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          海音寺潮五郎-江戸開城

■恭順か主戦か慶喜の心は揺れていた

<本文から>
  後年、生きのこりの幕臣らの上野史談会での追憶談によると、当夜から翌日にかけて、城内で大会議がひらかれ、席上、陸軍奉行兼勘定奉行の小栗上野介が主戦論を展開したという。その要旨はこうであった。
「官軍が東下して来たら、箱根も碓氷峠も防がず、全部関東に入れた後、両関門を閉じて、袋の鼠にしてしまう。一方軍艦を長駆させて、馬関・鹿児島を衝かせる。こうなれば、日和見をしている天下の諸藩は皆幕府に属する。形勢は逆転し、幕威また振うに至る」
 この戦術は、幕府が砲・歩・騎の三兵伝習のためにフランスから招聘雇用しているフランス士官らの立てたものである。図上作戦としてはなかなか優秀なものだが、当時の幕府海軍の操船術で、これだけの大作戦が出来るかどうか。現に大坂城から江戸湾に来るまでの間に風浪によって八丈島附近まで漂わされており、これからしばらく後幕府海軍が江戸湾を脱出して松島湾に行くまでの間に一艦を失ったばかりか、のこらずの艦が全部損傷している。宮古湾襲撃にも操船術の拙劣のために僚船とばらばらになり、また失敗敗戦している。徳川海軍は軍艦の数だけは諸藩に冠絶していたが、操船術の点は大作戦の出来るほどの熟練度を持っていなかったと断定してよい。しかし、こんなことは素人にはわからない。天性の雄弁家である小栗が自信に満ち、熱情をこめて説き立てるのを聞いて、人々の感奮は一方でなく、気勢大いにあがったという。
 ここで説が二つにわかれる。慶喜が恭順説を持って、小栗を罷免したというのが一説、一旦は小栗らの説に従って主戦に決したが、やがて恭順説になり、小栗を罷免したという説。
 前説は徳川慶喜公伝に言うところであるが、真相は後説のようであり、しかもその後もたえず慶喜の心は揺れていたようである。 
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■恭順・謹慎は朝廷のきびしい態度を知って調子を合せた

<本文から>
 蛤御門の戦でも、毛利侯は国許を出ていないのだが、慶喜を含む幕府方はこれを朝敵として責めつけ、再征までしているくせに、自分の場合はそれとは違うというのでは、理屈に合わない。この時代の人々のレトリックではこんなのを、「類を知らずというべし」ときめつけるのである。そこに気づかないとすれば、慶喜もいいかげんな人間といわねばならない。
 やがて、慶喜は隠退するといい出し、これを朝廷にたいする恐催謹慎のためであるというようになる。しかし、恭順の意識などさらにないのだから、この隠退は恭順のためではなく、先祖から受けついできた政権を返上したり、敗戦したりして、徳川家の名誉をおとし、損失をかけたことにたいするわびのためというのが本当だったろう。これを恭順・謹慎のためなどと言い出したのは、朝廷のきびしい態度を知って調子を合せようとしたことに違いない。
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■勝の真の意図

<本文から>
 勝が慶喜にたいしては絶対謹慎、朝命にたいする絶対服従の態度をとらせながらも、彼の真に意図していたことは何であったか。
 第一は、もちろん、慶喜の生命の安全である。
 第二は、慶喜は隠居はするが、もちろん名誉を保ってだ。
 第三は、徳川家の大大名としての実質をとりとめることだ。具体的にいえば、多数の幕臣を養うに足りるほどの石高を持ち、大名としての体面を保つべき軍艦、兵器もとりとめることである。
 大体、以上であったようである。なぜぼくがこんな判断を下すかといえば、英国大使館の書記官アーネスト・サトウは勝と懇意で、情報を得るためによく勝を訪問したと、その著書「維新日本外交秘録」の中に書いているが、同書に、その頃勝がサトウに、
 「主君の一命が助かり、沢山の家臣を扶持して行けるだけの収入が得られるなら、自分はどのような協定にも応ずる用意がある」
 と語り、また、
 「自分は西郷にむかって、条件がそれ以上に苛酷ならば、武力をもって抵抗することをほのめかした。慶喜としても、汽船と軍需品とは手離したくなく、このことについては、すでに自分はミカドに嘆願書を提出している」
 と語ったと書いてあるからである。
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■処置を寛大にしたのは西郷が山岡の人がらにほれたから

