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          海音寺潮五郎-武将列伝・戦国揺籃篇

■所領が欲しい武士らと倣慢な公家ら

<本文から>
 だから、後醍醐のために戦った武士らは、皆恩賞として所領がほしいのだ。太平記にもはっきりそう書いてある。
「元弘大乱の初め、天下の士こぞって官軍に属せしこと、さらに他なし。唯一戦の利を以て勲功の賞にあづからんと思へる故なり。されば世静畿の後、忠を立て賞を望む輩、いく千万といふ数を知らず」
 ところが、武士共にあたうべき土地がなかったのだ。はじめからなかったわけではない。はじめはずいぶんあったのだ。北条氏という大族がほろんだのだ。その領地、北条氏に一味した家々の領地、合すればなかなかのものであったのだが、それを天皇の領地、皇族の領地、公家の領地とし、なおのこったものは、白拍子や蹴鞠の上手なもの、遊芸の巧みなもの、衛府の小役人、官女、僧侶らにやってしまったので、「今は六十六ケ国のうちには、錐を立つるの地も軍勢に行はるべき関所はなかりけり」という状態になってしまったのだ。
 天皇も、またそれを輔佐すべき公卿らも、一世紀半も実際政治から離れていたのが、いきなり政権を握ったのだから、この不手際は当然のことと言うべきであろうが、もう一つ見のがしてはならないことは、当時の天皇をこめての公家社会に爛漫していた倣慢な自尊意識だ。彼等は公家社会の者だけが世の中心で、他は全部これに奉仕さえしていればよいと信じきっていた。
 北畠親房は、当時の一流学者で、公卿の中では第一の人物だが、神皇正統記にこう書いている。
 「関東の高時がほろんで、天皇の御運がひらけたのは、人力ではない(武士共の力ではない、神意であるの意)。一体、武士などというやからは、いわば数代の朝敵である。お味方申したおかげでその家を亡ぼさないだけでもあまりある皇恩と思うべきである。恩賞に望みを抱くなら、これから一層息功をぬきんでてからであるべきで、神意によってなり立ち得た中興の業を、自らの功によると思うなど、不届きである」
 親房ほどの人がずいぶん乱暴なことを書いたものとあきれるが、これが当時の公家社会に共通した気持だったのである。
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■尊氏は育ちの良さから来る美質

<本文から>
大政治家、時代の現実を十分にわきまえていて、それに乗って幕府をひらいたとほめる人が多い。しかし、ぼくはそれほどの人物とは思わない。尊氏が戦前史学の言うような大悪人でなかったことは事実だ。大家に生まれ、人に大事にされて育った人らしい美質は十分にある人だ。
 彼は情を知る武士であった。たとえば正成が湊川に死んで、その昔は京に持って来られ、六条河原に奏されたが、尊氏はその首を取りよせて、
 「公私ともに久しく親しくしていたのだ。まことに不便である。妻子共、空しき貌なりとも、さこそ見たく思うであろう」
 と言って、鄭重に正成の家に送ってやったという。
 人の恩義にも感じ易い心をもっていた。彼が謀叛にふみ切るまで、またふみ切ってからも、後醍醐の殊遇を思って躊躇逸巡したことは、ずっと述べて来た。彼は後醍醐がなくなったと聞いて、悲嘆一方でなかった。天竜寺造営記録によると、哀悼恐怖して、七日七夜の仏事を厳重に営み、夢窓国師のすすめによって天皇の御冥福を祈るために天竜寺を建立したとあり、その後文和三年に一切経を書き写させた時にも、その願文中に、一切の怨みをこれによって晴らしていただきたいと書いている。これらのことは、当時の人に通有の怨霊恐怖の感情からでもあるが、後味醐の恩を忘れなかった証拠になると見てもよかろう。
 彼はいかにも大様で、ものおしみの心のない人であった。何かの祝日や儀式の日などには、大小名からの献上物が山のようにあったが、それを手当り次第に人にやってしまうので、夕方になると一物ものこっていなかったという。これも彼の育ちのよさから来る美質で、人好きのする性質であるには違いないが、彼はこの性質をセーヴすることを知らなかった。
 足利幕府の時代は終始一貫して、諸大名が大きくなりすぎ、幕府にこれをおさえる力が足りず、すべての幕府の中で最も微力で、「尾大掃わず」と評せられるのであるが、そのもとはといえば、彼が本性のおもむくままに、おしげもなく領地を諸大名にあたえたからだ。南朝という大敵があるので、それによって諸大名の心を引きとめなければ厚返りを打たれる心配があったからでもあろうが、それにしても加減というものがあろう。彼がもし讃美論者の言うような大政治家であるならば、制御出来ないほどの大きな大名をいくつもつくるはずはないのである。
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■楠正儀の出所進退が不評判であるが同情する

