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<本文から>
後年、生きのこりの幕臣らの上野史談会での追憶談によると、当夜から翌日にかけて、城内で大会議がひらかれ、席上、陸軍奉行兼勘定奉行の小栗上野介が主戦論を展開したという。その要旨はこうであった。
「官軍が東下して来たら、箱根も碓氷峠も防がず、全部関東に入れた後、両関門を閉じて、袋の鼠にしてしまう。一方軍艦を長駆させて、馬関・鹿児島を衝かせる。こうなれば、日和見をしている天下の諸藩は皆幕府に属する。形勢は逆転し、幕威また振うに至る」
この戦術は、幕府が砲・歩・騎の三兵伝習のためにフランスから招聘雇用しているフランス士官らの立てたものである。図上作戦としてはなかなか優秀なものだが、当時の幕府海軍の操船術で、これだけの大作戦が出来るかどうか。現に大坂城から江戸湾に来るまでの間に風浪によって八丈島附近まで漂わされており、これからしばらく後幕府海軍が江戸湾を脱出して松島湾に行くまでの間に一艦を失ったばかりか、のこらずの艦が全部損傷している。宮古湾襲撃にも操船術の拙劣のために僚船とばらばらになり、また失敗敗戦している。徳川海軍は軍艦の数だけは諸藩に冠絶していたが、操船術の点は大作戦の出来るほどの熟練度を持っていなかったと断定してよい。しかし、こんなことは素人にはわからない。天性の雄弁家である小栗が自信に満ち、熱情をこめて説き立てるのを聞いて、人々の感奮は一方でなく、気勢大いにあがったという。
ここで説が二つにわかれる。慶喜が恭順説を持って、小栗を罷免したというのが一説、一旦は小栗らの説に従って主戦に決したが、やがて恭順説になり、小栗を罷免したという説。
前説は徳川慶喜公伝に言うところであるが、真相は後説のようであり、しかもその後もたえず慶喜の心は揺れていたようである。 |
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