<本文から>
 「それでは、お考え下さい。仮に立場をかえて、島津侯が今日の慶喜の立場になられたとして、先生はこのような命令を甘受なさいますでしょうか。君臣の義とは、一体なんでありましょうか。お考え下さい。切にお考え下さい。拙者には承服出来ないのです」
 西郷は心を打たれて、しばらく黙っていた後、
 「先生の言われる通りでごわす。わかりました。慶喜殿のことは、吉之助がきっと引受けて、はからいます。安心して下さい。かたく約束します」
 と、誓った。
 山岡は泣いて感謝した。
 その後、西郷は言う。
 「先生は官軍の陣営を破って、ここにお出でになったのでごわすから、本来なら縛らんければならんのでごわすが、やめときますわい」
 これは西郷の冗談なのだが、山岡にはこれを冗談と知る余裕がなかったらしく、きまじめに、
 「縛られるのは覚悟しています。早く縛っていただきます」
 と言った。
 西郷は笑った。
 「そうでごわすか。しかし、先ず酒を飲みましょう」
 酒をとりよせ、数杯を酌みかわして、大給督府から出す通行手形をくれた。
 元来酒を好まない西郷が、とくに酒をとりよせて山岡を相手に一酌したというのは、よほどによい気持になったのであろう。西郷には求道者的面がある。見事な人がらの人物を見れば、敵味方を忘れて心から感心するのである。彼はこの時、山岡に心から感心した。慶喜と徳川家の処置は、公けには厳格きわまることを標榜しながらも、実際の処置法は西郷・大久保・岩倉の三人で大体きめてあった。しかし、西郷はそれをさらに寛大なものにして山岡に提示し、山岡から抗議されると、よろしい、その通りに自分が引受けてはからおうと言って引受けている。山岡の人がらにほれたからである。
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■幕府に対して薩摩は常に一脈の温情を底にたたえて

<本文から>
 つまり、勝が差出した嘆願書の条目はほとんど全部が聴許されたのである。わずかに、三・四項目の軍艦・武器に関することがちがう。勝の要求では徳川家の方でのこらず取納めておいて、寛典の御処置を仰せつけられた後、相当の員数をのこしておいて、その余をお引渡ししたいというのであるが、朝廷鰍では一旦のこらず引渡せ、しかる後に相当員数を返してやるというのである。
 征討軍出陣の際の意気込みにくらべると、驚くほど寛大なこの朝廷の処置について、いろいろなことが取沙汰された。
 その一つにこういうのがある。木戸準一虚(孝允)は国許にいて藩政の局にいたが、朝廷に徹されて、正月二十一日に出京して、太政官代総裁局顧問になっていた。彼は薩摩藩が慶喜にたいして厳刻な処分に及ぶつもりでいると聞いて、大いに寛典を主張しょうと心組んでいたところ、西郷が関東から来て、慶喜は大逆無道ではあるが、死一等を宥むべきかの語気あるに乗じ、大議論を発して、そのおかげで至極寛大なご処置となった、徳川公の死を免かれた幸福は木戸のお蔭であるという説。これは越前藩の中根雪江が「戊辰日記」に、主人春嶽が山内容堂から聞いたこととして記録していることである。
 木戸が寛典説に賛成したことは事実であろうとは思うが、それによってことが決定したとすべきではない。それはこの問題についてずっと追跡をつづけて来た我々には十分にわかっていることで、改めて説明するまでもないが、問題はどうしてこういう噂が発生し、相当な人々にまで信ぜられたかである。
 それはきっと、西郷が征途に上る前から慶喜の大逆無道を鳴らし、極刑をもって臨まなければ大義名分が立たないと言いつづけ、山岡と会った後にも言いつづけ、そして勝との会見にまで至った、そのことが英雄人をあざむく演出であることに気づかず、真正直に信じつづけたためであろう。
 維新史を、真に精細に、人情の機微にまで立ち入って調べたことのある者なら、形勢逆転して、薩・長側が勝者にまわってから、幕府方にたいして復讐憎悪の感情をもって臨んだのは長州であり、薩摩は常に一脈の温情を底にたたえていたことに気づくはずである。近藤勇すら、薩摩人はこれを助けようと主張したのである。榎本武揚ら五稜郭の降将らが助命されたのは、薩摩人黒田清隆の熱心で根気よい努力による。
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■彰義隊総攻撃の西郷と大村のやりとり

