その他の作家
ここに付箋ここに付箋・・・
          司法卿江藤新平

■江藤新平の決起

<本文から>
  二月十一日、島義勇は、長崎で憂国党の幹部に会ったあと、江藤新平が郊外の深堀にいることを知り、会談を申し入れた。
「新任の県権令は、熊本の鎮台兵とともに、佐賀へ入城するつもりのようだ。そのような事態になったとき、江藤君はどうするつもりか」
「そもそも権令は、行政をあずかる地方長官である。鏡台兵を動かすのは、陸軍の指揮によらねばならない。にもかかわらず、行政官が鎮台兵をひきいて赴任すれば、まさに無法きわまりなく、天下の笑いになるだけでは済まず、外国からも侮蔑を受けるだろう」
 このとき江藤が憤ったのは、岩村高俊の船中の言動を、くわしく島から開かされたせいでもある。
「たとえ岩村高俊が、林有造の実弟であっても、それとこれは話がちがう。一泡吹かしてやれば、政府にとっても良いクスリになるはずだ。島さん、そう思いませんか?」
「まったく、そのとおりである。大久保利通の腰巾着が、鎮台兵ごときを手勢にして、葉隠武士を押さえられると思っているのか。かくなるうえは、われらが手を組んで、目に物みせてやろろう」
 二月十二日、江藤新平は、佐賀へ引き返して、正式に征韓党の党首になった。
 二月十三日、旧藩校の弘道館へ、征韓党の幹部があつまって、議論をたたかわせたあと、江藤が決断した。
 「一つの布告もなしに、鎮台兵が佐賀に入城することを、断じて許してはならない。それを許すようなことがあれば、われらが自殺するに等しい。手をこまねいて死を待つより、むしろ先んじて制するべきだ」
 こうして征韓党は、江藤の口述による「決戦の議」を、木版刷にして配布すると、佐賀城の北方にある実相院へ本部をうつした。
 二月十四日、熊本演台から、一個大隊(六百五十人)が出動し、佐賀県権令の岩村高俊とともに、船で有明海を北上した。
 二月十五日、筑後川の河口から鎮台兵が、佐賀城(県庁)へ入った。
 二月十六日、佐賀城の鎮台兵と、征韓党(二千人)と憂国党(四千人)が連合した佐賀軍が、交戦を始めた。
 二月十八日、モーゼル銃の鎮台兵と、槍と刀で武装した佐賀軍は、装備において大きなひらきがあるが、さらに人数がふえた佐賀軍が優勢となり、岩村権令らは城外へ逃れた。
 二月十九日、大久保利通が乗ったアメリカ船が、東京・大阪の鎮台兵をはこぶ船団と、あいついで博多湾に入る。
 この日、太政官が各府県に布告した。
《佐賀県下の賊徒は、本月十六日夜に県庁を襲撃し、出張の鎮台兵と戦闘におよんだため、一征討の仰せつけがあった》
 二月二十二日、福岡県境に近い朝日山へ、佐賀軍が大砲をはこんで迎撃の布陣をして、政府軍と本格的な戦闘になる。
 二月二十三日、佐賀征討令により、総督に東伏見宮嘉彰親王、参軍に山県有朋(陸軍中将)と伊東祐麿(海軍少将)が任命されて、近衛兵の三大隊は「朕の親軍」として出動する。
 同日、江藤新平が、「武装を解いて潜伏し、再挙をはかる」と、征韓党の解散を命じると、西郷隆盛に会うために、船で鹿児島へ向かう。
 二月二十八日、憂国党が降伏して、征討軍が佐賀へ入城する。佐賀軍の捕虜は、六千三百二十七人におよぶ。
 三月一月、大久保利通が佐賀に入る。
 同日、島義勇が、島津久光に嘆顧書をわたすために、船で鹿児島へ向かう。
 三月四日、「佐賀掛争の平定」を太政官が布告。
 同日、佐賀征討軍から、江藤新平の人相書が、ひろく配布された。

■江藤新平の梟首

<本文から>
  四月八日、裁判長を河野敏鎌(棒大判事)、連班検事を岸良兼養(大検事)として、審理をはじめた。征韓党の取り調べは、二月末からおこなわれて君ノ、その口供書(供述詞書)によって、事実関係をつかんでいる。
 四月九日、征韓党首領の江藤新平は、はじめて審問を受けた。
 「その方は、名をなんと申すか?」
 このとき江藤は、カッと目を見開いて、司法官たちをにらみつけた。
 元土佐藩士の河野敏鎌は、一入七二(明治五)年五月から、司法卿の江藤新平の推挙によって、ヨーロッパへ派遣された。そのあと司法大丞(四等官)に昇進して、明治七年一月十五日付で、司法権大判事になった。また、大検事(四等官)の岸良兼養も、河野と一緒にヨーロッパへ派遣されている。
 かつての部下たちが、いまや裁判長、連班(公判立ち会い)検事となり、公開を禁止した法廷において、数十人の官吏にさまぎまな拷問の責め道具をもたせ、きびしい取り調べをつづけている。
 江藤新平は、大音声を発した。
「なんじ敏鎌よ。なんの面目ありて、余にまみえるか」
河野裁判長は絶句して頭を垂れ、さすがに拷問を命じることはなく、江藤への審問は、形式的なものでしかなかった。
 四月十三日、早朝から開廷して、まず江藤新平に宣告した。
「除族のうえ、梟首を申しつける」
 すると江藤は、顔色を変えて叫んだ。
「私は!」
 しかし、待ちかまえていた数人の獄吏が、すかさず江藤に飛びかかり、たちまち法廷から担ぎ出した。
 こうし七江藤新平は、その日の夕方に、城内にもうけた処刑場へ連行されて、斬首に処せられたのである。
 そのとき「南白」の雅号で、辞世を書き残した。
  ますらおの涙を袖にしぼりつつ
   迷う心はただ君がため   南白
 江藤新平の首は、西方三キロメートルの裏瀬川べりに運ばれ、島義勇の首とともに、三日間にわたってさらされた。
 これらを見届けて、大久保利通は、四月十三日の日記に書いた。
 《今朝は五時に出張し、裁判所へ出席する。十三人の斬刑につき、罰文の申し渡しを聞く。江藤の醜態は笑止なり。今日は都合よく済み、大安心》


メニューへ


トップページへ