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                  <本文から> 
                    小次郎はおずおずと、まず母に酒を注いだ。保春院はそれをぐっと一気に呑みほして、 
 「かくのとおり、さ、殿もご懸念なく」 
 「では、ありがたく頂戴を」 
 「時に、殿は、何ほどの軍勢を引きつれてご参陣なさりまする」 
 「されば百余騎……」 
と、言いかけて、これは軍事の機密であったと自戒した。 
 「大将分百余騎にて、それぞれに百人あまりを付するつもり……」 
 「それは大軍、関白殿下もお喜びであろう。この母も若いおりならば、馬廻りに加えて貰おうものを」 
 明るく笑って、山鳥のあつ物を出すように侍女に命じた。 
 「母の手料理、冷めぬうちに召し上がってたもれ。小次郎どのも相伴なされ」 
 小次郎は、言われるままに政宗の左下手の膳に坐った。武人の伴食で左下手に座するのは害心のない証拠にあたる。 
(はて、心を使うものだ…) 
 手料理のあつものを取り上げ、一口汁をすすり込んで、豆腐をつまんだ。そして、さらに山鳥の肉の一、二片を噛みしめて、ギョッとなった。 
 月見茸と呼ばれる毒茸の香と味が、噛みしめた歯から舌の間へ湊みわたった。 
 この月見茸は、形は推菅によく似ている。が、闇夜で見ると満月のようにギラギラ光る。おびただしい燐を含んでいるからだ。 
(しまった!) 
 咄嗟に政宗は立ち上がった。ロ中の何片かは、すでにのみ下してしまっている。よろめきながら縁に出て、残滓を吐くのと、つねに薬籠に所持していた撥睾丸をふくむのとが一緒であった。 
「兄上、いかがなされました」 
 弟の手が肩にかかった。とたんにキリキリ揉み込むような腹痛で、体は二つに折れていく。 
 しかも、かがみながら振り返った母の顔は硬直したような笑顔なのだ。 
(やはり、この母は、鬼であったか……) 
 とたんに、政宗は、自分の上におそいかかろうとしている小次郎の刀を奪って一太刀浴びせた. 
 「許せよ、小次郎!」 
 小次郎はウワッ! と叫んで、縁から庭へおちてゆく。 
 「母は…母は……斬れぬゆえ、こなたを斬るのだ。ゆるせよ、小次郎……」 
 小次郎の悲鳴を聞いて、白石駿河と大桑宗綱が駆けつけたが、その時には、政宗はすでに悶絶していた。 
 おそらく、戦場でも肌身はなさなかった撥毒丸がなかったら、そのまま生命をおとしていたに違いない。 
 こうして、小次郎竺丸はついに斬られ、間もなく気のついた政宗の指図によって、すべての罪は小次郎に押しつけられた。 
 「−母上は、何もご存知ないのだ…」 
                   こうした内紛と中寺のため、政宗の黒川城出発はさらに延びて、小田原からは櫛の歯を曳くような催促が続いた。 | 
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