<本文から>
すべてを大村に譲ったと書いている。何によって書いたかわからないが、序列から言えば西郷が最上位であるのを、大村を総指揮者にして、その下位について働いているのだから、似たようないきさつがあってのことであろう。西郷という人は、人の長所を見れば、その人を立てて、自分はその下につくなど、一向平気な人だった。俗世間の序列などは迷惑としか思わない人だったのである。
 ともあれ、作戦計画一切は大村益次郎がやったわけだが、大村は長州藩につかえる以前幕府につかえていたことがある。長州藩につかえるようになってからも、長らく江戸詰めでいたことがある。だから、江戸馴れてはいたが、まさか江戸で戦争することになると思ったことはないから、上野あたりの地理の知識は至ってあいまいである。大村の門弟で大総督府参謀の一人であった寺島秋介の後年の談話によると、大村はひまな時、夕方から上野界隈を団子坂の方から歩いて実地検分して、ざっとした地図をこしらえ、それを版木でおこして、いく枚もこしらえたという。大村はその一枚を見て戦術を工夫し、どの口ヘ何藩の人数を何百人出す、どの道から何藩の兵を何百人進め、何口の何藩の兵と連絡をとってどうというようなことをきめたという。
 寺島の話によると、はじめ寺島等は、何分官軍の兵数が寡勢なものだから(官軍は諸藩の兵合せて三千位しかなかった。その中で頼りになる薩・長の兵は合せて千二三百もあったろうか)、夜襲戦がよかろうと主張したところ、大村は、
 「夜襲など絶対いけない。負けても昼戦さで正々堂々とやるべきである」
と、最もきびしく反対したという。大村の方針として、戦場は出来るだけ上野山内に限りたいのだが、夜間戦になれば暗にまぎれて敵が市中に潜入して放火などして、全市の災害になる危険があるからであった。
 こんな話が伝わっている。大村は一切の戦略を自分ひとりで立て、他には一切相談しなかったが、決策に達して、いよいよ各隊に指令を発するという直前、西郷にだけは知らせておこうと、西郷を大総督府に呼んで、諸藩の攻撃部署を書いたものを見せた。多分、れいの木版ずりの略地図に諸藩の人数を書きこんだものであったろう。西郷はそれをつくづくと見て、言った。
 「これは薩摩勢をみなごろしになさるおつもりのようでごわすな」
 大村は無言で、扇子をぱちつかせていたが、やがてぽつりと言った。
 「そうであります」
 西郷は無言のまま帰って行った云々。
 これは「防長回天史」などに出ている一説話である。ある面における西郷らしさ、ある面における大村らしさが生き生きと出ているところ、よく出来た話であるが、それでは事実であったかといわれれば否定せざるを得ない。西郷は士卒のいのちを大へん大事にした人だから、危険なところへ兵を入れることを好まなかったことは言うまでもないから、いかにも言ったらしいと思わせるものがある。大村はまた大村で、必要最小限度しか口をきかず、人の顔をさか撫でするようなことをケロリとした表情で言った人であるから、言った臭いと思わせるものがある。しかし、同時に、西郷は天性の勇者であるから、必要とあれば死地に兵を入れることを避けはしない。いつもそんな場合には自ら先に立って死地に入って士卒を励ます人であった。この際、こんなことを言ったとは思われないのである。西郷が言わないのなら、大村も言うはずはないのである。
 果然、「防長回天史」の編者が、この伝説をもって、東海道軍参謀の一人で、この時の作戦司令部の一員であった木梨精一郎(長州人)に質問したところ、木梨は全面的に否定している。
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■参謀の不安をよそに大村は勝利を確信していた

