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          海音寺潮五郎−覇者の条件

■人に好かれた平清盛

<本文から>
  気に入れば、とことんまで気に入るご性質であったことがわかりますね。清盛は利口でぬけ目がなく、人好きのする男ですから、後白河はお気に入られたに違いありません。
 つまり、摂関家をおさえようという謀略と、好きになればとことんまで好きになる後白河のご性質とが、清盛をあんなに栄達させたのだと思うのです。清盛の急速な栄達と、後白河の院政時代とは一致しているのですからね。こう思わないわけにいかないのです。
 清盛は太政大臣は三月でやめて、翌年は出家し、兵庫の福原の別荘に移りました。隠居しごとに、中国の貿易船を引きつけるために、輪田港(兵庫港)に防波のために新島を築いて良港にするためだったのです。そして築いたのです。
 貿易は、彼の家のお家芸ですが、この時代にこれほどの大計画を立て、実行にかかる人物が他にあろうとは思われません。藤原氏の摂関はもちろん、後の頼朝にもこれほどの気宇はありますまい。『平家物語』などの記述では、清盛は強情我慢で癇癪もちの性格に持出してありますが、実際の清盛は違うようです。最晩年にはいくらかその傾きがあるようですが、大体において最も紳士的でやさしい性質の人であったようです。『十訓抄』に、「福原の大相国禅門はいみじき性質の人であった。人が自分のきげんをとるためにしたことは、折りに合わないにがにがしいことであっても、また面白くないことであっても、きげんよく笑って見せた。人があやまちをし、つまらないことをしても、荒い声で叱りつけるようなことは少しもなかった。寒い季節には、小侍共を自分の夜具の裾に寝させた。こんな時、早く目ざめると、彼らを十分に覆させるためにそっと起きた。家来とも言えないほど下々の着でも、他人のいる前では一人前の家来として扱ってやったので、その者共は面目として、心にしみてありがたがった」
 と書いてあります。こうでなければ、人に好かれもしますまいし、あれほどの栄達もしますまい。
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■病的なほどに警戒心の強かった頼朝

<本文から>
  この事実から、ぼくは、頼朝が感情の表出に素直でなかったのは、深沈にして大度があったためではなく、平家に睨まれることを用心して、猫をかぶっていたのだと思うのです。彼は相当すぐれた素質を持っていたには違いありませんが、それでは平家の警戒心を呼ぶから、表情をあいまいにと心掛けたと見るべきでありましょう。
 頼朝はたしかに用心深い人物でした。それは父義朝の死に関係があります。ご承知の源義朝は平治の乱に敗れて東国に逃れる途中、尾張の知多半島の野間の内海という所で殺されました。ここの住人である長田忠致が源氏の家人であり、義朝がその時連れていた一の郎党の鎌田正家の舅でもありますので、大いに頼りにして立寄ったところ、長田がだまし打ちにしたのです。当将十三であった頼朝には、よほどにこれがこたえたようです。
 このことが、いかに彼に深刻な影響をあたえたかは、後年の事実が証明しています。平家のほろんだのは、この時から二十六年後ですが、この前から長田忠致父子は、頼朝にわびを言って帰参しました。頼朝はその帰参をゆるし、平家追討に大いに働け、功があれば重賞するぞと言いました。長田父子は前過をつぐなうつもりで働き、功も立てたのですが、平家が滅ぶと、頼朝は、捕えて、
 「ミノオワリをあたえる」
と言って義朝の墓前に連れて行き、土礫にかけて、なぶり殺しにしたのです。
 頼朝が平泉藤原氏をほろぼして、奥州を手に入れたのは、これからさらに四年経ってからです。
 が、藤原氏の当主泰衡が戦い放れて潜伏していたのを、その郎党河田次郎という者が殺して、首をもって頼朝に差し出したところ、頼朝は、
 「累代の主人を討取ること、不義非道、不届き千万である」
 と言って、殺してしまいます。
 いずれも、父を殺されたうらみが、いかに深刻であったかを語るものでありましょう。
 この深刻惨烈な感動が人間不信の信念を生み、それが肉親である義経を殺させ、範頼を殺させ、叔父である志田義広を殺させ、一族である常陸源氏佐竹義政を殺させ、甲斐源氏一条忠頼を殺させ、功臣平広常を殺させたのです。頼朝にとっては、源氏の血を分けた者は自分にかわる血統の資格があり、有力な功臣は自分にかわる力の資格があると思われて、安心出来なかったのでしょう。
 ともあれ、頼朝はこのように用心深い−病的と思われるほど用心深い性質だったので、感情の表出も大いに用心して、喜怒色にあらわさなかったのだと、ぼくは見るわけです。
 父祖の仇を討つ心もなく、病的なほどに警戒心の強かった頼朝が、挙兵に踏み切ったのは、追いつめられたからであると、ぼくは見ています。
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■北条泰時

