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          豊臣秀長(上)

■秀長は兄と同体の名補佐役

<本文から>
 補佐役−それは、参謀ではない。専門家でもない。もちろん、一部局の長、つまり中間管理理者でもない。そしてまた、次のナンバー1でもない。
「この人」は、豊臣家という軍事・政治集団の中でナンバー2の地位にあった。それは、秀吉がまだ木下藤吉郎とすら名乗っていなかった頃から、関白太政大臣として天下に号令するようになるまで変らない。「この人」からナンバー2の地位を写えたのは、「この人」自身の病死だけである。
「この人」は、豊臣家の外的発展と内部調整において多大の功績を残した。時には、兄・秀吉すらなし得ぬことをした。兄・秀吉がやりたがらぬこともした。秀吉が行うことにも協力した。だがそれを、自らの姿が目立たぬようになし遂げた。「この人」の役割は、驚くべきプランを提唱することでもなければ、一部局を率いることでもなく、兄・秀吉と同体化することだった。
 「この人」は、経歴の古さにおいても、実績の多さにおいても、実力と権力の大きさでも、兄・秀吉に次ぐ存在だった。誰疑うこともないナンバー2だった。だがその故をもって、次期ナンバー1を目指すことはなかった。「この人」の機能は、「補佐役」であって「後継者」ではなかった。
 「この人」は、そういう役回りを不満に思いはしなかった。むしろそれを自分の天命と考え、よき補佐役たることに誇りを持っていたことだろう。「この人」は、兄と自分が一体となって形成する豊臣家のトップ機能の堅固さにこそ歓びと満足を感じていたに違いない。「この人」は参謀として謀をめぐらすこともなく、専門家として才技を誇ることもなく、次のトップとなることを望まず、何よりも自らの名を高めようと欲することなく生きた。それ故にこそ兄・秀吉と同化し真のトップ機能の一部となり得たのだ。
 「この人」の死は、豊臣家の首長機能を著しく弱体化した。よき補佐役を失った秀吉は、ただ一人で首長の機能全部を果さねばならなくなり、多忙と孤独、独善と焦りに陥ち込んでいく。このため、豊臣政権における内部調整の不備が、「この人」の死と共に噴出する。「この人」に代るよき補佐役が見つからなかったのだ。
 史上に、優れた首長は数多い。天才的な参謀も少なくない。才能豊かな専門家や忠実勇敢な中間管理者も多数登場する。だが、よき補佐役はごく少ない。そして、補佐役を描いた物語はなおさらに少ない。

■兄の家来になる

<本文から>
 土間に跪いた兄は、板の間の小竹に両手を差し伸べるようにして、語り出した。
「確かに俺は墟が多い。しかし、生れも賎しく力もない俺が出世して行くためにはそうもせにゃならんのじゃ。俺はこうなると先に決めてから励む、これはこうするというてからやってみせる、まずは自分を追い込んでしもうてから、生きるためにあがく。それでのうては、這い上ることはできんのじゃ。分ってくれや、小竹・・・・」
 兄は、つい先刻までのおどけた陽気さとはがらりと変って、涙声になっていた。
 「危ない渡世じゃにゃあ・・・それは・・・」
 小竹は、半ば同情しながらも戒めをいった。
 「そうじゃ。危ない橋も渡らにゃあならん。怖いこともあるわい。しかし、それをやり抜くのが出世の道じゃ。俺がな、小竹・・・」
 兄は、膝這いのまま板の間に上り込んで来て、小竹の膝を抱きかかえた。
「汝に頼みたいのはそこじゃ。俺は、とにかく、前に走る。上を見ながらひたすらに計る。なればこそ、汝にあとをしっかりと支えてもらいたいんじゃ」
 兄はそういって、「頼む……」と両手を合せた。
 小竹は、うなずいた。兄にこう告白されると、怒りようもなかった。それ以上に、陽気に大法螺を吹いている兄の心の底にある孤独な淋しさを見せられた思いがして、
 (捨てられない・・・)
という気になっていた。
 「分った・・・」
 小竹は、ぽつりと呟いた。
 「な、なってくれるか、俺の家来に・・・」
 兄は、大声で叫び、小竹の両手を握った。
 「なる・・・」
 小竹は、自らの悪いを断つように強くいった。
 「但し、一つだけ条件がある」
「何じゃ、何なりというてくれ・・・」
 兄は急き込んだ。
「来年の田植えまでに、ほんまの組頭になってくれ。その上で、改めて迎えに来てくれんか。おっかあをがっかりさせとうないからな・・・」
 小竹は、ただそれだけをいった。
 この瞬間、「この人」は二つの決断を下していた。そのは不安と困難に満ちた海にこの馴染み薄い兄と共に船出する覚悟であり、もう一つはこの兄の補佐役として労多く功少ない立場に身を置く決心だった。

