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          伊達政宗 5

■大坂の陣では伊達政宗が危機だった

<本文から>
 そして、あたふたと阿波が去ってゆくと、文机を引き寄せるようにして、じつと虚空を睨みだし、侍女が燭台を運んで来ても、小姓が手焙りに炭をつぎに来ても見返ろうとはしなかった。
(−家康が、まだ自分を疑っている……)
 いや、自分の方が、まだ心から家康の天下を認めていないと、はっきり宗矩は指摘した。言われてみると、それはそのとおりに違いない。
(−家康の方が先に死ぬ……)
 それは、いつも政宗の心の底に大きく胡座をかいている。不逞な戦国人の名残りであった。
 家康が亡くなった時が一つの危機! その危機は、しかし外にはない。将軍秀忠をめぐる肉親と側近の間にある。
 「−お家騒動」というと古めかしいが、この古めかしい形をとって天下は一度崩れかかるに違いない。
 いや、問題はそこからさらに一歩前進した……と、柳生宗矩は薄気味わるい見方をしている。
 家康は、秀頼を大坂城から他へ移すため、ついに兵を動かす覚悟を決めた。となれば、今度は政宗は、関ケ原の時とは変って先陣を命ぜられる。
 先陣を命じておいて、政宗の出方を見る。となると、政宗の立場は、関ケ原のおりの福島正則の運命よりもはるかに危いものになる。
 正則の城は、当時、決戦場に近い清洲にあったが、政宗は仙台からわざわざ兵を引きつれ、遠く領地を離れなければならなくなる。
 そうした不利な立場で、もしも「−政宗謀叛」などと言い立てられたらどうなろうか……
 大坂攻めのまことの敵が、秀頼ではなくて伊達政宗であった……いや、政宗は、どこまで行っても家康には心服はしない男…と見抜いてゆけば、あの老獪な家康のことだ。すまして兵を出させておいて、大坂近くでおっとり囲んで討つぐらいのことは考えるに違いない。
 その危険があるのを知っているかと、柳生宗矩はわざわざ自分に忠告している。
(−そうか。そう思われては一大事ゆえ、家康が江戸へ出て来たら、政宗の方から進んで誠意を披歴して、諒解を得ておくべきだという意見だったぞ)
 しかし、この事は、政宗にとって決して簡単なことではなかった。
「−家康も人間ならば政宗も人間!」
 今日まで一定の距離をおいて対等線上にあった信念の一つを捨て去り、向後一切家康の思案のままに臣従してゆかねばならぬことになる。
 政宗は虚空を睨んで、何度かはげしく舌打ちした。
(−柳生宗矩め! いったい、わしに親切なのか? それとも脅かしにやって来たのか……?)
 十中八、九までは、天下に騒動を起すまいとする柳生の親切に出ていることとわかっていながら、忌々しさがこみあげる。
(−先陣を命じられると、拒む理由は全くない。しかも出征してゆくと、主力と本国の間を江戸に断たれて、伊達勢の死命は完全に家康に制される)
 そういえば、第一の誤算は、政宗の側にあったようだ。政宗は、七十歳を超えてソロバンばかり睨んでいる家康に、自身で大坂攻めの先頭に立つ気力などはもう残っていないものと思い込んでいた。
 ところが、家康め、どこまでも骨身を惜しまぬ戦国人で、見事に政宗の予想を蹴って起つ気になった。
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■家康が政宗に慈悲の徳が足らぬことを指摘

