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          伊達政宗 2

■母による毒殺未遂

<本文から>
  小次郎はおずおずと、まず母に酒を注いだ。保春院はそれをぐっと一気に呑みほして、
 「かくのとおり、さ、殿もご懸念なく」
 「では、ありがたく頂戴を」
 「時に、殿は、何ほどの軍勢を引きつれてご参陣なさりまする」
 「されば百余騎……」
と、言いかけて、これは軍事の機密であったと自戒した。
 「大将分百余騎にて、それぞれに百人あまりを付するつもり……」
 「それは大軍、関白殿下もお喜びであろう。この母も若いおりならば、馬廻りに加えて貰おうものを」
 明るく笑って、山鳥のあつ物を出すように侍女に命じた。
 「母の手料理、冷めぬうちに召し上がってたもれ。小次郎どのも相伴なされ」
 小次郎は、言われるままに政宗の左下手の膳に坐った。武人の伴食で左下手に座するのは害心のない証拠にあたる。
(はて、心を使うものだ…)
 手料理のあつものを取り上げ、一口汁をすすり込んで、豆腐をつまんだ。そして、さらに山鳥の肉の一、二片を噛みしめて、ギョッとなった。
 月見茸と呼ばれる毒茸の香と味が、噛みしめた歯から舌の間へ湊みわたった。
 この月見茸は、形は推菅によく似ている。が、闇夜で見ると満月のようにギラギラ光る。おびただしい燐を含んでいるからだ。
(しまった!)
 咄嗟に政宗は立ち上がった。ロ中の何片かは、すでにのみ下してしまっている。よろめきながら縁に出て、残滓を吐くのと、つねに薬籠に所持していた撥睾丸をふくむのとが一緒であった。
「兄上、いかがなされました」
 弟の手が肩にかかった。とたんにキリキリ揉み込むような腹痛で、体は二つに折れていく。
 しかも、かがみながら振り返った母の顔は硬直したような笑顔なのだ。
(やはり、この母は、鬼であったか……)
 とたんに、政宗は、自分の上におそいかかろうとしている小次郎の刀を奪って一太刀浴びせた.
 「許せよ、小次郎!」
 小次郎はウワッ! と叫んで、縁から庭へおちてゆく。
 「母は…母は……斬れぬゆえ、こなたを斬るのだ。ゆるせよ、小次郎……」
 小次郎の悲鳴を聞いて、白石駿河と大桑宗綱が駆けつけたが、その時には、政宗はすでに悶絶していた。
 おそらく、戦場でも肌身はなさなかった撥毒丸がなかったら、そのまま生命をおとしていたに違いない。
 こうして、小次郎竺丸はついに斬られ、間もなく気のついた政宗の指図によって、すべての罪は小次郎に押しつけられた。
 「−母上は、何もご存知ないのだ…」
 こうした内紛と中寺のため、政宗の黒川城出発はさらに延びて、小田原からは櫛の歯を曳くような催促が続いた。
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■政宗と秀吉の対面の異説

<本文から>
 今までの「政宗伝」では、こうして底倉に.おいて、七人の使者に申し開きをしたのが 六月七日。秀吉が改めて政宗を諸侯の前で引見したのが、同九日とされている。
 しかし、家康側の、内藤清成の手になる「天正日記−」では、これとはまるで異なった記事が書き残されている。
 政宗は、実は、九日の引見の前に、秘かに家康を訪れ、さらに秀吉にも会っているのだ…
 家康の本陣に政宗を伴っていったのは結城秀康で、秀康は、二度政宗を実父に会わせている。
その結果、三人の話がどうまとまったのか、今度は家康は、秀康と政宗伴って、秘かに秀吉のもとを訪れているのだ。
 したがって、巷間に流布されている政宗と秀吉の、石垣山における初対面は、対世間向けの、文字どおり宣伝用の大芝居だったことになる。
 決してあり得ないことではない。もともと、芝居がかった事の大好きな秀吉だ。大坂城での家康との対面のおりにも、この手を用いている。
 天下の諸侯の居並ぶ大坂城の大広間で、わざわざ家康に自分の陣羽織を乞わせ、
「−これから殿下に謀叛などいたすものがござれば、家康、この陣羽織を一着なして陣頭に立ち、殿下のお手など断じて煩わすものではござりませぬ」
 そう大見得を切らせて悦に入っているのだ。
 そんな秀吉ゆえ、九日の初対面に政宗の首根っこを杖で叩いて、
「−さても、その方は愛い奴だ。若い者だがよい時分に来たもの、今少し遅く着いていたら、ここがあぶなかったぞ」
 そう言って政宗を震えあがらせたことになっているが、これではあまりに秀吉好みに
筋ができすぎている。
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■政宗は秀吉の杖で首を叩く行為が許せなかった

