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          伊達政宗 8

■伊達と藤堂は残し福島は潰される

<本文から>
 利勝は、安芸が取り潰せないと見てとれば、伊達に邪をむけ変えて来る怪獣だ。それを知っていながら平気で忠告するというのは、何を考えてのことであろうか…?
 とにかく正則は、伊達政宗が忠告したので、一層意地になっていった。
(−相手が家康ならばとにかく、その小粋の秀忠など…)
 福島正則ほどの者が怖れてたまるものかという肚で、参議にされて得々と広島城へ戻ってゆくと、さっそく城普請に取りかかった。
 念のためにと、正式に、修理の届けを出したのは翌元和四年(一六一八)の正月二十四日。すっかり普請を終って、再び彼が参覿のために広島を発って江戸に向ったのは桜の真盛りの三月九日。この間に彼は、土井利勝に取り潰される口実を、そっくり揃えてやってしまったのだが、それは後のこと−
「福島どのは、殿の暗殺などおあきらめなされて、広島へ発たれましたそうで」
 柳生権右衛門にそれを知らされた時、政宗は、
「そのはずじゃ」
と、軽く言っただけであった。
 正則は、気性に一つ大きな特徴を持っている。関ケ原の役の時に、その性癖がハッキり出た。清洲の城にあった正則が、さすがに岐阜へ進みかねている時に、家康は大きな芝居を打った。
「−わしは、おぬしたちのために三成を叩き潰してやろうというのだ。よいか、秀頼君は三成の虜になっている。それなのにおぬしたちは、清洲で足踏みして進もうとしない。おぬしたちが、その気なら、おれも三成征伐はやめにする」
 家康にそう言われると、正則はカーツとなって、すぐさまその日のうちに岐阜へ突っかけた。
 こうした性癖を世間では、「−臍曲り」とも言い、「−快男児」とも評してゆく。しかし、それはどこまでも戦国気質の一つで、城攻めには特功をあらわしても、じっくりと腰落ち着けての行政となれば身を破るもとになろう。
(−果してあの性癖に対する反省が、正則にあったかどうか…?)
 あれば、あの忠告のあとで当然政宗のもとへ使者がなければならぬはず。
 それがなかったということは、正則は依然として独り合点の士道にこだわる反省無用わがままもの
の我使者ということだった。
 (この我儘さの抜けない者は一代限り…)
 自分だけは、どんなに大きくなってみても、その光栄や幸福を子孫に伝えるものではない。いや、もう少し広く例をとれば、武田信玄も織田信長もその分別が粗略であった。
 大自然には大自然の法則が儼存する。天道とよんでいるのがそれだ。人間だとてその天道の生命に繋がる所産ゆえ、天を畏れ、天をかしこむ心が足らねば、遠からず滅んでゆくに決まっている。
今度の秀忠の上洛にしても、実は、その一点に集約されることだ。家康が、「−公家法度」を残していったその精神をどう実践してゆくかにかかっている。
「−三種神器(皇位)は四海万民を育成するためにある!」
 そうした万世一系の天皇から直接政権を任されている政府(武家の統領ゆえ幕府と呼ぶ)なのだ。その確信を持って果して事にあたり得るや否や…?
当然それに絶えざる「−則天去私」の反省が必要ながら、その確信が勇気の源泉になることを、はっきりと自覚していなければならない。
秀忠が、ひと足おくれて伏見城に着いたのが六月二十九日。江戸を発してから十五日目に到着している。
 そして、随行して来ている諸大名を伏見城へ招いて饗応したのが七月七日。もうこの時には参議に任命された福島正則は、京を離れて広島へ向っていた。
 むろん土井利勝が、わざとみんなと同席させなかったのだろうが、反対に伊達政宗と藤堂高虎は、みんなの前で殊のほかに優遇した。
 これで生き残った戦国武将の最長老の席から福島正則は除外して見せたということである。
 同時にこの席で、秀忠は、池田光政を因幡の鳥取城に、また本多忠政を桑名から播磨の淡路城に移して見せた。
 いわばこれが、幕府の威厳を武将たちにまず示しておくための行政で、安芸取り潰しの前ぶれ的な含みを持つものだ。
 次に秀忠は、七月二十一日に、諸寺の法度を頻った。これが姿勢の乱れた公家への第一牽制球であることは言うまでもない。
 公家と寺社の関係は学問を通じ、習慣を通じて殊のほかに深いものがある。これらが勝手に公卿たちと結んで媚びることになってゆくと、勉学不足の結果として、国柄などはどのようにも寮れてゆく。
源平時代の昔から、坊主が政治に介入して、国を紊さなかった例はない。宗教の権威にかくれて「− 則天去私」の去私(私心を去る)をそっくり忘れて妄動するからだ。
しかも、この法度を出したその日に、秀忠は参内して天機を奉伺し、上皇にお見舞い品を呈した。
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■土地の私有厳禁で幕府を開く

