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          伊達政宗 6

■家康は秀頼を憎んでいなかった

<本文から>
 家康が、ほんとうに秀頼を憎んでいるのなら、何で関ケ原のおりに秀頼母子を助けたのか?
 わさわぎ秀頼を助けておいて、孫娘の千姫を嫁がせたり、度々江戸から京まで秀頼に会いに行ったりする必要がどうしてあろう。
 そればかりか、秀吉の七回忌には、世界中がびっくりするほど盛大な「皇国祭−」を京都でやって、自分は将軍職を退いて駿府へ隠居しているのだ。
 そして、それらの好意は、淀どのもまたよく知っているし、秀頼も充分に感謝している。
 つまり、両者の間に殊さら言い立てるほどの憎悪感情もなければ、家康が秀頼母子をいじめたという事実も介在してない。
 秀頼母子だけではない。大坂方の重臣たちにしても、誰一人として家康に個人的な反感や憎しみを抱いている者はないのだ…
 大野治長は、かつて淀どのとの間の素行を責められて追放はされていたのだが、それを真っ先に許して大坂城へ帰してくれたのは家康だったし、片桐且元にしても繊田有楽にしても、豊家や淀どのとの関係を考えて、わざわざ家康から秀頼に付されているようなものであった。したがって、両者の関係は個人的にも公的にも親藩以上の恩愛でつながれた、戦国時代には例のない密度を持った保護者と被保護者の間柄であった。
 それだけに古い侍女たちの間には、
「−大御所はの、実はご母公(淀どの)に惚れておわしたのじゃ」
「−そうじゃ。ご母公とて同じことでの、大御所が大坂の二の丸におわす頃には、お二人の仲はそれはそれは睦まじゅうおわしての……」
 いまだにそんな噂を囁き続ける者があるほど親しかったのだ。
 それが、ここ一両年の間に、どうしてこう険悪さを孕んで来たのか?
 どう考えても、原因は見当らない。とすればこれは新しく、大坂城に流れ込んで来た異分子たちの影響と解するよりほかにあるまい。そして、その異分子を呼び込んだのは、実は人間ではなくて、この巨大な城郭なのだと、伊達政宗ばかりか、織田有楽斎までが考えだしている近頃だった。
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■政宗は大坂の陣を好機にして日本の大改造を企てた

<本文から>
「次に伺いおきたきは、今度の戦軍の序列にござりまする」
「なるほど。それもすでに決定して、お父上の許しを得るよう、駿府へ差し出してあるのじゃが」
「されば、われら伊達勢は、申すまでもなく先鋒にござりましょうな?」
「いかにも。ご苦労ながら米沢の上杉中納言、秋田の佐竹右京大夫と共に、お身に先鋒を頼みたいと思うておる」
「それはかたじけのう存じまする。ところで、われらが婿、松平上総介忠輝は、この戦に同行これなきよう、かくべつのお取り計らい願わしゅう存じまする」
「なに、忠輝を……この戦に加わっては悪いと申すのか!?」
 秀忠はおどろいて訊き返した。まさに意表を衝かれたのだ。
「はい。上総どのにも先陣をとお願い申したい所ながら、あのお万を前面に出されては、必ず不都合が起りましょう」
「フーム。意外なことを申される。婿との同行は、迷惑と言われるか」
「恐れながら、ご推察のとおり…あのお方は勇猛に過ぎ、かつ上様のご命令を無視して進む恐れがござりまする」
「なるほど、それは確かに……」
「かと申して、上様と大御所さまお揃いのこの戦に、屈強なご舎弟が手を洪いて傍観もなりませぬ。よってこれは、江戸城のお留守居役仰せつけられたく、この儀、いかがなものでござりましょうや?」
 政宗は、生まじめに上申した。
 むろん、すでに、そうなる事を察しての申し出なのだからこれ以上の狸はない。
 仮りに冬の陣のうちに、フィリップ三世の大海軍がやって来る……というようなことになっては、忠輝は邪魔になるのだ。その忠輝が江戸城に後詰めしてあれば、事と次第によっては、
「−カルサ殿下もその事はようご承知。すでに今日のため、密かに江戸城は穀下が占領いたしてござる」
 フィリップ三世に対しても、秀頼に対しても、平然とそんなホラも吹けようというものだ。
 しかも決してそれは忠輝のためにも、徳川家のためにも、不為ではない。
 これによって将軍職は秀忠から忠輝に譲られる。その代り、秀頼母子は大坂城を出されるだけで無事となり、隠居した秀忠は遠からず老死するであろう家康のあとを襲って、駿殿へ引っ込んで大御所となってゆく。政宗は新将軍忠輝の背後にあって、エスパニヤ、ポルトガル系の通商路をそのまま拡げ、駿府にはイギリス、オランダと結ばせて、世界の海を双方から自由にしようとしたのだから、壮大きわまる計画だった。
(−世の常のケチなお家騒動ではないぞ……)
 どうせ避けられぬ今度の戦を好機にして、日本の大改造を企てる。これでは神仏も反対のしようがないであろうというのが、政宗の放胆きわまる根性だった。
(−どうせ計画するならば、家康をぐんと上廻るほどのものでなければ意味はない…)
 といって、それが失敗する場合のことを忘れて妄動するほど、お人好しの政宗でもなかった。
 支倉六右衛門とフィリップ三世の交渉が、思いどおりに行かない場合もなくはない。いや、あってもそれが間に合わぬという不運も考慮に入れねばならない。
 洋船は立派にできたが、それが難破しないという保証もなければ、六右衝門が病気に罹らぬものでもない。
 とにかく冬の陣には、間に合わぬという公算が多いのだから、そんな戦に、わざわざ忠輝を連れてゆく必要はみじんもなかった。
 そこで政宗の方から、特に申し出た形にして冬の陣には同伴しない。ということは、第二段の戦に、
「−今度びは、政宗が、充分監督いたしますれば、是非とも…」
 そう言って連れてゆく口実にもなることだった。
 その時には、エスパニア軍との折衝、秀頼との交渉などに、充分忠輝を蹄使できる……
 秀忠はそうした深慮は知るはずもなく、政宗の言葉を聞くと共に感嘆して膝を叩いた。
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■東軍と西軍では戦略戦術に格段の開きがあった

