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          海音寺潮五郎-江戸城大奥列伝

■春日の局は、政治上のこと、役人の私行上まで、いちいち家光に報告した

<本文から>
 春日の局は、大奥を主裁する実権者である上に、将軍御附の中痛は、いずれもその部屋子であるか、でなければ局の推薦によるものだったから、誰一人その意に適う老はなかった。大奥全体の賞罰は、全部彼女一人の手に握られ、家光に何か言上する場合でも、御附中藤の口を借りる必要はなく、彼女自身が直接に言上した。
 この頃、表の大老は、堀田加賀守正盛が勤めていたが、正盛は局の養子だ。老中酒井讃岐守思勝は正盛の姻戚、老中稲葉正勝は実子、その他にも、老中・若年寄・御側御用人等の顕職にある者、たとえば松平信綱、阿部忠秋、阿部重次、太田資宗、三浦正次、久世広之等、すべて幼少から彼女の教育を受けた人々であった。
 これらの人々は、賢臣の名に背かぬ人たちだったが、それでも局は、いつも綿密に配下に偵察させて、政治上のことはもとより、役人の私行上のことにまで、監督の目を光らせた。彼女はこれをいちいち家光に報告したわけだが、決して私情にとらわれたわけではなく、すべて徳川家のためを思っての報告であった。だから、諸役人は、内外公私とも、万事慎重謹厳にならざるを得なかった。寛永の治と称せられるほどの盛時を招来し得たのは、名君賢相の提携によることは言うまでもないが、春日の局のこの内助の功も大いに与っているのだ。
 家光が下情に通じていたことは、実に精細をきわめ、諸役人もロをつぐまざるを得ないようなことがしばしばあった。
 寛永も半ばを過ぎた頃、旗本に山本権左衛門という者がいた。名代のあばれ者で、見境なしの喧嘩好きで、辻斬の達人で、この男に目ざされたら、助かりつこないといわれていた。
 思い上った権左衛門は、ある時、白昼斬取りを働いたので、ついに奉行所に括らえられてしまった。直参の旗本だから、仕置については、老中から将軍に伺いをたてた。
 すると家光はきいた。
 「その者はよき男ぶりで、向歯二枚欠けたのを、銀で入歯していると聞いたが、その通りか」
 男ぶりはよろしゅうございますが、銀の入歯のことは存知ません、と老中が答えると、
 「その者のことは、八年前から聞いていた。これまでその方共の言上するを待っていた。早々死罪に行え」
 と命じた。
 ある時、松平信綱が御前へ出ると、
 「その方、今朝音物に何を貰ったか」
 と家光にたずねられた。
 かくすほどではない。何某より時候見舞として何々を贈られました、と答えると、
 「それだけか」
 と、追求された。
 そこで、袂から書付を出して、何家よりは何、何家よりは何、と委細に読上げると、
 「それなればよし」
 と、鉾をおさめた。これ以後、信綱は老中一同と申合せて、ふっつり音物を受けないことにしたという。
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■日常生活は、きわめて質素

<本文から> さて、これほどの権勢がありながら、局は戦国乱世のうちに成長し、つぶさに辛酸をなめてきたので、栄華に狎れて、奢りがましい風はいささかもなく、その日常生活は、きわめて質素であった。
 衣服は、たいてい紅殻染か茜染の木綿。部屋で召使う女中共に縫わせたもので間にあわせた。
 改まった時でもない限り、箔、紗、綾の類は用いなかった。冬は、皮足袋、綿帽子をかぶって、どこへでも出向いた。
 食事は、玄米に、糠味噌汁、のはかは、赤鰯ぐらいのもので、飯と汁はありあまるほど作らせ、残ったものを下男に下ばりていた。
 下男等は、局の下されたもので三度々々の食事をすますことができ、くらしの助けになると喜んでいた。
 家光は、局の倹素ぶりを見て、
 「年寄がいらぬこと。いま少しはよい料理を食べるがよい」
 とすすめたが、
 「有難いお言葉でございますが、私は、以前は軽い者でございましたのに、おそれ多くも上様の御乳人に召出されましてからほ、毎日結構な御料理を下されました。その頃は、私は、それは私へ下さるのではなく、上様のお乳のために下さるのであると考えてちょうだいいたしました。しかし、ただいまはもう、お乳の御用もなくなりましたので、以前の食事にかえりました。この方が胸につかえず、いただきようございます」
 家光は黙ってうなずいて、その場はすましたが、その後は、自分の食膳の内から一品二晶取上げて、
 「これは婆に」
 と下げた。
 いつか、これが習慣になったので、料理方でも心得て、その補給分を用意しておくようになったという。
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■お万の方は自分の勢力拡張のため行儀作法を重んずる気風を利用

