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          伊達政宗 7

■秀頼の血の疑惑

<本文から>
 「−こなた様が、千姫に子を産ませては一大事。そう思うてな、まず伊勢に男をあてごうた、と思うがよい。娘にしておいて、それからこなたに近づけようためじゃ。そのうち伊勢は、身ごもった…必ずしも上様のお子とは限らぬゆえ、この上遁がして捕われでもしてはかえって不為め、お気になさるな」
 秀頼の、自分の素姓についての疑惑はこれで決定的になってしまった。
(−女というは、何という怖ろしい……)
 徳川の血筋というても千姫は、母の妹の子ではないか。その血筋を呪うあまり、伊勢にまたわからぬ子を産ませたとは、何という狂った執念の深さであろう……
 秀頼は、伊勢を責めた。責める時には、我の強い母の嘘を信じようとしていた。
 ところが、その最初の部分は真実だった。母が自ら伽を命ずる気で呼んだ二人の中の一人に、まだ小娘の伊勢をあてがったことがある……その時から、秀頼の眼の前が透きとおるように明るくなった。
 我執の悪が抜け去って、自分だけは「−豊太閤の子」で死なねばならぬという、青空のように突き抜けた手がかりのない覚悟であった。
 いや、それ以上に深い疑惑であったと言ってもよい。当然自分に味方してくれるはずの、浅野も上杉も、黒田も毛利も細川も京極も、実はみな、秀頼の血に疑惑を抱いて遠ざかったのに違いないという不信であった。
 秀頼は、不意にあふれ出る涙の中で、心の底から豊太閤を抱きとった。この父への憐憫に比ぶれば、城や勝利は、ものの数ではない気がした。
(−死んでやろう。城と共に、父の子として……)
 あがけばあがくほど、血筋の不信は、豊太閤の恥辱としてひろがるばかりだ。
 そこで国松丸も、その妹の嬰児も、そのまま城内において、今日の秀頼は、もはや不動の座にある奇妙な勇者であった。
 勝つはずはない。いや、潔く負けてやらねば、父も母も救われない。勝ってはならぬ戦であり、遁げてはならぬ戦なのだ…
 そう思ってみると、総濠を埋められたこの大坂城に残った剛の者たちは、みなそれぞれに、死なねばならぬ理由を持った物の怪に見えてくる。
 「重成、こなたも戦には意見があろう。戦場はいずれに選ぶか、申してみよ」
 秀頼が透明な表情で問いかけると、同年の重成はニコッとした。これもまた底抜け打明るい笑いだ。
 「まず真田どのから.われらは死所などどこであろうと、いささかも選り好みはいたしはせぬ」
▲UP

■大坂夏の陣は歴史の法則が正確に働いた

<本文から>
 あくれば慶長二十年五月七日 
 すでに神々は、この戦に加わる人々の智力、戦力だけではなく、各自に課すべき運命の経緯の糸まで、すっかり人生織機にかけ終っていた。
 一見すれば、織り上がるまで運不運の模様は不定のものに見える。しかし、真実はそうではなかった。
 糸を織機に配した時から、その模様はすでに決っていた。
 勝者になる者、敗者になる者、死ぬ者、生きる者、傷つく者と、それぞれがおかしいほど正確に動いて、そこに「−大坂夏の陣」という戦争模様を織りあげる。
 この織機の動きを、実は「−歴史の法則」と呼ぶのだが、勝者にも敗者にも、死ぬ者にも生くる者にも、みなそれぞれに動かしがたい理由があり、その撰別はまことにきびしいものであった。
 勝者の撰に入ったものは当分栄え、敗者は地上から消え失せる。
 といって、これは関ケ原の合戦とは、その本質を異にした戦であった。
 関ケ原は日本の地図を書き直すほどの規模と意味を持っていた。しかし、今度の戦は、せいぜい豊家の六十余万石の争奪に終る戦であった。
 関ケ原のおりには、日本中の大名が二分して戦った。それだけに勝者が敗者の所領を没収すれば、褒美の領地に事欠くことは全くない。しかし、今度は、秀頼以外は、何も持たない牢人大名だ。彼らが善戦して東軍を苦しめれば苦しめるほど、褒美の足りなくなってくる幕府方に不利な戦だ。
 それだけに、家康は極力これを避けたがった。
 戦争という夥しい浪費のあとで、領地という褒美がなければ必ず諸大名の不平がつのる。秀頼の使い残した豊家の遺産くらいでは、国家経営の将来がどうなるものでもない。そのくらいの計算もできないほど、家康は頭のわるい男ではなかった。
 家康に戦う粛があったとか、わざわざ豊家を滅ぼす機会を狙っていたとかいう自称学者の判断は、よっぽどの講釈好みか、計算の全くできない者の言うことだ。
 さすがに政宗は、それを知っていた。
 (−東軍が勝つに決っている……)
 そして勝ってしまうと、家康は、少なく見ても首五十万石ぐらいの領地は褒実として出さなければならなくなろう。
▲UP