<本文から>
 このように、北朝所属の武将としては、正儀の生活はきわめて不愉快なものであったと思われるのだが、北朝や足利家の彼にたいする待遇も冷たかった。彼は南朝で左兵衛督の官にあったのに、北朝ではその官をうばい、数年経ってやっと中務大輔を授けたのだ。中務大輔は兵衛督より一格下だ。数年勤任して前官より一格下に任ぜられるのでは、正儀がおもしろかろうはずはない。
 こういうことから、古巣恋しい気持でいる時、南朝では対北朝強硬派の中心であられた長慶天皇がすでに退位されて、後亀山天皇の世となっていたので、また南朝に帰順した。
 この長慶天皇と後亀山天皇との間の位譲りについては、色々なごたごたが推察され、おだやかな譲位ではなかったようだとも推察されている。貧すれば鈍するで、多年逆境にある南朝方には、いろいろと内証がある。ひとりこのことだけではないのである。
 正儀は南朝に帰順し、左兵衛督に復し、また北軍と戦中たりなどして、参議までなったが、元中七、八年の頃に死んだ。再び帰順してから八、九年後である。
 以上のように、正儀の出所進退が、父兄の清白堂々としているのにくらべて、陰翳の多すぎるところが、当時でも、また後世からも不評判なのであるが、ぼくは正儀にたいして同情的だ。
 南北朝の対立は、正成の時代、正行の時代は、倫理的に大いに意義があった。世を拳げて混濁しきっている時代に、大義名分のイデオロギーをかかげ、あくまでも大義を守りぬき、それに殉じて壮烈な死を遂げることは、道義の貴重さを天下後世に知らしめる上に大いに意義もあれば価値もある。しかし、正儀の時代になっては、南北の対立から生ずる害悪があまりにも大きくなりすぎている。南北が対立しているために、はてしない戦乱が続き、民は塗炭の苦しみにあえいでいる。武士らが一時の怒りや不平や私利私欲のために、あるいは南朝に降り、北朝に帰服し、それをまた両方とも一時の利のためにきわめて容易に受けいれている。大義名分はすでに根本から乱れてきたのである。大義名分の根本であるべき南朝の皇室内にもしきりにみにくい内証がおこって、てんやわんやのさわぎだ。
「南北朝の対立は、今やなんの意義もない。対立のために害悪ばかりが生じているではないか」
 と、正儀は考えたに違いないと思う。彼は頭のよい、思慮周密な人物であったようだから、ぼくのこの見当は違うまいと思うのだ。ただ、南朝方の天皇をはじめ公卿さん達の意向や、彼の一門の者らの武士的意気地が、彼のこの考えと摩擦衝突して、彼を単なる裏切者にしてしまったとぼくは思うのだ。南北朝はやがて合一したのだが、それは彼が死んで一、二年後の元中九年(北朝の明徳三年)の閏十月であった。どこまでも不運に出来ている。ぼくは彼の志をあわれと思い、またその不運を悲しまずにおられないのである。
 彼はこの時代の武将にめずらしく、なつかしい風格のあった人のようである。
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■新九郎が平性を受けた理由

<本文から> 源平更迭の思想という以上、博士は新九郎に天下取りの野心があったと見ておられるわけだが、はたして新九邸に天下取りの野心があったろうか?この願文は信用できるものであろうか?後世から見てこそ、時代は戦国時代に突入していることがはっきりしているが、この時代はいくども言う通りトバロだ。その時代に生きている者に、あれほど乱離の世になることが予見されたろうとは思えない。信長や家康が天下取りたらんとして平氏や源氏を名のったことは間違いないとしても、新九郎においてはせいぜい関東で有力な大名となりたい、それには北条姓の方が便利であるくらいのことであったのではなかろうか。彼が覇気横溢の野心家であったことは疑う余地はないが、一介の旅浪人から成上った小城主が天下に望みをかけるほどの時代思潮には、まだなっていない。同じ戦国時代といっても、それはもっと先きのことだ。斎藤道三は新九郎より七十年も後の人で、しかも都近い美濃で、一介の旅人から美濃一国の主となった人でありながら、天下には望みがなかった。豊臣秀吉が土民から成上って天下を取ったというところから、百数十年の長きにわたる戦国時代を初期も後期も同じに見てはなるまい。しかも、新九郎は六十に近い老齢だ。天下とりの野心は、時代的にも年齢的にも平仄が合わないと思うが、どんなものだろう。
 とにかくも、新九郎は北条氏をつぎ、興国寺城にあわせて韮山城の主となった。小田原記の記年を信ずれば、五十七歳の時である。
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■五代も栄えたのは早雲の堅実老練、しかも誠実さの土台のすえ方にもよる