<本文から>
 和子姫の頂は、福島正則の封を没収し、ここに浅野長晟を移し、紀州へは野の頼宣を移して京の周囲を固め直したあとと決められている。
 むろんそれまでには、国替え条令を発して封建性の基礎をしっかりと定めておかなければならない。
 従来の大名は、所領がそのまま「わが国」であった。私有と公有の区別はあいまいで、そこからつねに叛乱闘争が起っている。
 その根本的な解決を計るために家康は幕府を創めたのだ。
 土地もまた、水や光や空気と同じように、特殊な個人の私有を許すべきものではない。国土はあげて天の所有。日本ではこれを一天万乗の大君、天皇のものとして、それを藩主が土着の民と共に預る形式を採用する。
 そうした形式の上できびしく侵略を封じてゆく。その新秩序こそが、「−斬り奪り勝手」の戦国の時代色を一掃してゆく封建性の基礎になるのだ。
 この土地の私有厳禁は、明治の新政府まで日本の法律としても習慣としても続いて来た。
 それが、租税徴収の地盤と見なされ、それぞれ分轄所有を押しっけられて徴税の基点にされたのは言うまでもなく西洋方式の模倣によるものだ。
 したがって国土のすべては天皇のもの、それを預って武家の統領である征夷大将軍が、実際政治を執行するという形になると、いちばん大切なのは、朝廷の権威であった。これがなければ徳川政権存立の意義がなくなるからだ。
 実は、その点に、将軍秀忠の一番大きな苦慮があった。全国の諸大名は武力だけでも充分威圧できるのだが、朝迂にそれは当てはまらない。
 九重の上におわして武力は持たない大きな理想の太柱が朝廷なのだ。しかも、その天子にわが娘を所望されて入内させると決ってみると、秀忠の地上の知恵では律し切れないものに打つかる。
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■政宗も悟りの捨て身の諌言に宗矩が反省

<本文から>
 (そうだ。いかなる場合にも、わが身は護って見せてやる、というだけの兵法ではならなかったのだ…)
断じて人は斬らぬ、人を傷つけぬためには刀も抜かぬというだけでは真正の活人剣になりようがない。活人剣とは人を斬らぬことではなくて、これを活かしてやることだ。伸ばしておのれを活用できる…それだけの境地を拓いてやってこそ活人剣と言えるのだ。
「−どんな人間にも天賦の才能はあるものぞ」
 それが家康の訓えであったが、その才能を発見して、拓いてやれる器量がなければ活かしてやったことにはならない。
 今日の政宗と秀忠の対談は、その積極性の重要さをはっきりと教えてくれた。これがほんとうの勇気に違いない。
「よし、わしは、もう一度伊達どののもとへ参る。その方、先に檜を担いで戻っておれ」
−宗矩は小者に言い捨てて、くるりと馬首を芝口へ向け直した。
「そうか.人間を立派に使い切る…それが活人剣の目的だったわ」
 使い切るためには、まずその人間を信じてかからねば話にならぬ。こっちも不信の太刀を帯しながら、何のそれが無刀取りになり得よう。その事を政宗も悟って捨て身の諌言をしてのけたし、秀忠も素直にそれをうけて決断した。
(何のことはない、一番劣っていたのは、この宗矩ではなかったのか…)
 宗矩は、馬を返すとそのまま伊達邸へ駆けつけた。秀忠の素直な悟りを政宗に告げておかねば、政宋はとにかく、家中の者がどのような誤解をしまいものでもなかった。
 現に、自分も酒井忠利も、誤解されても止むを得ない強ばりを顔に示して出て来ている。
 門はまだ閉ってはいなかった。
 「柳生でござる。まかり通るぞ」
 馬から降りると、投げるように門番に手綱を渡して大玄関へ駆けつけた。
 「頼もう。宗矩でござる。いま一度お取り次ぎを…」
 みなまで言わぬうちに、さらりと式台の障子が開いた。若侍ではなかった。公用人の伊達阿波が微笑をふくんで両手を突いていた。
「もはや、引っ返してお出でであろうと、わが殿がお待ちかね。ずっとお通り下さるよい」
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■泰平招来の政治姿勢に変化した政宗