■秀頼母子の脱出を井伊勢の鉄砲で自殺にに追い込んだ

<本文から>
 秀頼母子を殺した直接の原因は、この井伊勢から打ち出された一連の鉄砲の盲目撃ちであったと言ったら、人々は果して信じるであろうか…?
 狙って撃ったのではない。が、殺す気がなくて撃ったのでもむろんない。
 誰も真相は知らなかったが、これがむっつり家で戦術家の井伊直政が、豊臣家に対する痛烈な刺刀であった…と、政宗は睨んだ。
 この時すでに芦田曲輪の糒蔵では、淀君も秀頼も救出される気になっていた。
 すでに大坂城は跡形もなく焼け落ちてしまっている。ここで降って、六十余万石が、そのまま保証されようとは思っていない。それどころか、このまま大和に移って郡山に住めるものとも思ってはいなかった。
 これだけの戦をして、近くの住民の怨みを根こそぎ買ってしまっては、民政が巧くゆくものではない。家康もそれを察して、
「−潰しはせぬ。潰しはせぬが、下総か信濃あたりで…」
と、米村にも、常高院にも洩らしていたそうな。
                                                 (−あるいは、忠輝の禄のうちから信濃の川中島あたりを割く気ではあるまいか……)
 政宗は、その時にはそう思った。
 ところが、それもこれも、井伊の発砲で空しく消えた。
 淀君の最後の希望で、この時、城内では輿を二挺探していた。他の者はとにかく、秀頼と淀君だけは敵の間を輿で通りたい。敵に顔をさらすのが辛いという、人情からは無理からぬ希いである。ところが、その僅かな甘えが、井伊直故に刺刀の鉄砲を放つ思案の時間を授けてしまった。
 当然、秀頼の周囲にも、今さら降伏などと口惜しがっていた者も少なくないはず。
 それらは自害をすすめたがって、しかし、口出しの機会を失っていたのに違いない。
 それに両者を乗せる立派な輿など、すべてが灰燻に帰したこの城中にも、その周辺にも、簡単にあるはずはなかった。
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■家康と政宗は「英雄、英雄を知る」関係

