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<本文から> 茂兵衛を中心として組織された結社は、彼等自身では別段名前をつけてはいなかったが、世間では「豪傑組」といっていた。綱領とてもなかった。剛強なことが好きで、柔弱なことがきらいで、つまり当時としては反俗的な性質の者の同気相求める交友関係から自然に出来上ったものにすぎなかった。
これを豪傑組といったのは、この時代肥後にやはりこういう結社があって豪傑組と呼ばれ、柳川の連中との間に親しい交際があったからかも知れない。
こんな話が伝わっている。茂兵衛が熊本に遊びに行って、その地の豪傑組の連中と酒をのみながら歓談していると、一人が卒然として問うた。
「足遣先生は四足二足はお噂みでござすか」
茂兵衛は言下に答えた。
「涼み台、マナイタ、下駄、木履の類はいただきまっせん」
肥後の豪傑遵もこの奇抜な答えには度ぎもを抜かれた。
「いや、四足二足と申したのほ、獣類や鳥類のことを申しましたので」
そんなことは、茂兵衛はもとより知っている。・あんな返事をしたのは、相手の意表に出るためであった。
「ハハ、さようでござすか。鳥類や獣類なら普通の食べものですたい。生きたままでも食べますわい」
この話は、獣肉や鳥の肉を食うことを極端に忌んだ時代の風習を考えないと、面白さがわからない。こうした人のいやがるものを食べることは、恐怖を知らぬこと、つまり剛勇な士にしてはじめて出来ることという考え方が、当時の人にはあったのだ。
茂兵衛の当意即妙もだが、その頃の諸藩割拠の勢いが、親しい交際の間柄でも、常に相手の上に出ようと心をとぎすまさせていたことがわかって面白いのである。
柳川の豪傑組の主なる同志は、加藤善右衛門と、由布源五兵衛とを同年の年長者として、足達茂兵衛、大石進、渡辺小十郎等の人々であった。
由布源五兵衛は水泳と砲術の名手であった。とりわけ砲術は師範たる允可を師家からもらっていた。ある時百目砲千発連続を試み、見事やりおえたので、藩主から褒状と鉄砲一丁を下賜されたことがある。 |
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