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          海音寺潮五郎−豪傑組

■豪傑組は反俗的な性質の者の同気相求める交友関係から自然に出来上った

<本文から>
 茂兵衛を中心として組織された結社は、彼等自身では別段名前をつけてはいなかったが、世間では「豪傑組」といっていた。綱領とてもなかった。剛強なことが好きで、柔弱なことがきらいで、つまり当時としては反俗的な性質の者の同気相求める交友関係から自然に出来上ったものにすぎなかった。
 これを豪傑組といったのは、この時代肥後にやはりこういう結社があって豪傑組と呼ばれ、柳川の連中との間に親しい交際があったからかも知れない。
 こんな話が伝わっている。茂兵衛が熊本に遊びに行って、その地の豪傑組の連中と酒をのみながら歓談していると、一人が卒然として問うた。
 「足遣先生は四足二足はお噂みでござすか」
 茂兵衛は言下に答えた。
 「涼み台、マナイタ、下駄、木履の類はいただきまっせん」
 肥後の豪傑遵もこの奇抜な答えには度ぎもを抜かれた。
 「いや、四足二足と申したのほ、獣類や鳥類のことを申しましたので」
 そんなことは、茂兵衛はもとより知っている。・あんな返事をしたのは、相手の意表に出るためであった。
 「ハハ、さようでござすか。鳥類や獣類なら普通の食べものですたい。生きたままでも食べますわい」
 この話は、獣肉や鳥の肉を食うことを極端に忌んだ時代の風習を考えないと、面白さがわからない。こうした人のいやがるものを食べることは、恐怖を知らぬこと、つまり剛勇な士にしてはじめて出来ることという考え方が、当時の人にはあったのだ。
 茂兵衛の当意即妙もだが、その頃の諸藩割拠の勢いが、親しい交際の間柄でも、常に相手の上に出ようと心をとぎすまさせていたことがわかって面白いのである。
 柳川の豪傑組の主なる同志は、加藤善右衛門と、由布源五兵衛とを同年の年長者として、足達茂兵衛、大石進、渡辺小十郎等の人々であった。
 由布源五兵衛は水泳と砲術の名手であった。とりわけ砲術は師範たる允可を師家からもらっていた。ある時百目砲千発連続を試み、見事やりおえたので、藩主から褒状と鉄砲一丁を下賜されたことがある。 
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■細川忠興の一色崩れ

<本文から>
 忠興は討つべき隙を見ていたが、刀のおき場が悪い。先刻小姓がおいて行ったのだが、柄の向きが少し離れすぎている。一撃でたおさなければならないだけに、万全を期したい。じりじりしながら飲みつづけた。
 細川家の老臣米田宗堅は、通い口からこれを見て、肴を捧げて入って行き、忠興の左側から主客の間に出ようとして、わざとその刀を足の爪先にかけた。
 「あ、これは」
 小声でいって、刀をとっておしいただき、工合のよい位置においた後、肴を満信の前に進めて遇った。
 「肴が新しゅうなり申した。こんどはこれでまいりましょう」
 忠興は朱塗りの大盃をとって飲み、滴信にさした。
 「これはきついこと。引きかねます」
 「ご謙遜を。お腕前はもう見ていますぞ」
 と、笑って言うと、滞信も笑った。
 「本日は特別のことでござれば、気力を出していただきましょう」
 いただいて、口をつけた時であった。忠興の右の膝がサッと立ったのと、左の手に刀をさらったのと、ぬき打ちに真向から斬りつけたのと、ほとんど同時であった。
 「あっ!」
 滞信は盃をそのまま忠興に投げかけて身をひねったが、およばなかった。左の肩から右のあばらにかけて袈裟がけに斬られた。
 「狼藷!」
 満信のうしろにひかえていた小姓二人はさけんで立上り、主人の前に立ちふさがったが、忠興は見向きもしない。十分に斬ったという自信がある。滞倍の左側にひかえた日置主殿介を目がけて攻撃した。年はとっていても、出来ていない人間であったのだろう、日置は周章しきっていた。抜き合わせもせず、長袴の裾をふんではころび、ふんではころびしながら、庭にまろびおちて逃げ、厠に逃げこんだ。
 満信と二人の小姓には、かねて申しつけてあった討手が立向った。滞信は深手を負うている上に、進退不自由な長袴をはいているが、屈せず芦屋に持たせた刀をぬきはなっていた。見る間に滞身血だるまになっていた。小姓二人もよく働いた。ずたずたに斬られていながら、血に染んだ主人を左右からかかえて、細川方の攻撃をはらいのけはらいのけ、玄関口まで退いて来た。
 玄関を出ると、滞信はふりかえりざま、
「おのれ、細川、大名にあるまじき卑怯!このうらみ、忘れぬぞ!」
 と、絶叫したが、そこで気力がつきてどうとたおれた。細川忠興軍功記は、一色殿は供の侍両人が引き立て、屋敷の外まで退き申され候が、どうとたふれ申され候時、二つになって果て申され候こと」と記述している。
 小姓二人は、今はこれまでと、必死になって戦ったが、多勢に無勢だ。
 「殿の一大事ぞ!一色殿こそ、細川が姦計にかかって討たれ給うぞ!皆出合え!」
 と、城外の味方の者の耳にとどけよと絶叫しつづけながら、討たれてしまった。
 城内とは言っても、つい濠一重の外は城外という屋敷だ。さわぎは大手門外の仮屋にいる満信の供侍らに聞きつけられた。饗応にあっている最中のことで.はあったが、一同ほっとして立てた耳に、芦屋と金川の絶叫がとどいた。
 「すわや!」
 総立ちになって、われ先きにとぬきつれて斬って出たが、細川方ではかねてその手くばりがしてある。討手の者が仮屋を取りまいていた。一色方は死にもの狂いだ。囲みを突破するや、まっしぐらに大手の門を駆け入ろうとした。「細川衆切って出、大手の橋をとどろかし、追ッつかへしつ戦ひける」と、丹州三家物語にある。
 一色方の供侍は三十六人あったが、うち十三人が討死し、切りぬけた者は皆弓木へ引きとった。
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■忠直の乱行ぶり

