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<本文から>
利勝は、安芸が取り潰せないと見てとれば、伊達に邪をむけ変えて来る怪獣だ。それを知っていながら平気で忠告するというのは、何を考えてのことであろうか…?
とにかく正則は、伊達政宗が忠告したので、一層意地になっていった。
(−相手が家康ならばとにかく、その小粋の秀忠など…)
福島正則ほどの者が怖れてたまるものかという肚で、参議にされて得々と広島城へ戻ってゆくと、さっそく城普請に取りかかった。
念のためにと、正式に、修理の届けを出したのは翌元和四年(一六一八)の正月二十四日。すっかり普請を終って、再び彼が参覿のために広島を発って江戸に向ったのは桜の真盛りの三月九日。この間に彼は、土井利勝に取り潰される口実を、そっくり揃えてやってしまったのだが、それは後のこと−
「福島どのは、殿の暗殺などおあきらめなされて、広島へ発たれましたそうで」
柳生権右衛門にそれを知らされた時、政宗は、
「そのはずじゃ」
と、軽く言っただけであった。
正則は、気性に一つ大きな特徴を持っている。関ケ原の役の時に、その性癖がハッキり出た。清洲の城にあった正則が、さすがに岐阜へ進みかねている時に、家康は大きな芝居を打った。
「−わしは、おぬしたちのために三成を叩き潰してやろうというのだ。よいか、秀頼君は三成の虜になっている。それなのにおぬしたちは、清洲で足踏みして進もうとしない。おぬしたちが、その気なら、おれも三成征伐はやめにする」
家康にそう言われると、正則はカーツとなって、すぐさまその日のうちに岐阜へ突っかけた。
こうした性癖を世間では、「−臍曲り」とも言い、「−快男児」とも評してゆく。しかし、それはどこまでも戦国気質の一つで、城攻めには特功をあらわしても、じっくりと腰落ち着けての行政となれば身を破るもとになろう。
(−果してあの性癖に対する反省が、正則にあったかどうか…?)
あれば、あの忠告のあとで当然政宗のもとへ使者がなければならぬはず。
それがなかったということは、正則は依然として独り合点の士道にこだわる反省無用わがままもの
の我使者ということだった。
(この我儘さの抜けない者は一代限り…)
自分だけは、どんなに大きくなってみても、その光栄や幸福を子孫に伝えるものではない。いや、もう少し広く例をとれば、武田信玄も織田信長もその分別が粗略であった。
大自然には大自然の法則が儼存する。天道とよんでいるのがそれだ。人間だとてその天道の生命に繋がる所産ゆえ、天を畏れ、天をかしこむ心が足らねば、遠からず滅んでゆくに決まっている。
今度の秀忠の上洛にしても、実は、その一点に集約されることだ。家康が、「−公家法度」を残していったその精神をどう実践してゆくかにかかっている。
「−三種神器(皇位)は四海万民を育成するためにある!」
そうした万世一系の天皇から直接政権を任されている政府(武家の統領ゆえ幕府と呼ぶ)なのだ。その確信を持って果して事にあたり得るや否や…?
当然それに絶えざる「−則天去私」の反省が必要ながら、その確信が勇気の源泉になることを、はっきりと自覚していなければならない。
秀忠が、ひと足おくれて伏見城に着いたのが六月二十九日。江戸を発してから十五日目に到着している。
そして、随行して来ている諸大名を伏見城へ招いて饗応したのが七月七日。もうこの時には参議に任命された福島正則は、京を離れて広島へ向っていた。
むろん土井利勝が、わざとみんなと同席させなかったのだろうが、反対に伊達政宗と藤堂高虎は、みんなの前で殊のほかに優遇した。
これで生き残った戦国武将の最長老の席から福島正則は除外して見せたということである。
同時にこの席で、秀忠は、池田光政を因幡の鳥取城に、また本多忠政を桑名から播磨の淡路城に移して見せた。
いわばこれが、幕府の威厳を武将たちにまず示しておくための行政で、安芸取り潰しの前ぶれ的な含みを持つものだ。
次に秀忠は、七月二十一日に、諸寺の法度を頻った。これが姿勢の乱れた公家への第一牽制球であることは言うまでもない。
公家と寺社の関係は学問を通じ、習慣を通じて殊のほかに深いものがある。これらが勝手に公卿たちと結んで媚びることになってゆくと、勉学不足の結果として、国柄などはどのようにも寮れてゆく。
源平時代の昔から、坊主が政治に介入して、国を紊さなかった例はない。宗教の権威にかくれて「− 則天去私」の去私(私心を去る)をそっくり忘れて妄動するからだ。
しかも、この法度を出したその日に、秀忠は参内して天機を奉伺し、上皇にお見舞い品を呈した。 |
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