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          伊達政宗 4

■人には先天的な統領運というのがある

<本文から>
  人それぞれの持って生れる先天的な、運命的な、根性の中に、統領運というのがある。
 これだけは後天的なものではないらしい。どこでどう培われてくるのか? 産れ落ちる時にはすでにこれを持つ者と、持たぎる者との差がついてしまっている。
 これを持つ者は、幼児のおりからいずれの群の中におかれても、その中心にのし上がる。
 概して自我が強く、支配欲も、生命力も旺盛で、餓鬼大将的な陽性と、楽天性と説得力を持っている。
 ほう
 抛っておけば手のつけられない独裁者になるのもこの種の人間なのだが、古人はこれを「双葉より芳し」などと美化している。
 この統領運にも、もちろん上品下品の差があり、さらにそれに後天的な陶冶が加わって、中隊長どまりのものもあれば、立派に軍司令官の器にもなってゆく。
 問題は、この統領運を持って生れていないものが、他人を統べなければならない位置に立たされた時の悲劇である。そうした例は今の社会にも無数にあるが、私は前大戦の戦場で、いやというほどこれを見せつけられてきた。
 それを持って生れていない隊長が、どのように気負って号令してみても、兵隊たちは思いのままに動かず、やがてどこかで全滅の悲運に遭う。そうした人々がトコロテン人事で師団長になっていたりすると、その悲劇は雪達磨のようにふくれあがる。
 これは戦場だけのことではない。学校でも事業場でも、会社でも自治体でも同じことで、ここらあたりに人間の持つ一つの神秘性が顔を出してくる。
 伊達政宗が上品上質の統領運に恵まれた人物であることは、言うまでもない。
 にもかかわらず、なお彼が、今日まで確実に掴み得なかったのが成実の心であった。
 成実の行方は、石川昭光も、留守政景も片倉景綱も手わけして探していた。彼が伊達の陣営にないということは、霜の野営に陣幕があるかないかほどの大きな影響を持っていたからだ。
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■この世に出て来た黄金は形は変えても永遠に変質しない