<本文から>
  この会見で、秀吉は、政宗の眠がねに叶わなかったのだと言ってもよい。
 何よりも、政宗という虎を、本陣で会見せずに、この山まで引っぱり出して、諸侯の見ている前で、杖で首を叩くという軽率な行為が許せなかった。
 人には脅かされておびえるものと、かえって闘志を掻き立てられる者とある。
 予期以上に丁重に扱われていたら、まだ若い政宗なのだ。あるいは、ここで叛骨をおさめることになっていたかも知れない。
 それが逆になった。
(このような悪戯親爺でも、権力の座にあれば熊髭つけて、このように威張りくされるものなのか…)
 家康の鈍重さは重苦しすぎたし、秀吉は軽薄すぎる。前田利家や浅野長政は好人物で、こんなのを欺すのはわけはない…二十四歳の政宗が、そう思い込んだのでは、
 (やはり生れて来るのが遅かった……)
 少年時代の嘆きが蘇るのも当然だった。
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■秀吉の詮議における小さな穴による言い訳

<本文から>
 「御意にござりまする。それで一目瞭然。この政宗から、殿下や浅野どのに差し上げました書簡の花押は、鶺鴒の眠がことごとく開いております。ところが、須田の粋が蒲生どのに渡した方の鶺鴒はみな盲目、それでもおわかりなされませぬか」
「なんだと…ほう、これはいちいち鶺鴒の眼のところに針で小さな穴があいておる。なるほど、こっちの撒文にはそれがない」
「かかる不心得者が出まいものでもないと、これは乱世の大将の心がけ、政宗自筆のものには誰も気づかぬよう、みな、その眠があけてござりまする。筆蹟などは似せようとすれば似せ得るもの。しかし、この鶺鴒の眼の有無は、この政宗よりほかに家中の誰も知りませぬ」
「ウーム。治部、これを見よ。なるほど、こっち心は眠がないわ」
「そ、それは、しかし、前もって疑いのかかったおりのため…」
「黙らっしゃい。前もって、その用心をしてある…」
と言いかけて、秀吉はニタリと笑った。
 ここでまた彼は、彼らしい好みの自問自答をしだしたのだ。
(三成の言うとおり、これは臭い…)
 しかし、これでちゃんと一応の言いわけは立ってゆくのだ。万一露顕の場合を考えて、ずっと前から正式の書類の花押には針で穴をうがっていた…としても、これは、尋常の者にできる用心ではない。
 「なるほど」
秀吉は、もう毒眼の前へ二種の書類をかざしてみながら、
「こうしてみれば真偽はわかる。それを蒲生はその方に見せもせで、すぐさまわしの手もとへ訴え出た。つまり臆病者だというのだな」
「御意のとおり」
「そればかりか、木村父子を一人で救い出し、名生の城へ差し届けてやっても、まだ疑うて城を出ず、今度は人質を出せと申したか」
「政宗は、それも笑って容れました。叔父と従弟を質に出し、ようやく黒川城へ引き揚げさせた。それでも叛心ありと思し召しますか」
「その方にすれば、蒲生のやり口はひどく歯浮い。それで堂々と礫台を造らせて…」
「武人の心掛けを教えてやる気になったので」
「政宗!」
「はいッ」
「これで秀吉を、ことごとく瞞着できたとは思うなよ」
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■朝鮮出兵の先陣を免れるための奇抜な方策

<本文から>
「どうだ。千五百の軍勢をひきつれて来いというところへ、倍の人数で即刻上洛してゆくわけがわかるか?
「さあ、それは…」
「小十郎もわからぬそうな。ハハハ…」
政宗は蒙放に笑い出した。
「よいか、千五百、と言われて、言われたとおりの人数を下廻るほどの者を引きつれ、延着などいたしてみよ。さんざんに叱られた上で、先陣せよと言われるのが落ちであろうが」
「それは、そう、なりかねませぬなあ」
「ところが、三千で即刻上洛、われらに先陣を仰せつけ給えと、こっちから先に吹きかけたらどうなると思うぞ?」
「フーム」
「その三千も、奇想天外の武装で参らねば意味はない。どうせ、こっちは人喰い虎と見られているのだ。太閤が、あっと驚くほど人を喰った異様のいでたちで参るのだ」
「そうして参ると、どのような得がござりまするので」
「ハハハ… ここが急所よ。よく覚えておけよ。太閤が眼を見はるほど派手な軍装で駆けつけると、第一陣は免れる」
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