■上手に内部を調整・固めた

<本文から>
小一郎は、大男を見上げて鼻で笑った。
「素手の掴み合いなど戦さの用に立たんわい。これで俺を斬ってみろ」
といって、腰の刀を抜いて大男の胸元に突きつけた。相手も刀を出して打ちかかって来たら、ひとたまりもないだろう。小一郎は怖かった。だが、懸命に耐えた。
「骨が鳴るほど身が震えても退かずに進む度胸があれば武士は勤まる」
といった兄の言葉を思い出した。
果して大男はあとずさりをした。小一郎はそれを追って進み、長屋の枚壁に追いつめた。そこで素早く刀を返し、柄の方を差し出した。
「さ、やれるか・・・」
最早、相手に斬る気力のないことを見てとった小一郎は、ニヤリとした。
「流石…」
そんな声がした時、小一郎は刀を鞘に収め、短い説諭をして自分の長屋に戻った。戻ってからはじめて、骨が鳴るほどに身が震えた。だが、刀を突きつけた時には、不思議と剣先が揺れなかったことを思い出して、自ら満足した。
 こんなことがあってから、足軽たちも小一郎のいう事を聞くようになった。だが、それにも増して、彼の権威を高めたのは、小まめに日々の面倒を見たことだろう。
 兄から借りた僅かな銭を因っている者には貸してやった。だが、必ず次の俸給日には取り返した。二度日に貸す時には利子も取った。借金が損だと教えるためだ。そしてその利子を蓄えて、十日に一回の酒盛りの時にみんなに酒肴を貫い与えた。
 博打は適度に許した。但し、賭金の一割は組のために上納させ、病気などで困った者に見舞いを出す制度を作った。そして必ず、月ごとに利子と上納金の額を全員に教え、自分の手元にかすめ残していないことを明らかにした。
 相談事は時間を惜しまず聞いてやった。親元に帰る者には、僅かでもみやげを持たすようにした。その代り、帰りが遅れた者からは必ず給金を引いた。幸いなことに、このみやげ代と罰金とはほぼ釣り合い、兄かち借り受けた米銭が減ることはなかった。
 なかでも小一郎が精を出したのは、喧嘩・もめ事の仲裁だった。双方から念を入れて事情を聞いたし、当事者以外の証言も求めた。悪い者には雑役を命じたり厳しい教練をさせたりする一方、悪くない者には酒などを飲ませた。苦情処理ともめ事の仲裁は、生涯「この人」の最も得意とした所でこうした努力の結果、ニカ月を経ずして足軽たちも小一郎を尊敬し、その言葉を重んじるようになった。

■兄には自分が必要と自覚し不遇も耐える

<本文から>
 二千人を指令する軍政司令官という役割と四首長という封禄とは、いかにもアンバランスだ。当時としては常識破りのこのやり方こそ、信長式である。この天才肌の苛烈な主君は、能ある者には重責を与え大軍をまかすが、封禄の方はそう気前よく増しはしない。それによって有能な成上り者と能力の乏しい累代の重臣との均衡を取っていたのだ。
 「能ある者には権を、功ありし者には禄を」
 という人事管理の要領を、若き日の信長は見事なまでに実行していたわけだ。
 この体制で、最も割を喰うのは能力者の補佐役だ。仕事が多く責任が重い割には封給が低い。今、藤吉郎の実弟、木下小一郎はそんな立場にある。
 「この人」のしなければならない仕事は多い。木下組の足軽や新付の地侍の管理、配下諸城の監督、新領の年貢取立てや地割の変更、そして木下家自体の家政と経理などだ。有能な兄は主君に呼ばれて留守勝ちだから、これらの仕事のほとんどは小一郎の肩にかかって来る。
 だが、禄は少ない。未だに四十貫に過ぎない。家臣の統率、配下の監督、情報の収集などに、かなりの人数を自前で斉えねばならぬ兄としては、これ以上を弟一人に与えるわけにはいかない。
 もし、この頃、木下小一郎が望んだとしたら、兄と別れて織田家に仕えて、百貫取りの直参として独立することも容易かったであろう。この時代、ちょっと気の利くものなら兄弟別々に主君に仕え、それぞれ直参の武士として一家をなすのが普通だったのである。
 だが、小一邸は、そんなことを一切考えなかった。「この人」が不満のなかった百姓暮しを捨て武士の社会に身を投じたのは、独立の侍として成功するためではなく、兄・藤吉郎の補佐役となるためだったのだ。
 (兄者には俺が要る・・・)
 そう考えることが、小一郎には心地よかった。兄は恐ろしく頭がよく活動的で努力家で驚くほどに大胆だ。人心収穫の術と機を見るに敏な感覚でも卓抜している。だが、そのあまりにも積極的な性格にはどこか危なっかしい所がある。無能者への寛容と些事に対する緻密さを欠くようにも見える。あるいはそれは、前に進むことを急ぐあまりの多忙さが原因かも知れない。だが、原因が何であれ結果は同じだ。自分が居なければ兄は何かに躓くに違いない。