<本文から>
 官軍は寡勢でありながらよく戦い、幕府軍は大分苦戦しました。この時代の武士は、南北朝頃の武士と違って、皇室にたいして宗教的な畏怖感情を持っていましたので、こうだったのです。しかし、ついに勝って、都に攻め入り、あの三上皇(後鳥羽・土御門・順徳)の遠地へのご遷座という、日本史はじまって以来の不祥なことになり、同時に朝廷の権威が大失墜したのです。これまでは、朝廷は武力こそなけれ、経済力は上位にあり、よろず権威をもって幕府に臨んでいたのですが、この時以後、経済力もうんと低下し、権威も失われ、ことごとに幕府のきげんをうかがわなければならなくなり、皇位の継承すら幕府の意向で左右されることになったのです。
 京都における戦後処置は、すべて泰時が関東の指令を受けてやったのですが、上皇方に味方した者を追捕するにも、寛裕を方針として、おも立った者以外には、公家にも武士にも及ぼさなかったということです。
 泰時は京都に足かけ四年駐在しましたが、その駐在中のある日、栂ノ尾に上って、高弁(明恵上人)に会って、政治家の心掛について質問しますと、高弁はこう言いました。
 「医者が病気をなおすのを見ますと、名医は病気のおこる根本をつきとめて薬をくれますな。だから、薬がよくきいて、早くなおるのです。政治もこれと同じですわい。根本をつきとめんでは、賞罰がみだりになり、悪いやつが勢いを得、世間の人気も悪うなります。へたな医者があれこれやるほど病気がこじれるようなものですわい。すべて、政治がうまく行かんのは、政をなす者に欲心があるからです。政治家が最もつつしまなければならんのは欲です。政治家に欲があれば、禍がなんぼでもおこる。あんたはお家柄じゃから、やがて天下の政を取る身となられるじゃろうが、率先して欲心を去って政治に励みなされ。きっといい政治が出来、天下はよくおさまりますぞ」
 泰時はかしこまって聞いていましたが、たずねました。
「わたくし一人がそうつとめましても、他の役人らがそうしてくれましょうか」
 すると、高弁は声をはげましました。
 「人が従わんのは、あんたがなり切っておらんからじゃ。真直ぐなものの影は必ず真直ぐじゃ。曲ってはうつらんぞ。あんたが無欲清潔になり切ったら、役人衆は必ず感化されて無欲清潔になる。役人衆がそうなれば、政治も正しくなる。政治が正しければ、天下の人心も正しくなる。根本はあんた一人にあることじゃ」
 高弁のこの教えは、泰時の心肝に徹しました。生来、彼は無欲の性質なのですが、一層無欲になりました。
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■足利尊氏は名将であったのか