<本文から>
 ある時、武田信玄が、忍びの名人に織田信長の機密を探るように頼んだ。するとその名人は、この仕事は一万両以下では請け負いかねるという。
 一万両では高すぎるゆえ、三千両に負けておけと交渉したが、名人は断じて値引きはできないと言い張った。そこで、信玄は、当時大蔵藤十郎であった長安の掘り出した甲州金一万両を渡して依頼した。
 すると、名人は織田勢の軍容から、家臣の数、信長の性格はむろんのこと、家中の派閥までくわしく報告して来たので、信玄はすぐさま、別の一隊を密行させてその名人を殺させた。
 「−まだあの一万両、使うてはおらぬはずじゃ。屋敷のどこかに隠してあろうゆえ、取り返して参れ」
 そこで暗殺隊が家探ししてみると、鼠のわたる梁上に、一つの小箱が見つかっただけで、黄金の行方はついにわからぬ。暗殺隊の頭は、その小箱を持って戻って信玄に届けた。
 信玄がこれを開いてみると、中に、信玄宛の黄金一万両の「受け取り証」と手紙が一通入っていた。
 「−その手紙には何と書いてあったぞ!?」
政宗が意気込んで問い返すと、
 「−さてさて未熟な武田の殿よ。黄金は黄金、人は人。人も黄金も使うて減るということはないものじゃ。それを値切ったり、殺したりするようではしょせん天下は取れぬぞよ。わしは金が欲しゅうて一万両寄こせと言ったのではない。黄金にすればそれだけくらいの価値はあろう仕事ゆえ、仕事の重さを訓えたのだ。わしを殺しても、わしはすぐまたどっかに生れて来る。黄金ならば安心さっしゃい。ちゃんと地下に返しておいた。黄金など誰が食べても焼いても、捨てても拾うても、掘っても、叩き割っても、必ず黄金で残ってゆく。残ってゆく仕事をさっしゃれ、と」
 この時には、さすがの政宗も、しばらく頭が痛くなった。
 黄金というものの本質と、生命の本質とを一緒に訓えられたような気がしたのだ。
 (――人を殺す……それは、木の葉を撮りおとすくらいのもので、人間の力で人間が殺し尽せるものではない……)
 それと同様に、いったん、この世に出て来た黄金は、形は変えても永遠に変質しないのだから、どこかに必ず黄金で残っている。
 これを掘り出したのは人間なのだから、ひとまずこれは地下に返すのが正しい。そう考えてどこかに埋めて殺されていったその忍者というのは、何と心憎い達人というべきではなかろうか……
 「−人間が尊いのではない。仕事が尊いのだ、と、いうのだな」
 「−はい。黄金などは芋の皮。仕事に価値があるのだという次第で」
 そう言われると、政宗は、身を乗り出して訊き返さずにいられなくなって来た。
 「−ところで、お許の新しい主人の忠輝どのだが、一番の取柄……つまり、一番よいところは何であろうかの?」
 すると、この答もまた、まことに立派なものであった。
「−はい。かくべつの取柄のないところが、いちばんの取柄かと存じます」
「−何の取柄もないところが?」
「−はい。腹が立てば怒ります。悲しい時には惰気ます。それゆえ、ご奉公の仕甲斐がござりまするわけで」
 そうした数々の禅問答に似た会話は、長安が泥酔して戻ったあとで、いよいよ妖しく政宗の心を捕えていった。
「小十郎、あれの気持がわかって来たぞ」
「と、仰せられますると?」
「あれはの、忠輝どのを、黄金使いの達人(経済人)に育てたいと思うておるのだ!」
「黄金使いの……?」
「そうじゃ! それで、わしに同意を求めて来たのだ。それに相違ない! いや、この政宗も新しい眼を開かれた。そうだ! さっそく、手土産を整えての、わし自身で、婿どのの屋敷へ答礼に参るといたそう。もはや正式に許婚は成立している間柄だ。わしが、婚礼の日取りの相談に参ってもいささかもおかしい事はあるまい」
 早口にそう命じたあとで、政宗は隻眼を輝かせて憑かれたように独りごちた。
「泰平の世がやって来る。富がふえる。富とは何ぞや? 米か? 黄金か? 米を稔らす力は大地にある。黄金もまた大地の下に……しかし、米は米、黄金は黄金だけのこと…」
 そこで、発止と白扇で膝を叩いてまた唸った。
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■政宗と家康の関係

<本文から>
  十一歳の秀頼と七歳の千姫の婚礼まで、あれほど急いだ家康である。当然、忠輝と五郎八姫の婚礼ももっと急いでよいはずであった。
 しかし、それが、慶長十一年の十二月まで延びた理由の中には、双方の父親の貪婪なまでに仕事に打ち込む野望と根性が大きく影響した結果であったといってよい。
 政宗の海外雄飛策は、いうまでもなく家康の外交政策と表裏一体をなす形ですすめられる。しかし、これが、ほんとうの意味の一体であったかどうかとなると、はなはだ疑わしい。
 性格的にいって、どちらも強烈な個性と自負心を持っている。簡単にいえば、家康の方では、どこまでも年少の政宗を見どころのある奴として使いこなしてゆくつもりであり、政宗の方でもまた、喰えないオヤジながら学ぶべきところはある。こんなオヤジの一人ぐらい使いこなせないでどうするものか、という不蓮不達しさは捨てきれない。
 おそらく、尊敬すべき何ほどかの進歩性がないと見たら、政宗は家康を、
 「−とうとう、もうろくしおったわい」
 さっさと無視してゆくであろうし、家康の方でも、
 「−やっぱり井の中の蛙であったか」
 さらりと捨ててかえりみまい。
 この一見冷淡な交わりが、実は、人間世界の進歩に通ずる最も好ましい競合ともいえるのだが…。その自信満々の政宗が、家康の第二の出発、すなわち泰平時代への歩み出しの規模を知って、武者震いをしだしたのだから、すでに動かぬものになっている五郎八姫の婚礼など、少しぐらいは延びるはずであった。 
とにかく、家康も上機嫌で、江戸の中屋敷を追加してくれたり、久喜(埼玉県)に政宗専用の鷹場をわけたりして、政宗との間を密接にしながら隠居準備にかかっている。
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