■生涯主役になろうとは望まないよう言い聞かせた

<本文から>
(掩は、一人では大した武将にはなれん・・・)
 小一郎はまた、そうも考えた。あまりにも機敏で大胆で人生に対する闘志に燃える兄の側にいるせいか、「この人」には自分の至らぬ所もよく見えた。所詮は「補佐役」に適するように生れついている、と思うのだ。
(どうせ補佐役なら兄のそれになり、生涯主役になろうとは望まぬことだ・・・)
 小一郎は、そう心に決め、何度も自分にいい聞かせていた。そして同時に、乏しい禄をせっせと蓄えもした。「この人」は、兄とは違って生涯女好きでもなければ派手好みでもなかった。物欲も大きくなければ、目立ちたがりもしなかった。ただ銭を蓄えることだけは、百姓暮しの間に身についた習慣通りに続けていた。
 幸い、今日までの所、大胆な兄と丁寧な弟との組合せは巧く行っている。
「小一郎、いずれまた御加増のこともあろうでなあ・・・」
 常に前を見つめている兄は、そんな言葉で小一郎への感謝の気持を表現した。お前の禄が少な過ぎるのは分っている。いずれ御加増頂けばお前の手当も増してやるぞ、という意味なのだ。
 だが、弟は、それも望んでいなかった。ただでさえ出世を急ぐ兄が焦って失敗でもすれば大変だ、という心配の方が先に立つ。補佐役たるもの、主役がひっくり返ったのでは元も子もない。

■多忙な兄をよく支える

<本文から>
「藤吉郎も、ようやっとるわい」
 信長は甲高い声で満足気にそういった。伊勢の軍事攻略における滝川一益の働きと、京の行政における木下藤吉郎の手腕とが、この時期の信長を大いに喜ばせた。
 (確かに兄もようやる・・・)
 この信長の言葉を伝え聞いた木下小一郎秀長は、よき兄を誇りに思った。京の安定と繁栄の功績の幾分かが、織田家の京都奉行の一人・木下藤吾郎にあることは疑いもない。小人、足軽という最下級の身から出発したにもかかわらず、兄は高貴な人々の雲集する都でも今や臆することがない。出自の賎しさに対するこだわりも消えたし、古い仕来りにとらわれることもない。主君・信長の性格と政策をそのまま反映させた木下藤吉郎のやり方が、古都に積ったしがらみを打ち破り、物事を単純化して、かえって万事を円滑にしているのだ。京人の陰湿な抵抗を排するために、木下藤吉郎のような全くかけ離れた男を奉行に就けた信長の人事は巧妙かつ効果的であったといえる。
 織田信長は、こうした兄の功績を認めて、また一段と地位を高めてくれた。つい三年ほど前までは雲上人のように思えた信長の側近・武井夕庫の上位に置かれたのだ。但し、禄の加増は案外少ない。能力ある者には惜しみなく権限を与えるが、禄は比較的低く抑えて、家中のバランスを保つのが、信長流の人事管理、人材登用術である。このため、木下藤吉郎の指揮下にある京都駐留軍の大半が織田家からの「借物」で、木下家自身の家中は少ない。内部の調整に当る小一郎には、依然として苦労が尽きない。
 しかも、小一郎の仕事はそれだけではない。兄の地位が高まるにつれて、その第一の家臣である小一郎も注目されるようになった。京都奉行に取り入ろうとする者はみな、その弟にもすり寄って来る。貴人高僧から大名や商人座頭まで、いろんな連中が小一郎を訪ねて来る。
 (しんどい事や)
と、小一郎は思う。二十歳過ぎまで尾張・中村郷の首姓であった身には、都の高貴な人々と付き合う作法がひどく窮屈だ。長ったらしい文章の往来も面倒だ。しかも、彼らの持って来る話はみな複雑でこみ入っている。都の者はみな、気の遠くなるような昔から説き起して「我が家の土地を何某が・・・」と権利回復を訴えたりする。だが、その相手方もまた同じことをいう。どの時代を基準にするかで正邪が変るのだ。
 小一郎は、少しでも重要と思う問題は兄にそのまま上げる。しかし、細かな事は自分の判断を付けて兄に伝えて、決済のみ仰ぐ。そうでもしないと、兄が多忙になり過ぎるからだ。

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