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<本文から> 春日の局は、大奥を主裁する実権者である上に、将軍御附の中痛は、いずれもその部屋子であるか、でなければ局の推薦によるものだったから、誰一人その意に適う老はなかった。大奥全体の賞罰は、全部彼女一人の手に握られ、家光に何か言上する場合でも、御附中藤の口を借りる必要はなく、彼女自身が直接に言上した。
この頃、表の大老は、堀田加賀守正盛が勤めていたが、正盛は局の養子だ。老中酒井讃岐守思勝は正盛の姻戚、老中稲葉正勝は実子、その他にも、老中・若年寄・御側御用人等の顕職にある者、たとえば松平信綱、阿部忠秋、阿部重次、太田資宗、三浦正次、久世広之等、すべて幼少から彼女の教育を受けた人々であった。
これらの人々は、賢臣の名に背かぬ人たちだったが、それでも局は、いつも綿密に配下に偵察させて、政治上のことはもとより、役人の私行上のことにまで、監督の目を光らせた。彼女はこれをいちいち家光に報告したわけだが、決して私情にとらわれたわけではなく、すべて徳川家のためを思っての報告であった。だから、諸役人は、内外公私とも、万事慎重謹厳にならざるを得なかった。寛永の治と称せられるほどの盛時を招来し得たのは、名君賢相の提携によることは言うまでもないが、春日の局のこの内助の功も大いに与っているのだ。
家光が下情に通じていたことは、実に精細をきわめ、諸役人もロをつぐまざるを得ないようなことがしばしばあった。
寛永も半ばを過ぎた頃、旗本に山本権左衛門という者がいた。名代のあばれ者で、見境なしの喧嘩好きで、辻斬の達人で、この男に目ざされたら、助かりつこないといわれていた。
思い上った権左衛門は、ある時、白昼斬取りを働いたので、ついに奉行所に括らえられてしまった。直参の旗本だから、仕置については、老中から将軍に伺いをたてた。
すると家光はきいた。
「その者はよき男ぶりで、向歯二枚欠けたのを、銀で入歯していると聞いたが、その通りか」
男ぶりはよろしゅうございますが、銀の入歯のことは存知ません、と老中が答えると、
「その者のことは、八年前から聞いていた。これまでその方共の言上するを待っていた。早々死罪に行え」
と命じた。
ある時、松平信綱が御前へ出ると、
「その方、今朝音物に何を貰ったか」
と家光にたずねられた。
かくすほどではない。何某より時候見舞として何々を贈られました、と答えると、
「それだけか」
と、追求された。
そこで、袂から書付を出して、何家よりは何、何家よりは何、と委細に読上げると、
「それなればよし」
と、鉾をおさめた。これ以後、信綱は老中一同と申合せて、ふっつり音物を受けないことにしたという。 |
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