<本文から>
 幕府が堂上家の子弟を召出したのは、これがはじめである。お万の方の台頭につれて、大奥の風俗習慣は京都御所夙に大旋回をしていった。
 春日の局時代の古参女中のうちには、行儀作法に拘らないものがかなりいた。三河の田舎大名からごく短い間に天下の大将軍になり上ったのだ。むずかしい行儀作法など必要がなかったのである。お万の方には、そこがつけ目で、挙動が粗野であるという理由のもとに、実は自分の勢力拡張の邪魔になるそれらの人々を、片っ端から退けて、自分の息のかかった女中たちを、どんどん抜擢した。
 徳川幕府も三代になってその権威は確立した。権威には儀容が要求される。儀容は礼節によらねばならない。お万の方流の礼儀作法を大奥は必要としていたのだ。
 行儀作法を重んずる気風は、大奥から表へも伝った。家光もまたたびたび、諸事無作法のないようと申渡したので、諸役人は争って、京風の行儀作法を習い覚えるようになった。
 諸大名にも、供廻りががさつにならぬよう申しつけらるべしと指令が出された。武辺者とか、勇士などともてはやされて、肩肱張っていた武士の名誉も、ここに全く影をひそめ、特に行儀作法を第一の嗜みとする気風に変って来たのである。この時代からだ。浪人が召しかかえられるにも武芸の嗜みなどより、容貌風采弁口を買われるようになったのは。
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■母親を愛慕する綱吉の時代は大奥の栄えた時代

<本文から> 五代将軍綱吉の時代は、前にも後にもなかったほど大奥の栄えた時代である。将軍の実母桂昌院などは、京都の八百屋某の娘から、女にして従一位まで上って、日本における女性の出世がしらといわれているほどである。この大奥の栄えは前代と違って、将軍が薄馬鹿であった所に原因はない。
 綱吉という人はずいぶん賢い人で、学問が好きで、剛毅で、明君の素質は十分にある人であった。しかし一面一種のマニヤ(偏執狂)的なところがあり、学問に凝ったあまりに儒教的な孝行者となり、桂昌院のいうことは何によらず絶対服従をした。ここに大奥が空前絶後の栄えを見せた原因もあれば、彼の悪政の原因もある。また彼は極端な権威主義者であったから、老中や側用人などもせんせんきょうきょうとして、彼の意を迎えることに腐心し、彼の最も愛慕する母親の主宰する大奥に附和したので、表の権力が大奥に押えつけられる結果になったのである。
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■生類御憐みの令は綱吉の子孫繁栄の祈願からできた悪法

<本文から>
 もともと生類御憐みの令は、綱吉の子孫繁栄の祈願を命じられた、護持院隆光が修法の効き目があらわれず、世子出生のきざしがないので、それをごまかすために、一時逃れに述べたてたものだ。だから、なおも修法の効がないとなると、隆光としては更にごまかしの手を案出せざるを得ない。ついにこう言い出した。
 「上様が現世において御子孫に御縁の薄いのは、過去に殺生をなされた応報でございます。恐れながら今後とも堅く殺生を御慎しみあらせられまするよう」
 すると、綱吉は直ちに鷹を放し、蔭匠以下の役々を廃し、例年、朝廷へ自ら鷹狩して獲った所謂御拳の鶴や雁を献上していたのを、鯛に改めた。猟師ほその業を禁ぜられ、鰻、鰭及び鳥獣の肉は販売、食用ともに厳禁、玉子さえも口に入れてはいけないことになった。
 このような殺生禁止に伴って、江戸市中に鳶や烏の群が多くなり、人間にまで害を及ぼすようになると、旧鷹匠や餌差の者に描獲させ、これを以前の御鷹部屋に飼っておき、年に四度ずつ、わざわざ船に積みこんで、八丈島、三宅島、新島などへ放ってくるのであった。
 地方では狩猟が禁じられたので、狼や猪が年々増殖して、ひんぴんとして、人命や田島に害を及ぼした。けれども、これを殺すことは許されなかった。
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