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          伊達政宗 1

■伊達政宗は信長、秀吉、家康で軌道が敷かれた時に誕生

<本文から>
  伊達政宗は、永禄十年(一五六七)八月三日、米沢城内において、城主伊達輝宗の第一子として生れた。この時父の輝宗は二十四歳。母は山形の城主最上義守の長女義姫で、二十歳の初産であった。
 この永禄十年はどんな年であったろう?
 日本の統一に最初の道をつけた織田信長はこの年すでに三十四歳で、当時の将軍足利義昭を擁して入京を遂げる直前に当り、二十六歳の徳川家康は、長子信康のために、信長の長女を磐ってやった年にあたる。後に政宗を苦しめた秀吉は三十二歳で、信長の部将として盛名を馳せだした頃だ。
 後年伊達政宗が、自分をして、もう二十年早く、この世に生を享けさせていたら、決して彼らの下風には立つまいものをと慨嘆させたのは、この年齢羞を指すものだ。乱世の英雄としては無理もない。
 永禄十年にはもはや信長、秀吉、家康の三人の手で、功業先取の軌道は日本に敷かれだしていたからだ。
 父の輝宗にしても、この三人よりは年が若い。したがって、輝宗の器量が政宗に劣らぬ抜群のものであったら、あるいは奥羽の歴史も大きく変っていたかも知れない。しかし父の輝宗は思慮はあったが、政宗ほどの胆略はなかった。それに、当時はまだ父の晴宗、祖父の穂宗が二人とも生きていて、祖父の穂宗は丸森城(伊具郡)に、父の時宗は杉ノ目城(福島市)にあって、頑固に相争っていたのだから、孫の輝宗は、家督は継がされていても実力の揮いようがなかったのだ。
 支障はむろんそれだけではない。北には羽州の探題としての最上氏があり、南には相馬、上杉などの強豪が控えている。会津には芦名氏があり、さらに、大内、田村、石川の諸蒙も、顔いろ次第で敵にもなれば味方にもなろうという、この奥羽の天地は、中央よりも一歩も二歩もおくれて、まだ戦国のまっただ中にあったと言ってよく、伊達輝宗が、山形城の最上義守の姫を迎えて妻としているのも、言うまでもなく、北からの脅威を減少させようという、生き残らんがための遠慮につながる政略結婚にほかならない。
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■政宗の師・虎哉宗乙

<本文から>
 人間、師となり弟子となる…それは何の奇もない行き会いのようでありながら、しかしそこには無限の生命の通路がある。伊達政宗の人生に、もしもこの虎哉宗乙の登場がなかったら、彼の生涯もなかったのではなかろうか? 虎哉は、決してこの地に骨を埋める気などあってやって来たのではない。東昌寺の康甫に乞われて、やむなく掛錫したのだが、それがついにここに居つくことになってしまった。政宗が、彼の魂に執拗にからみついて離れない。というよりも、虎哉のすべてを吸いとって育ってゆくのが、ハッキリとわかるからであった。
 もともと人間は天地自然の大生命につながる同根の生きものだ。それが縁あって正覚を得れば伸び、縁なくてよき師に会わねば枯れ蔓と化してゆく。吸い取られる方も吸い取る方も、源はこれ一つなのだ。
 元亀三年(一五七二)、四十三歳で資福寺にやって釆た虎哉は、慶長十六年(一六一一)八十二歳で他界するまで政宗につき添うこと実に、足掛け四十年の長きにわたった。
 六歳の政宗が、四十五歳まで、つねに良師の人生指導を受け得たということは、戦国時代はむろんのこと、いつの世にも珍しい幸運であったと言わなければなるまい。こうなると、虎哉が政宗なのか、政宗が虎哉なのかわからなくなってくる。事実、政宗の仏教知識も、漢学も、五山文学の教養も、みな虎哉からの直伝で、虎哉が武将だったら、政宗と同じような世渡りをしたに違いない。
 気性も性格もよく似ている。あえていえば虎三分に猫七分が虎哉であって、虎四分に猫六分が政宗といったくらいの差であろうか。
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■政宗は百姓を大事にした