<本文から>
 東軍で同じような乱暴を働いて、家康に叱られたのは藤堂高虎の部下であったが、常識が常線として通じない世界が戦場なのだから、捨ておけば、これは必ず底なしの暴行、底なしの虐殺に堕してゆく。
大野治長の弟の治房なども、後に、勢いに任せて大切な武器の生産地であり物資の集散地でもある堺の市街まで焼き払って、そのため没落を早めたのは有名な話だ。
 とにかく故に勝とうとあせって手段を選ばず、そのため、自分の首を自分で締めることになる.
 戦の知恵と智識とに乏しいからだ。
 その意味から言って、東軍と西軍では戦略戦術に格段の開きがあった。
 第一、無経験者は命令の尊厳という一番大切なことに気がつかない。
 西軍でもしも戦の名手と言ったら、それは真田幸村であったろう。その幸村を、総指揮者格の大野治長は、まずまっ先に腐らせてしまった。
 幸村は、これが最後は籠城戦にせよ、緒戦では関東勢の大半がまだ京都に到着する前に、山崎へ兵を繰り出して、東西の連絡路を断って戦おうと提案した。
 ところが、治長はこれをしりぞけて、易々と関東勢を城の周辺に通してしまった。
そうなると、必要以上の小細工を弄して敵を混乱させようと焦って来る。
 −こんな話があった。
 ある夜、一人の男が、当然豊家について戦うものと思っていた浅野長泉(和歌山城主)の兵営に潜入しょうとした。そこで捕えて訊問すると、男は思いがけないことを言った。
 「浅野長晟や藤堂高虎は、太閤の旧恩を忘れていない。両人とも豊臣方に内通していても不思議はあるまい。その証拠に、こうして手紙のやりとりをしている」
 長晟にあてた秀頼からの密書を出してみせたので、捕えた者はびっくりして家康の前に引き立てた。
 家康は事情を聞くと笑いながら、その密書を受け取って読んでみた。
 「−予は汝らの計略によって、徳川父子を誘い込み、こうした戦を起させたことを喜ぶ。なおこの上とも同志を誘い合せて反撃せよ。事が成功した時には、約束のごとく恩賞として東国を与えるであろう」
 それも入念に二通あり、いずれも二十一日付で書かれていた。
 戦に馴れない者であったら、それこそ一大事と騒ぎ立てたであろう。この手紙によれば、浅野長晟は、京から奈良に赴き、奈良から河内へ入って乗る家康の背後を突きかねないことになる。
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■秀頼は死を怖れない、出世の願望も誰を愛したいという欲望もない


