。この人は、自らが築いた軍事的優位をも、兄・秀吉の外交手腕の一部に提供したのである。
 それ以降の戦さになると、もう兄・秀吉の手を煩わす必要さえもなかった。小牧・長久手の戦いの翌年(天正十三年)、徳川・北畠に与した紀州の根来・雑費の僧徒や四国の長宗我部元親らを平定したのは、小一郎秀長だ。そして、のちに(天正十五年)九州全島をまたたく間に平定したのもこの人である。兄・秀吉が、多少とも戦場らしき所に立ったのは、小高が四国の終戦処理に当っている間に起った嘩中の佐々成政攻めの時ぐらいで、あとの戦さでは、秀吉はただ小高の攻め取った跡を賑々しく歩いて見せただけである。
 長久手の戦いで局地的勝利を収めた徳川家康が、結局は秀吉の軍門に降らざるを得なかったのも、小一郎秀長が四隣を平定してしまったからだ。小牧の対陣から一年経つと、徳川は依然として五カ国を持つだけなのに、羽柴は七カ国の領地を加え、北畠・長宗我部を味方にしていたのだから、家康も抵抗のしようがなかったのだ。
 だが、小一郎秀長が行なったこれらの平定戦も、誰にでもできるほど容易いものではなかった。現に、長久手では甥の秀次が大敗しているし、九州平定戦では先行した仙石秀久、長宗我部元親らが、戸次川の合戦で島津の強兵に惨敗を喫している。戦さは、大勢力を背にすれば必ず勝てるほど単純なものではない。
 その点、小一郎秀長の戦勝記録は凄まじい。小一郎は生涯のうちに大小百回以上も戦場に立ったが、一度として失敗したことがなかった。弱兵寡勢を率いる時はよく守って崩れず、大軍を持つ時はけれん味のない戦術で故に乗ずる隙を与えなかった。何よりもこの人が得意としたのは、兵軸と諸将の調整だ。小一郎は、将にも兵にも安心感を与える術を心得ていたのである。
 そんな小一郎の作戦には、武勇を誇る土佐兵も、勇猛第一といわれた薩摩隼人も、手も足も出なかった。戸次川で、仙石、長宗我部、大友の大軍を破った島津勢も、この人が来るとたちまち薩摩一国に追い詰められてしまう。
 小一郎は、常に味方の力に合った戦さをした。そんな戦さができるのは、功名を狙うことも名声を求めることもなく、補佐役に徹した人間の特権なのかも知れない。
 しかし、小一郎秀長が賎ケ岳の合戦以降に卑した功績は、軍事よりも内治にこそ大きい。天正十年の山崎の合戦から同十三年の四国平定までの丸三年間に、羽柴秀吉は織田家の一部将から天下人に成上った。羽柴の領地は一挙に十倍、動員兵力も一万から十万になった。しかも、かつての主筋に当る北畠信雄や伝統ある大大名の毛利、上杉らをも従えたのだ。内治も諸大名との関わりも一挙に変えねばならない。だが、それに当る人材と組織は三年の間にできるものではない。
 例えば、今、どこかの大企業の子会社だった中堅企業が、三年の間に事業規模が十倍になり、従業員数が一万人から十万人になり、かつての親会社をはじめ数々の一流大企業を買収して足下に収める好運に恵まれたとしたら、この会社の経営陣はどれほど忙しいだろうか。かつては親会社の人事本部や財務本部に統括されていた人事。資金も、今はこちらが指導しなければならない。グループ全体の調整も必要だし、政治家、役所、諸外国との付き合いも一挙に増える。しかもこの会社は、もとはといえば二流の子会社、人材は乏しいとあっては、トップのオーバーワークは避けられまい。
 天正十三年、紀州、四国を平定し、徳川家康を配下に加えた頃の羽柴家とは、そんなものだった。軍事的勝利はしたものの、内治の不備は著しい。人材の不足はいうまで濁ない。これまで秀吉の部下として働いた連中は、戦さの経験は豊富でも内治には暗い。昔ながらに大声を張り上げて駆け廻るばかりで、規則も手続きもわきまえない。文字さえ読めぬ者さえ少なくない。加藤光泰や神子田正治のように、急に大領を得たのに有頂天になって、片っ瑞から浪人者を雇い入れて破産する阿呆さえ多かった。彼らには、四万石で雇える人間の数さえ分らなかったのである。
一方、のちに豊臣政権の政治で重きをなす文治派官僚はまだ若かった。石田三成はやっと二十五歳、大谷吉継もほぼ同じ、四十歳になっていた増田長盛も購ケ岳ではまだ槍働きをする程度の地位だったし、長束正家は丹羽長秀の経理担当者だった。

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