<本文から>
 こうなると、武士らの胸に、幕府政治にたいする郷愁が湧きうごいて来る道理で、ほどなくおこったのが、北条高時の遺子時行の叛乱です。時行は父の死後、信州の諏訪に潜んでいましたが、この気運に乗じて兵を挙げ、鎌倉さして進軍を開始しました。
 馳せ参ずる者が多く、行くに従って大軍となり、諸所に官軍を撃破して、鎌倉にせまり、そこを守っていた尊氏の弟直義を追いはらって、鎌倉を占領したのです。
 京都は震撼しました。尊氏は、
 「相模はわたくしの守護である国であり、敗れたのはわたくしの弟であります。これを討伐するのはわたくしの任務であります。どうかわたくしを征夷将軍にお任じ下さい」
 と願い出ました。尊氏としては、この機会に素望の征夷大将軍となって、幕府をひらくつもりであったのでしょう。
 後醍醐はお許しになりません。尊氏の野心を見ぬいておられたのでしょう。成良親王を征夷将軍に任命されました。
 尊氏は怒って、届け捨てにして、無断で、東に向いました。すると、武士らの随従するもの無数、京を出る時は、わずかに五百騎だったのに、忽ちのうちに三万余騎となり、三河の矢作で待っていた直義の勢と合すると五万余騎になったというのです。
 尊氏が、いかに武士らに人気があったかわかります。尊氏にたいするこの人気が、武家政治にたいする人気であることは言うまでもありません。
 これが、後醍醐天皇と彼との対立のはじまりで、いろいろなことがあって、この翌年には南北朝にわかれて、日本は五十七年の長きにわたって、全国の武士らがいずれかに党して、抗争をつづける悲惨な時代に入るのです。
 上述のようなわけですから、尊氏が時代の真の趨勢を見抜いて、巧みにこれに乗じたことは間違いありません。しかし、名将であったという評価には、ぼくは異存があります。
 南北朝に分れて争っているため、武士らは少し気に食わないことがあると、すぐ南朝に弄りました。尊氏はこれをつなぎとめるために、おしみなく領地をあたえましたので、ついには将軍家よりも広大な領地を持つ大名が多数出来、足利幕府は各時代の幕府の中で最も微力で、後世の歴史家に「尾大揮わず」と批評される存在になるのです。
 人は三代将軍義満が明に臣称して朝貢貿易したことを国辱として指弾しますが、足利宏の所領はごく少いのですから、貿易でもしなければ持たなかったのです。もとはといえば、尊氏が計算を知らない大名統御法をとったからであります。はたして大政治家でしょうか。
 足利六代の将軍義教は、播磨の守護大名赤松満祐のために、赤松の京屋敷に招待され、その席で殺されたのですが、その時将軍に随従していた大名や武士らは一人として将軍のために防戦する者なく、逃げ散ったのです。北条氏の最期の時と思いくらべて下さい。
 慈仁をもって武士らに臨んだのと、利をもって籠給したのとの違いではありますまいか。すべてこれ、尊氏の蒔いた種です。はたして名将でしょうか。
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■早雲は誠実とマキァベリズムとを調和よくないまぜた

<本文から>
 早雲は、この三年後に小田原を取りました。最も悪辣な方法で小田原城主大森氏をあざむいて、不意に攻めかかって奪ったのです。
 以後はずいぶん長い間、鳴りをひそめて、今川氏のためや扇谷上杉氏のためには出兵して、諸所に戦いましたが、自らの領地をひろげるためには戦いません。
 ところが、二十年後の八十一の時、三浦半島の三浦氏と戦いをはじめ、足かけ八年かかってこれをほろぼしました。老年の精力をこれで使いつくしたのでしょう、翌年、八十八で、韮山城中に死んでいます。しかし、この時、北条氏ほ伊豆・相模両国を完全に掌握しており、子の氏綱は三十三の壮年になっており、その武勇才幹は父の子たるに恥じないものでしたから、きっと大安心して死んだことでしょう。
 早雲の方法は、一言にしていえば、誠実とマキァベリズムとを調和よくないまぜたものです。不思議な混合のようですが、古来の成功者は、大なり小なり、皆これではないでしょうか。
 早雲の言ったことで、ぼくの最も感心していることばを書いて、この稿を閉じます。
 「武士らに扶持をあたえるにべ特別な心得がいる。二十前の若者や七十以上の老人には、功があっても知行地をあたえず、金銀をあたえるがよい。老人はいのちの短いものである故、すぐその子の代となる。その子の器量が尋常ならよいが、つたなければとり上げねばならぬ。しかし、とり上げれば必ずうらみを含む。
 二十以前の若者は、成人してどんな者になるか見当がつかない。若い時はすぐれていても、成人してうつけものになる者もあり、度々あやまちをしでかす者であることが、めずらしくない。これまた知行地をとり上げなければならないが、これも必ずうらみを含むようになる。当人だけではなく、縁につらなる親頬一族共までうらむものだ。といって、器量のつたないものに高知をあたえておけば、家中一般の気風がゆるんで来る。とかく、あとくされのないように、金銀をあたえておくべきものである」
 最も行きとどいた思慮です。先の先まで見通し、しかも人心の機微をうがっています。老人の知恵ですね。
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■信長はキリスト教に好意を示していたが信じていなかった