<本文から>
 五月十五日、戦争の当日、江戸城内でのことである。何分長時間にわたる戦争である。激戦がつづいて、なかなか勝敗の色が見えない。参謀等は不安になった。
 「大村さんは、夜戦さは絶対にいかんと言って、今日は早朝からの戦争にしなさったが、この分では夜戦さになりそうだ。夜戦さはこちらが先をとってはじめてこそ利があるのだが、今夜のは昼戦さからだらだらと入って行く夜戦さじゃ。とうてい、利があろうとは思われない。こまったことになってしまった。これというのも、夜戦さをきらった大村さんが悪いのだ。大村さんを詰問すべきだ」
と相談して、大村めいる富士見の三重櫓に押しかけて、代表者が、
 「これこれしかじかでござる。すべて、貴殿の責任ですぞ」
と、きびしい調子できめつけた。
 大村は柱によりかかって、目をつぶり、思案にふけるか、居眠りをするかしていたが、言われて、大きなおでこの下の太い三角眉の下の目をぎょろりと見ひらき、懐中から時計を出して見て、それを人々にも見せて、
 「ちょうど三時です。日の暮れるまでには、まだ時間はたっぷりあります。御心配には及びません。もう少し待ってみましょうや」
 といっているうちに、上野の方角にあたって、真黒な煙がむくむくと湧いて来た。それを指さして、大村は言った。
「あんな煙が出ています。あの煙の模様では、ずいぶん激しい戦いになっています」
 皆がその煙を凝視しているうちに、上野の方は一面の猛火になって燃え上り、火花さえ噴き上って来た。大村はぽんと手を打って、
「皆さん。これですみました。今猛火が噴き上げたのは、賊兵等が上野の堂塔へ火をかけて退却にうつったために相違ありません。もうあそこには賊兵はいません。あの火は逃げたしるしです。全部逃げましたぞ」
と言った。
 すると、その時、上野からの伝令が到着して、上野の敵が山内の堂塔に火をかけ、炎にまぎれて残らずばらばらに退却し、官軍の大勝利となったと報告した。
 今、九段の靖国神社にある大村の銅像は、その時の大村の姿を写したものといわれている。今から四、五十年前までは、東京は高層建築がほとんどなかったから、あの銅像はずいぶん高々と見え、あの銅像も英姿諷爽と見えたものである。
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■彰義隊の戦争は徳川方に全く無益な戦争

<本文から>
 彰義隊の戦争は、徳川方からすれば全く無益な戦争であった。無益どころか、有害な戦争であった。こんな団体が結成され、馬鹿な反抗などしなければ、徳川家は大体百万石くらいの領地はもらえたはずであるのに、七十万石となったのは、こんなばかげた反抗とばかげた戦争のためである。それはすでに説明した。
 しかし、官軍側からすれば、決して無意義ではなかった。伏見・鳥羽の戟争の勝利が、無力であった革命政府(天皇政府) に権威を持たせ、箱根以西の諸藩をすべて帰服させたように、彰義隊戦争の勝利によって、江戸人等は官軍と天皇政府の権威を認識しなおし、畏服するようになり、それはひいて関東一円に及んだ。
 つまり、結果から言えば、彰義隊は自ら進んで革命に必要な血の祭壇の犠牲となったのである。彰義隊戦争の意義はここにある。徳川氏にたいする殉息などでは絶対にないことは、緩々語って来た通りである。
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