<本文から>
 家康が、正式に諸大名を二条城で引見したのは十日になっている。そして、将軍秀忠と二人きりで密談したのが十一日。十二日には、将軍の命によって高力忠房、板倉重宗らが、大坂の残党狩りを始めていた。
 政宗の眼に、家康が衝撃から立ち直った…と、見えたのは、将軍秀忠と会見した時からだった.その前の家康はどこかに拭いきれない迷いを見せて、
 「−これが、あの家康であったろうか?」
 二条城に駆けつけた藤堂高虎や、鍋島勝重にさえ首を傾げさせたほどであった。
 そのため、一部にはあらぬ噂も流れていった.
 「−家康は戦死なされたぞ。生き残ったのは家康ではない。駿府から連れて来た影武者らしいぞ」
 むろん、それらの噂も間もなく消えて、十三日に来謁した毛利宗瑞(輝元)の子の秀就、中川久盛、寺沢広高、それに二条城へ砥候した移しい憎衆らを引見した時には、再び以前の家康に戻っていた。
 こうして十五日には公家衆や門跡に会い、そのあと城内で天台宗の論義を聴いた後、 細川忠興の子、忠利に会った頃には、もはや平素の巨厳に見える家康だった。
 その間、政宗はほとんど側近に詰め続け、
(−家康に、伊達家を滅ぼす気はなかった…)
 それをはっきりと確かめ得て、政宗は、眼も心も改めて洗われる想いであった。
 世俗的に言えば、「−英雄、英雄を知る」とでも言うのであろうか。家康も政宗を認めていたし、政宗もまた家康には敵しかねると、きわめて自然にわが叛骨を捨てざるを得ない心境になりつつあった。
 その心境になってみて初めて、家康の、秀吉を立てて来なければならなかった意味もわかった。
(−天下というものは、奪ろうとして奪れるほど、安易なものではなかった……)
 才略や器量を越えたところに、一つの運命が巨大な根を深々と張りめぐらして活きている。この根をそのまま「−徳の根」と呼んでもよい。
 永い間に無言で積まれた代々の徳の根が、子孫の繁栄に関わりを持っている。その根まわしの深さと大きさの不足を言わず、天↑だけを狙ってみても、それは一つの悪夢に過ぎない。
 その意味では、信長の夢にも、秀吉の夢にも、まだまだ足りないものがあった。
 いや、政宗にしても同じであろう。ここで家康を倒してゆかねばならないほど、はっきりとした理由がない。理由のないところへ柄をすげて、叛乱してみたところで、それは天下を制することにはなりようがなかった。
(そうだ! 叛乱は、どこまで行っても叛乱に過ぎない。天下とはそのように甘いものではなかった…)
 政宗が、もしも天下を求めるのならば、全く無私の立場に戻って、民衆のために黙々と徳を積むよりほかにない。そして、それが子孫に及び、大樹をなしたところで、初めて運命は彼の前に天下をひろげて見せるだろう。
(−今、天下は、家康の手にあるべくしてあったのだ……)
 さすがに、政宗はそれを悟った。
 悟ってみると、またしても心にかかるのは、不思議な立場におかれた上総介忠輝のことであった。
(−家康は、どのようにこれを処理しょうと思っているのか?)
 家康が、まっ先に戦功を褒めたのは、越前の忠直と紀州の浅野長晟であった。これはいずれも衆目の認めるもので、誰にも異存のないところだ。
 しかし、忠直を褒賞すれば、当然忠輝を責めねばならない。同じ子供のまだ幼い義直(尾張)にも頼宣(後の紀伊)にも、それぞれ付された家老の働きで手柄があった。しかし、年長の忠輝にはそれがない。
(−誰かが減封されなければ納まらないはずの今度の戦……)
 と言って、迂闊にこれは政宗にも問い質せることではなかった。政宗自身は、越前や浅野に続く大きな手柄を立てている。しかし、何の手柄もなかった忠輝は、伊達政宗の助言下におかれてあったのだ……
▲UP

■征夷大将軍の器ではなかったと悟る政宗

<本文から>
 文字どおり、熟読玩味、どれまでが家康の実感で、どれからが崇伝の文章かと、用心深く読みつづけた。
一、武威におごり、帝位をないがしろにし、天地君臣の礼を濫るべからず。およそ国の有つ職分は、民を安祥ならしむるにあり。先祖を輝かし、子孫を栄えしむるに非ず。湯武の聖徳もこの旨を主とすべしと知るべし。
 これがまっ先にかかげた一条だった。政治は決して、わが先祖を輝かしたり、子孫を栄えしむるためにあるのではない。国家というのは、民を安祥ならしむるためにあるのだと、まっ先に説いている。これが国体を確かめ得た家康の、民主主義の根本であり結論であった。
一、天下は天下の天下に非ず。また、一人の天下にも非ず。ただ仁に帰する事深く研究すべきこと。仁はすでにあり、四径、九径おのずから備わる。この旨一日も離るべからず。
一、本朝は神武顕明の地なれども、文学異域(外国)に劣れり。宜しく学校を設け、これによりて国家の盛を鳴さしむべきこと。
一、我が立つところの条目に相背かば、嫡子実子といえども、家督相続せしむべからず。大老臣、及び老臣と相談し、家門の内、その器に当る者を選み立つべきこと。
一、武の武たる道をわきまえず、士の士たる道を明らかにせざれば、すなわち愚将、鄙将にして、良将とは云わず、韜略の智計人に勝るといえども、征夷大将罫に当るには足らぎるべし。
 何分にも百カ条にわたる厖大なものであった。その条々に、必ず何ほどか心を突き刺すものがあったが、この「−韜略の智計人に勝るといえども…」の個所へ来た時に、政宗は思わず草案を膝においてしまった。
 (−そうだ。自分は征夷大将軍の器ではなかったのだ:::)
 智略においては、太閤にも、家康にも決して劣ると思っていなかった。が、その劣ると思っていない心が、すでに仁とはほど遠い.仁の心に欠くるものが、どうして万民に君臨してよいものか…
 (−そうだ!自分は、自分の才能の限りを尽くして、為政者を補佐してゆくよりほかになかったのだ……)
 それは、政宗が初めて経験する「−知我」の大悟であったと言ってよい。
 ジーンと全身が頼れてゆき、その痺れがゆっくりと溶けてゆくあとから、ほんとうの政宗が、少しずつ静かに洗い出されてくる感じであった。
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