|
<本文から>
人それぞれの持って生れる先天的な、運命的な、根性の中に、統領運というのがある。
これだけは後天的なものではないらしい。どこでどう培われてくるのか? 産れ落ちる時にはすでにこれを持つ者と、持たぎる者との差がついてしまっている。
これを持つ者は、幼児のおりからいずれの群の中におかれても、その中心にのし上がる。
概して自我が強く、支配欲も、生命力も旺盛で、餓鬼大将的な陽性と、楽天性と説得力を持っている。
ほう
抛っておけば手のつけられない独裁者になるのもこの種の人間なのだが、古人はこれを「双葉より芳し」などと美化している。
この統領運にも、もちろん上品下品の差があり、さらにそれに後天的な陶冶が加わって、中隊長どまりのものもあれば、立派に軍司令官の器にもなってゆく。
問題は、この統領運を持って生れていないものが、他人を統べなければならない位置に立たされた時の悲劇である。そうした例は今の社会にも無数にあるが、私は前大戦の戦場で、いやというほどこれを見せつけられてきた。
それを持って生れていない隊長が、どのように気負って号令してみても、兵隊たちは思いのままに動かず、やがてどこかで全滅の悲運に遭う。そうした人々がトコロテン人事で師団長になっていたりすると、その悲劇は雪達磨のようにふくれあがる。
これは戦場だけのことではない。学校でも事業場でも、会社でも自治体でも同じことで、ここらあたりに人間の持つ一つの神秘性が顔を出してくる。
伊達政宗が上品上質の統領運に恵まれた人物であることは、言うまでもない。
にもかかわらず、なお彼が、今日まで確実に掴み得なかったのが成実の心であった。
成実の行方は、石川昭光も、留守政景も片倉景綱も手わけして探していた。彼が伊達の陣営にないということは、霜の野営に陣幕があるかないかほどの大きな影響を持っていたからだ。 |
|