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<本文から>
補佐役−それは、参謀ではない。専門家でもない。もちろん、一部局の長、つまり中間管理理者でもない。そしてまた、次のナンバー1でもない。
「この人」は、豊臣家という軍事・政治集団の中でナンバー2の地位にあった。それは、秀吉がまだ木下藤吉郎とすら名乗っていなかった頃から、関白太政大臣として天下に号令するようになるまで変らない。「この人」からナンバー2の地位を写えたのは、「この人」自身の病死だけである。
「この人」は、豊臣家の外的発展と内部調整において多大の功績を残した。時には、兄・秀吉すらなし得ぬことをした。兄・秀吉がやりたがらぬこともした。秀吉が行うことにも協力した。だがそれを、自らの姿が目立たぬようになし遂げた。「この人」の役割は、驚くべきプランを提唱することでもなければ、一部局を率いることでもなく、兄・秀吉と同体化することだった。
「この人」は、経歴の古さにおいても、実績の多さにおいても、実力と権力の大きさでも、兄・秀吉に次ぐ存在だった。誰疑うこともないナンバー2だった。だがその故をもって、次期ナンバー1を目指すことはなかった。「この人」の機能は、「補佐役」であって「後継者」ではなかった。
「この人」は、そういう役回りを不満に思いはしなかった。むしろそれを自分の天命と考え、よき補佐役たることに誇りを持っていたことだろう。「この人」は、兄と自分が一体となって形成する豊臣家のトップ機能の堅固さにこそ歓びと満足を感じていたに違いない。「この人」は参謀として謀をめぐらすこともなく、専門家として才技を誇ることもなく、次のトップとなることを望まず、何よりも自らの名を高めようと欲することなく生きた。それ故にこそ兄・秀吉と同化し真のトップ機能の一部となり得たのだ。
「この人」の死は、豊臣家の首長機能を著しく弱体化した。よき補佐役を失った秀吉は、ただ一人で首長の機能全部を果さねばならなくなり、多忙と孤独、独善と焦りに陥ち込んでいく。このため、豊臣政権における内部調整の不備が、「この人」の死と共に噴出する。「この人」に代るよき補佐役が見つからなかったのだ。
史上に、優れた首長は数多い。天才的な参謀も少なくない。才能豊かな専門家や忠実勇敢な中間管理者も多数登場する。だが、よき補佐役はごく少ない。そして、補佐役を描いた物語はなおさらに少ない。 |
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