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<本文から>
気に入れば、とことんまで気に入るご性質であったことがわかりますね。清盛は利口でぬけ目がなく、人好きのする男ですから、後白河はお気に入られたに違いありません。
つまり、摂関家をおさえようという謀略と、好きになればとことんまで好きになる後白河のご性質とが、清盛をあんなに栄達させたのだと思うのです。清盛の急速な栄達と、後白河の院政時代とは一致しているのですからね。こう思わないわけにいかないのです。
清盛は太政大臣は三月でやめて、翌年は出家し、兵庫の福原の別荘に移りました。隠居しごとに、中国の貿易船を引きつけるために、輪田港(兵庫港)に防波のために新島を築いて良港にするためだったのです。そして築いたのです。
貿易は、彼の家のお家芸ですが、この時代にこれほどの大計画を立て、実行にかかる人物が他にあろうとは思われません。藤原氏の摂関はもちろん、後の頼朝にもこれほどの気宇はありますまい。『平家物語』などの記述では、清盛は強情我慢で癇癪もちの性格に持出してありますが、実際の清盛は違うようです。最晩年にはいくらかその傾きがあるようですが、大体において最も紳士的でやさしい性質の人であったようです。『十訓抄』に、「福原の大相国禅門はいみじき性質の人であった。人が自分のきげんをとるためにしたことは、折りに合わないにがにがしいことであっても、また面白くないことであっても、きげんよく笑って見せた。人があやまちをし、つまらないことをしても、荒い声で叱りつけるようなことは少しもなかった。寒い季節には、小侍共を自分の夜具の裾に寝させた。こんな時、早く目ざめると、彼らを十分に覆させるためにそっと起きた。家来とも言えないほど下々の着でも、他人のいる前では一人前の家来として扱ってやったので、その者共は面目として、心にしみてありがたがった」
と書いてあります。こうでなければ、人に好かれもしますまいし、あれほどの栄達もしますまい。
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