<本文から>
 「これはしたり!戦はつねに勢いで決するもの。今こそ山越えに相馬領へ雪崩れ込み、盛胤にひと泡吹かせる絶好のおり。それがお許にはわからぬのか」
「藤次郎はそうは思いませぬ。ご覧なされませ、いま百姓たちは田植えを終り、撫でるように除草して、今年こそはと祈りをかけて稲を育てているところ。戦には勝ちましたゆえ、百姓どもには負けてやりましょう」
 読者諸氏はこの天正十年の六月三日という日が、日本の歴史の上でどんな日にあたるか想い出していてくれるであろうか?
 すなわちこの前日−すでに天下を掌握したかにみえた織田信長が、明智光秀のため本能寺に襲われて自刃し、その嫡子信忠もまた二条城に討たれて、京の天地は上を下への大混乱に陥っている時なのだ。
 むろん藤次郎政宗が、そうした事を予想しているはずはない。
しかし、政宗は、今年はもはや、これ以上戦をして民を苦しめてはならないと主張するのだ。
 「しばらくこの城で兵を休め、奪い返した城の固めを堅くして、七月中旬までに米沢へ
引き揚げましょう。その方が戦果を生かすことになります」
 これもまた輝宗にはない別の角度からの計算であった。
 ここで勢いに任せて相馬領へ山越えに攻め込むと、糧食の補給はこのあたり一帯からすることになり、しかも一挙に相馬氏を覆滅できない場合は、秋の山路を引っ返さなければならなくなる。もしもその時敵に追撃されたらどうなろうか?
 敵は必ず、収穫期の黄金の穂波を焼き払わせるに違いない。いや、それはこっちで焼かせぬまでも、一万五千の軍兵に踏み荒らされ、百姓たちの収穫の喜びは一度に呪いに変ってゆく。
 「仁政とは、このあたりの心遣いを申すのではありますまいかと存じます。勝っておごらず…この地の今年の収穫は、久しぶりにそっくり百姓たちに取らせてやる。それが天意に叶うことかと……」
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■回りが政宗のビジョンに酔わされて代弁者になってしまう

<本文から>
  現今の言葉で言えば、催眠術にかかったというのだろうか? 馬を飛ばして針道へ着くまでに、彼もまたすっかり政宗のビジョンに酔わされて、政宗の代弁者になってしまっていたのだ。
 「−勘助、よう考えてみなされ。ここで大内定綱に義理を立てる…などと申せば、それですべては終りなのだ。一も二もなく踏み潰される。そうじゃ、杉ノ目城は、いま軍兵でハチ切れそうなのだ。よいか、伊達のご隠居が、こうなる事を知っているゆえ、何度も小浜へ使者を出して救おうとなされたのに、大内定綱は、この厚い情けを裏切ったのだ。いわば天下の大バカ者よ。義理知らずよ。その義理知らずに義理を立てて、踏み潰されるよりも、ここでは万海上人の生れ替りに賭けようではないか。巧くゆけば国持ち大名にもなれるのじゃ」
 こうした、催眠術師のような魅力は、織田信長にもあったし、秀吉にも家康にもあっ
た。
一つのビジョンの中ヘコロリと相手を包みこむ。これが英雄の条件の一つ…などと言わなくても、当今の社長や代議士などの中にも、こうした味の人間はよくあるものだ。
 とにかく政宗のこの大ポラは、頑固で律義で単純な東北の人々に壮大な虹の橋を架して天下のあることを示したものと言ってよい。
 この性癖はむろんこの時だけのものではない。
 日本中に伊達衆の名をとどろかせた朝鮮出兵のおりの、眼を奪うような華麗な軍装もこれであったし、仙台の青葉城や青龍山瑞巌寺に設けられた「帝座の間−」などもみなこれに通じてゆく。
 今にも天子が仙台の地へやって来そうな印象を抱かせて、その威光の前に胡坐を掻いてみせるのだ。
 憑かれたように説く青木弘房に圧倒されて、内藤勘助も、降参するよりほかに、生きる道はないと思い出した。いや、ただ降参するだけではない。わが生涯は政宗を離れては存在しないように思い込ませてゆくのだから、これは一種の信仰的な魔力と言ってよい。
 こうして福島に入城した政宗の前へ、青木弘房が、平蜘蛛のようになって忠誠を誓ったのは、小手森の城で、大内定網と畠山義継が月見の宴を張った日よりもちょうど一カ月前の七月十四日のことであった。
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