<本文から>
 越前宰相忠直の隠居配流の次第については各説ある。
 今日最も有名なのは、故菊池某氏の「忠直卿行状記」に説くところだ。孤独地獄・疑惑地獄におちいっての寂屡と憤りが昂じて、狂気的暴虐のふるまいを事とするようになったため、幕府の怒りに触れて隠居を命ぜられたという打だ。
 しかし、これは菊池氏一流の人間哲学を忠直に仮託して表現したもので、菊池氏の都合では、「夏案行状記」になったかも知れず、「股財布状記」になったかも知れず、「殺生関白行状記」になったかも知れない。つまり、実在の忠直には本来はなんの関係もない。
 次に世に知られているのは、「藩翰譜」に伝えるところであろう。
「藩翰譜」は説く。忠直の第一の不平は、彼が二代将軍秀忠の兄である秀康の長子として生れたにかかわらず、単なる大名でしかなかったところにあった。
 第二の不平は、大坂の陣で、その手に大坂方の勇将真田幸村・御宿越前を討取ったばかりか、城の一番乗りをして、東軍第一といわれるほどの勲功を立てたにもかかわらず、意外に賞が薄く、従三位参議に任ぜられたにすぎなかったことにあった。
 「血統上から言えば、おれは将軍となって天下を治めてもよい身分である。なんの功がなくとも、これくらいの官位には昇れたはずである。それを勧賞づらして、こればかりのことを!」
 と怒って、行状日々に荒々しくなった。それでも、大御所家康の在世中はいくらかは遠慮していたが、その家康がなくなると、まるで不検束になって、明けても暮れても酒と色とにふけった。
 その日常のふるまいの荒々しいことは、少しでも気にさわることがあると、男であろうと女であろうと、その場で斬りすてた。
 参勤交代は大名たるものの重いつとめになっているが、忠直はその時期が来ても行こうとしない。老臣らがさまざまになだめすかして、やっと出発させても、気ままのかぎりをつくした道中ぶりで、途中で鷹狩をしたり、漁りをしたり、気に入った土地では幾日も逗留した。それでも江戸まで行ってくれればよいが、時による、と、
 「病気じゃ!」
 と言って帰国してしまった。
 また、天下泰平の世となって、どこの大名の領国も平穏無事であったのに、息直の領国内ではややもすれば重臣らの間に合戦さわぎがおこり、おちつく時がなかった。
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■忠直の隠居配流

<本文から>
 「この酒乱悪行はなにごとでありますか。これらのことがお公儀へ聞えて、隣国に仰せつけ、攻め潰すべき御評定であるとのことを聞きましたので、わたくしはしばらく待っていただくようにおわびを申して、こうして馳せつけてまいりました。どうか、この上は穏便に配所へおうつり下さいまし、さすれば、そのうちにはお上のお怒りもなぎましよう故、おわびを申しておゆるしいただくおりもありましょう。先殿以来のお家の武辺に庇をおつけにならぬよう、ひとえに御思案なされよ。もし御承引下さらぬなら、そのお刀でわたしをお斬りなされよ」
 膝を進めて、忠直の膝に手をかけゆりうごかし、涙ながらにかきくどいた。
 忠直は狂気と酔に血走った目をすえて、母を見つめていたが、やがてその目からはらはらと涙を流し、膝の刀をつかんで二、三間向うに投げて言った。
 「悪うござった。どこへでもまいりますぞ」
 「ああ、御本心におかえりか」
 と、清涼院が言うと、かねて用意されていた駕籠が縁先にかきよせられた。
 「それへ」
 清涼院が言うと、忠直はおとなしく乗った。
 駕籠はそのまま昇き出され、配流の地豊後へ向ったという。
 一国も、小山田多門も豊後へ供して行ったが、その最期はわからない。
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