<本文から>
 「そうであろう。お身自身が、ある時期には忠輝であったからの。才能も、実行力も衆にすぐれていた。天才とでも言おうかの……そのためお身は、父御を畠山に殺させる破日になった」
政宗はギョッとなって、思わずいずまいを正し、呼吸をつめた。
「舎弟を斬らねばならなくなったのも、母御が最上家へ遁げだしたのも、何度も一揆で人を斬らねばならなくなったのも、つまりは、お身という若者ができすぎていたせいじゃ」
「………」
「わかるであろう。義経が兄頼朝にうとんじられて悲劇の人になったのも、織田どのが、母や弟ばかりか、家来まで故にまわして、若死しなければならなかったのも、みなそのすぐれた才能と実力のためじゃ。つまり才能も実力も、そのまま人間の仕合せや安泰を保証はせぬということじゃ。何というても若者には足りないものが一つある。その一つを見落すと、結果は不幸な悲劇以外になくなるものじゃ」
 「大御所さま! そ、その足りない一つ……とは、何でござりましょう!?いや、わが身のために…ゼヒとも!これは、伺いおきとう存じまする」
改宗は、はげしく問いかけて赤くなった。一度に自分が若返りすぎた気がして羞ずかしかったのだ。
家康はこれも幾分昂ぶって来たようであった。大きな皺にかこまれた豊かな眼常に血の色がうごいている。
「これが人生幸福の極意での。なかなか、言葉ではわからぬことよ」
「それは殺生な! 才能も実力も不幸に通ずる、知恵も才覚も破滅のタネ、とあっては、若者どもは生きる勇気を失いましょう」
 家康は、それには直接答えなかった。
「慈悲の徳……それが足りぬ。知恵も才覚もみな我執でのう。周囲の者を踏みつぶしても我意を通そうと馬に鞭打つ。他人を蹄にかけすぎる」
「フーム」
「一寸の虫にも五分の魂……というよりも、生きとし生けるものはみな神仏の生み給うた大切ないのちでのう。わが身自身もその枝葉なのじゃよ。その枝葉を、わが身で伐り払いすぎるゆえ、神仏はお怒りなさる。神仏を怒らせてはわが身もふくめて枯れる道理じゃ。いや、五分の魂の怨念が積もり積もって行く手をさえぎる。これでは仕合せになりようがあるまいが」
 そこまで言って、家康はふと想い出したように、
「関ケ原のおりにの、われらは清洲の城で、実は中風を発したのじゃ」
「な、なんと言われまする。清洲の城といえば、岐阜から赤坂まで出る前々日に!?」
「そうじゃ。忘れもせぬ。あれは九月十一日の夜食のおりであった。藤堂高虎と会い、長島城にある福島の伜正頼に、しっかりせよと手紙を持たせてやっての、翌早朝、わが身も岐阜へ向うつもりで、寝酒を喰べた。高虎と二人での。すると左手に持っていた酒杯がコトリと手から畳へ落ちたわ……」
「なるほど」
「何気なくそれを拾おうとしてハッとなった。手が動かぬ。肘のあたりがしびれている。これは高虎に見せてはならぬと思い、風邪のようじゃ。追ってよいと、言おうとすると、今度は舌が巧くまわらぬのじゃ」
「そ、それで、何となされましたけ‥」
「動く右手で、高虎を通らせた。覚悟をしたの。ここまでやって来て、体の動かぬ病いを発した……この家康のすることは神仏の御意に召さぬということらしいと。そこで用意の薬を囁んでの、床に入って考えた。死に方じゃ。神仏に見限られたとなったら、死に方だけは御意に添うよう、とっくりとわが身で思案をせねばならぬ」
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■家康はイゲレス、オランダの紅毛派と手を握った

<本文から>
 慶長十八年の家康は、正月から九月中旬まで駿府城にあり、ここでイゲレス王ゼームス一世の使節、ジョン・セーリスを引見し、国書を受け取って通商を許可すると、十七日には駿府城を発って江戸に向った。
 この九月十七日の駿府出発が、実は七十二歳の家康の、対外政策の希望的な見透しと方針を明らかにする重大な意味を持っていた。
 家康がここで、南蛮派の後始末は伊達政宗に一任して、新興国のイゲレス、オランダの紅毛派と手を握ったということは、彼の生涯では最も大きな二つの「決断−」の一つであった。
 その最初は、言うまでもなく彼の十九歳のおり、義元を討たれた今川家を捨てて、繊田信長と提携したことである。
 そして、その決断は誤っていなかった。
 この決断のおりにも、彼は考えぬき、悩みぬいた。今川のもとに残るべきか? それとも信長と提携すべきか? それはそのまま日本の統一か香かの分岐点に見えたからだ。
 それと同じ苦悩に、七十二歳の家康は再び直面させられた。
 世界は日本だけではなかった…いや、南蛮国だけではなくて紅毛国もあったということは、全く新しい海外事情として日本に打ち寄せた大きな波浪のうねりであった…
「−南蛮国家と結ぶべきか? 紅毛国家と結ぶべきか?」
 この二者択一の問題に、今度は向う側から態度の決定を迫られる結果になった。
「−イゲレス、オランダに接近する徳川政権は打倒して、豊臣政権を再建させよつ!」
 これは南蛮国家というよりも、旧教信者の意見による攻勢ながら、そうした動向がはっきりして来た以上、決断せねば納まらない事であった。
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