<本文から>
 仏教にたいして、このような厳峻苛刻であった信長が、キリスト教にたいしては好意を示していますが、その好意にはもちろん限度があります。利用はしましたが、信じてはいないのです。当時のバテレンらは、信長のこの態度を、
「彼は一切の宗教を信じない。自ら神となろうとしている」
 といっていますが、どこまでも神という観念を離れないところが間違っています。信長は一切不合理なものを信じないのです。ですから、神だの、仏だのという超越的なものは信じないのです。この点では、彼は虚無に徹していたといえましょう。
 彼が仏教を信じなかったのは、仏教の教説が矛盾と撞着に満ちているのと、当時の仏僧の虚偽に満ちた我欲旺盛の生活とが、がまん出来なかったためです。キリスト教に好意を持ったのは、当時のキリスト教は、かつてのキリスト教がコペルニクスを処罰したように科学の真理を全面的に否定するものではなくなり、取り入れてさしつかえのないものは認めるものとなっていて、天文・地理・生理・暦学等の科学知識はとり入れていて、渡来したバテレンらは一面では科学者でありました。
 仏教にも一種の古代科学があります。たとえば地理学説としては、須弥山を宇宙の中心として、それに日・月・四大世界、六欲天・梵天などが付随しており、四大世界は須弥山の四方についている四つの大川で、われわれの人間世界はその四つのうちの南のもので、南略部州(閻浮提ともいう)といって、ほぼ心臓形をなしている、日本はその大州の東辺に粟粒のごとく無数に散らばる島、粟散辺土の一つである、などと説いたのです。
 こんな地理説が当時のバテレンらの持って来た地理説に対抗出来るはずがありません。天文学や暦学や生理学の知識においても同断です。最も合理的なことを好む信長が、バテレンらの説くところを最もよろこんで受入れ、仏僧らの解説をきらったことは当然です。
 ごまかしやあいまいをきらうので、不正直を潔癖なまでにきらい、言行不一致を蛇蝿のように憎みました。仏教には厳重な戒律があり、仏僧らはその戒律を厳守しているような顔をしているくせに、実際は破戒無想な者が、当時は多かったのです。比叡山が焼打ちされたとき、本来は女人禁制であるはずの山上の僧房に、多数の美女が少年の姿をしてかくまわれていたというのですからね。信長が憎悪したはずです。これに反して、当時渡来のバテレンらは最も熱烈な求道心を持ち、品行清潔、勇気にあふれた人々でありました。信長が好意を持ったはずです。
 だからといって、彼は決してその教えを信じはしません。彼の合理精神はそれを受けつけないのです。結局は政治面や軍事面において利用するというにとどまったのです。政治面の利用には仏教をおさえるためのキリスト教を保護し、軍事面では荒木村重が謀叛した時、その部下の高山右近と中川清秀とがキリシタンであるので、バテレンに命じて説いて降伏させ、荒木の羽翼を絶っています。
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■戦国時代末期−必要な時には必要な英雄が出て来るもの

<本文から>
 戦国時代末期における覇者交代の次第を見ていますと、つくづくと必要な時には必要な英雄が出て来るものという気がします。社会が中世の桂桔の破壊と除去とを必要とする時期には、破壊の大魔王的人物である信長が出現して、びしびしと大掃除をし、社会が統一と整備を必要とする時期には、最も陽気で能率的な秀音が出て来て、木造唄でもうたうような調子で、日本全国をばたばたと静めてしまいました。最後に恒久的平和と休息を必要とする時期には、最も綿密で、最も堅実な家康が出て来て、撤密な設計と計算とをもって、しくしくと平和を打ち立てました。
 これは一見不思議なように見えますが、不思議でも何でもありません。時代が必要とする人物が最もさかえる、つまり、適者生存の現象の一つにすぎないのですから。
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■家康が成功者となった有力な原因