<本文から>
 伊達政宗が家康の前に呼び出されたのは十二月の二十五日であった。
 砲撃のあった十六日から九日目にあたり、すでに講和は、政宗も満足できる線で確定し、まことにスムーズに進行していた。
 秀頼が最後まで不承知で、はげしくこれに反対したというのは、弱味を見せまいとする大野治長の作りごとで、秀頼の性格には、政宗もびっくりするほど異常なものがあった。
 何よりも秀頼は死を怖れない。出世したいという人間並みの願望もなければ、誰を愛したいという欲望もない。この時にはすでに側室の伊勢の局と呼ばれたおよねに国松君という子が生れ、これが可愛い盛りに育っているのだが、その国松にさえかくべつの関心は示さなかった。
 これは、どのような手段をめぐらしても、歩一歩と地位の上昇をねらい、はげしい意欲で人心を掴み、断じて君臨しなければ納まらなかった豊太閤の性格とは、雲泥の差であった。
 生れた時から、あらゆる幸福が約束されていた。したがって幸福不感症という空前絶後の大超人ができてしまったのだ。彼が現在関心を持っているのは、いわゆる世人の「不幸−」と呼ぷ、切羽詰まった人間の極限状態らしい。
(−果してそうなったら、自分は何をするであろうか?)
 この場合の興味の中心は「−自分」の中の「−彼」であった。
 母の淀君には、自分を客観視してゆく「−彼」は全く存在しない。一にも自分、二にも自分で、自分の意のままに生きてこそ人生で、他人のことなど入り込む余地は全くなかった。
 それだけに、ここ当分秀頼は、母と激突することはなかろう。傍目には母の意のままになってゆく超人に違いない…と、政宗は思った。
 むろんこうした集団ゆえ、講和もてきぱきとした家康の介添えがなければ進行しない。
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■政宗の新教国と旧教国を巻き込んだ大計画た

<本文から>
 この花井主水正を通じて政宗は、忠輝の気性に任せた暴走を牽制させておこうとした。
政宗にとっては、自分の生涯の運だめしにもあたる支倉六右衝門の欧州派遣であり、千番に一番のかね合いともいえる、それこそ天下の大改造なのだ。
 家康にはイギリス、オランダの新教国を牛耳らせ、自分は、エスパニヤ、ポルトガルの旧教国を押えておく。
 そして、この両者の均衡の上に立って豊家を壊滅から救いあげ、世界と日本のすべての手綱を握ったところで、将軍交替を断行させて、いずれの面にも顔のよい新将軍、忠輝を三代将軍に据えようというのだから、決してやましい点はない。
 つまり犠牲者の一人も出ない天下皆繁昌の大革命政策だ。紅毛も南蛮も、家康も秀頼も、太陽に向ってすっくりと伸びてゆく。スミレや、タンポポのように、みな二コニコと空に向って咲きかける。秀忠は幸福な大御所になるであろうし、秀忠の件どもは、忠輝の養子にして四代を継がせてやっても一向にかまわない。
(−こんな計画の立てられる者は天上天下を通じて、お陽さまと政宗のほかにはあるまい……)
 どうやら、花井主水正のもとを訪れた、例の大口国のパクリの宗月院は、政宗の肚は見抜いているので、ホラの材料には事欠かず、すっかり主水正を喜ばしていったらしい。
 場所は尾張守山の忠輝の旅舘であった。
 花井主水正はすっかり上機嫌で、旅憎姿の宗月院を送り出したが、その主人の忠輝の方は、ひどく不機嫌で、ブリブリしながら、一行に出発を命じようとしているところであった。
 何よりも忠輝が腹を立てているのは、彼が前夜宿泊しょうと思っていた今金屋坊も大永寺も、将軍秀忠勢に先を越されて泊れなくなっていたことだ。
 各藩の軍勢が陸続として西下している時なので、途中の混雑は覚悟していた。
 しかし、果して将軍が泊るかどうかわからぬうちに、二カ所とも押えてしまい、そのいずれへも、将軍直弟の忠輝の宿泊を断るというのは、腹に据えかねる無礼であった。
 両寺の宿舎を押えたのは旗本の長坂信時であった。信時は徳川家の名物男、長坂血鑓九郎の舎弟である。むろん、一方所は譲るようにと松平家からも安西右馬允正重という三百石取りの目付役を掛けあいにやったのだが、埒はあかなかった。
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