<本文から>
 すでに教会や礼拝堂は壊されていた。しかし、各自の家庭の奥までは調べさせない。それゆえ、観音さまに十字を刻んで拝もうと、心で天帝を拝みながら念仏会をやろうと、それは勝手だ。考え方にせよ、産れる時は両親からとするお伊勢さまのありようを、よくよく思案のもとにして考えて見よと申し渡した。
 この宗教観は、幼時から禅という、偶像否定の宗教に鍛えられて来ている政宗なればこそ言い得ることであった。
 事実、このようにして、領主がかくれ念仏や、かくれ切支丹を暗に許した例は日本中にほとんどない・それだけ政宗は新しくもあったし、深くもあったと言ってよい。
当然、そうした態度は、生活経験の豊かな常識階層には深い共感を呼んでいった。
 この共感を踏まえて政治はすべきものというのが、家康を認めた後の政宗の生き方であり、悟りになった。
 この頃から彼は、領民にも身辺の重臣たちにも、
「−人間は、この世へ客に出された旅人である」
という実感をよく口にしてゆくようになった。
「−人間というは、永遠の生命の壷の中から、生命をわけ持たされて、この世に客に出されてきた旅人なのだ。元来が客の身なれば、三度の食事が口に合わずとも、あまり不平は言わぬもの…」
というのである。
これは、江戸へ出て来て思いのままに皮肉を言い廻る奔放自在な彼の行動とはおよそ異る実直さである。
 この実直さの中に、実は彼の、政治の妙諦はあったと信ずる。いや、あらゆる生命の危機をくぐりぬけて来た奇傑の、これが真正な発見であり、悟りであったに違いない。
「−生命は永遠なるもの…」
 そう気づいてみると、自分はこの世へ、五十年か六十年かの期間を限られて、客に出されて来た旅人だったというのは、何という息苦しい人間の生涯を語り卑した言葉であろうか!
「−客の身なれば、あまり不平も申すまじ」
と、なっては、彼ほど奔放に見えた男の生涯にも、それほど大した自由はなかったのだと察せられる。
「−しかも尚、代々の人間は、この世に生命の存するかぎり、永遠に自由を求めて走り続ける」
 それゆえ、自由は大切にしなければならないのだという実感が、この中にはかなり哀れな余韻をふくんで盛りこまれている。
 いや、その切ないほど真剣な実感があればこそ、彼もついに家康のめざす「−泰平招来」に共鳴し、その中に自分の政治のタイプを適応させてゆく気になったのだとも受けとれる。
 とにかく、元和四年閏三月、江戸から仙台へ帰った後の、伊達政宗の政治姿勢は一変した。
 その直接の動機は、振姫と忠宗の婚儀にあったのであろう。これで将軍秀忠に武器をもって戦わなければならない理由は、一応消滅した。もっと直接的に言えば、自分の生きてある限り、権力の車輪にかけて蹂躙される恐れはなくなった。
そうなれば、政宗ならずとも、政策も心境も一変してゆくのが当然だったと思われる。
 とにかく、去年までの政宗の領国経営は、つねに万一のおりの用意が真っ先だった。軍備がつねに第一で、それを忘れた経営などはありようがなかった。
 ところが、今年からはそれが変った。
(泰平は、根づきそうだ…)
という感じ方が、いつの間にか、
(根づかせなければならない!)
の願望に変っている。
 彼はまず真っ先に、モヤモヤとくすぶり続けている宗教問題に彼独特の、知って罰さずの方針を打ち出すと、すぐその足で領内北諸郡の巡察に出かけた。この巡察に一カ月以上かかっている。
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