<本文から>
 家康が成功者となった有力な原因の一つは、その家臣群である三河武士の優秀さです。ご承知の通り、徳川家は三河の小大名でした。家康から八代前の親氏は乞食坊主で、三河に流浪して来て、かれこれして小家族に成上った人物です。家康の祖父の清康はなかなかの人物で、西三河の大部分を勢力範囲とするほどにのし上げました。まあ、大名となったといってよいでしょう。しかし、その子の広忠は不運でもありましたが、凡庸でもあって、身代は細り、織田・今川の両強国にはさまれて、今川氏の属国となって、やっと存立を保つ程度でありました。
 家康は六つの時、今川氏に人質に行くことになって、岡崎を出て東に向いましたところ、継母の父の三河田原の城主戸田康光が悪心をおこし、護衛の武士らをあざむいて、家康を海路尾張に送り、永楽銭千貫文で、織田信秀(信長の父)に売渡してしまいました。
 家康は思いもかけず、織田の捕虜となったのですが、その二年目に、広忠が病死しました。家康は当時八歳、孤児になったのです。
 その頃、織田家でも信秀が病死して、信長が立ったのですが、今川氏と戦争がおこり、信長の異母兄信広が今川氏の先鋒である徳川隊に捕えられました。徳川家の武士らが、「若君を返してほしい」と主張して、捕虜交換で家康は岡崎にかえってきました。
 ところが、今川氏は家康を十二日しか岡崎におかず、駿河に連れて行ってしまいました。以後、家康は十七歳まで、駿府にとめおかれるのです。
 その間、岡崎城には今川氏から城代が来、所領には代官が来て管理し、徳川家の武士らには知行も扶持もろくにくれません。武士らは生活のために他国に出てつかえる者もあり」残った者は百姓しごとをしながら露命をつなぎました。そのくせ、今川家が戦争する時は、先鋒隊や困難な場に向わされたのです。
 このような難難が、三河武士らを鍛練しました。勇敢で、強靭で、困苦欠乏にたえ、しかも忠誠無二になったのです。君臣共に苦しみ、しかも家康が駿府に連れ去られ、逢うことも容易に出来ないということが、せかれて募る恋ごころのように、家康にたいする忠誠心を高めたのでありましょう。戦国武士は勇敢ではあっても、道義の念は稀薄なのが普通でしたが、三河武士は違います。胸の熱くなるような話が多数伝わっています。
 その頃、最も良質な兵は甲信兵と越後兵ですが、三河兵も決してこれにおとりません。あるいは優っていたとまで思われます。家康がこの忠誠撃一で、しかも最も良質な兵を持っていたことは、その成功の最も大きな原因です。
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■鷹山の仁慈の心

<本文から>
 彼がいかに仁慈の心に富んでいたかについては、こんな話があります。
 ある年の台風の季節、田には稲が稽々とみのっていました。
 「これ.で台風が来ねば、今年は豊作だの」
 と、鷹山が言いましたところ、侍臣の一人が、何々寺のなにがしという僧は、風の方向をかえる法力を持っているそうです。召して、台風がご領内に襲わぬように祈らせたらどうでしょうといったところ、鷹山は、
 「それではわしの領内は助かっても、他領の民は助からない。他領の民も人間だ。どこも襲ってくれないようにと、神仏に祈るほかはない」
 といったのです。
 こういう鷹山でしたので、天明の飢饉には、奥羽一帯は惨たる被害で、餓死者が累々として道路に横たわり、死人の肉を食う者もあったほどでしたが、米沢領内は一人の餓死者もありませんでした。鷹山が早くから天候の不順であるのを見て、用心し、食を節して食いのばすことにしたばかりでなく、かねてから凶作の際の用心に、たくわえておいた穀物を出して施したためであったといいます。
 鷹山の政治は、純粋に儒学の方法により、奇手を用いませんから、時間はずいぶんかかっています。完全に財政の立直しが出来たのは、文政六年でした。すなわち、鷹山がなくなった翌年です。五十五年かかっています。しかし影響は最も強いものがあります。米沢人の誠実で強敵な性格は、鷹山の流風余韻としか、ぼくには思われません。
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