<本文から>
 早雲は四十余歳になってからやっと履歴の明らかになった人であり、一城の主となったのも六十近くになってからだ。したがって、事をなすにあたっては、十分の熟慮と周到きわまる準備があり、また長い人生経験から得た知恵の所塵であろう、誠実でさえある。そのためであろう、鬼神も三舎を避けるほどの権謀術数を弄しながらも、花々しいところがさらに感ぜられない。堅実にして老練というにつきる感があるが、実は堅実と老練と誠実とマキァヴエリズムとが最も調和よく一つの人格の中に同居している不思議な性格の人であったのである。
 彼はこの不思議な性格の故に、戦国の英雄共の先駆者となり得、一介の旅人から豆・相国の主となった。戦国時代は彼からはじまると言ってよいのである。
 なお、彼のようにして出世したものは、なかなかあとがつづかないものだが、子孫にいたっていよいよ大となり、日本屈指の大大名として五代もの間栄えることができたのは、子氏綱、孫氏康と、すぐれた人物がつづいて出たためでもあるが、早雲の堅実老練、しかも誠実さの土台のすえ方にもよるとぼくは思う。
 マキァヴエリアンである彼が、老檜な人であったことは言うまでもない。堀越御所の足利茶々丸を奪った後、彼が伊豆の民を手なずけようとして、伊豆の父老豪族らを召して宣言したことばを見るがよい。古聖賢そっくりなことを言っている。しらじらしくて、
 「老檜無類」
 といった感なきを得ない。しかしながら、彼はその宣言を終世実行し、子孫にもまた実行させているのだ。こうなると、単に老檜だけでは片づけられない。もちろん、仁愛の心からではなく、めぐりめぐって自分ないし自分の家の得であるというエゴイズムからのものであるにちがいないが、これが即ち名君というものだ。儒教で説くような聖人的名君は実在するものではないのである。
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■道三は老年になり力が衰え、父性愛や信仰心が出てきて滅んだ

<本文から>
 すべての人は道三にとっては利用さるべきものでしか、なかった。道三は人を徹底的に利用したばかりか、一旦利用価値が失せると殺してしまい、追いはらってしまった。恩義の観念や仁愛の観念は、彼には皆無である。彼の施政ぶりは最もざんこくなものであった。
 「小罪の着でも、道三は牛裂きの酷刑に処したり、最もひどいのは釜ゆでの刑を行なうにあたって、その罪人の女房や親兄弟に火を焚かせたことだ。全くすさまじい成敗であった」
 と、信長公記に出ている。どう考えまわしても、信仰ある人とは思えない。
 その彼が、念持仏を肌身はなさずたずさえていたばかりか、幼い愛児に一族の冥福のために出家せよといったヤ、自分の成仏のことを言ったりしている。とんと平灰の合わない感じである。
 思うに、この父性愛や信仰心は彼が老年になってから出て来たのではなかろうか。そして、それは彼の衰えを示すものであろう。信長公記に道三が義竜の本心の質さを見抜けず、次三男を愛しはじめたのを、
 「年老いて知恵の鏡もくもったのであろうか」
と書いてあるのは、鋭い批評だ。道徳も信ぜず愛情も信ぜず、自分の力のみを信じて世に立っている人間に、力の衰えが来れば、もう立っていることは出来ない。
 道三はそういう人であり、その滅亡はそれであったと言ってよかろう。
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■元就は戦術家、篤実の面をかぶったマキァヴエリスト

<本文から>
 厳島合戦は元就の生涯の大切所であった。これに打ち勝つことは大内氏にかわって中国の大勢力になるということであった。だから、この以後、その勢力は急カーブをえがいて増大する。
 以後彼は東に尼子を圧迫し、西は大内義長を伐って両面作戦を展開するのだが、翌々弘治三年には大内義長をほろぼし、さらに九年後の永禄九年には富田城をおとしいれて尼子氏をほろぼすのである。その後山中鹿之介によって尼子民再興が企てられ、毛利氏を苦しめ、それは元就の死後にまでおよぶのであるが、成功はしなかった。
 元就の死んだのは元亀二年六月十四日であった。年七十五。その頃、彼は長門・周防・安芸・備中・石見・伯菅・出雲・因幡・美作・隠岐の山陰、山陽十カ国、九州の豊前、筑前二国の領主であった。
 彼を一語にして表現すれば、戦術家としては反間の名手、政治家としては篤実の面をかぶったマキァヴエリストであるが、その篤実ぶりに決してボロを出さなかったのだから、真実な篤実さもあったのだろうし、周到な人がらでもあったのであろう。反間の策は平生篤実に見える人がらでなければ成功しがたいものであることも考えるべきであろう。
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■信玄の本性は消極的で、非活動的で、つまり怠惰なところのあった人

<本文から> 信玄は当時の武将として第一流の戦さ上手であった。おそらく当時彼にあたり得るのは、上杉謙信以外にはなかったろう。甲越の兵の精勤は天下の武士らの仰望したところであった。しかし、彼は武将として偉大であったばかりでなく、政治家としてもまた卓抜であった。甲州人は今日に至るまで彼の徳望をたたえて噴々としてロに絶たない。彼によってなされた産業の奨励、治水、池清の設備は今日もなお歴々としてのこっていて、単なるお国自慢でないことを立証している。彼は他国を占領した場合、暴政をしくことを恐れて決して家臣らにはあたえず、必ず自分の直轄領として民政に老練な代官をつかわして善政をさせたので、民は悦服して、彼の一代の間は決して離反しなかったと伝えられている。いかに心を用うることが細やかであったかがわかる。
 しかし、これは大体の論であって、ずいぶんひどいことをしていることもある。妙法寺記によると、彼は天文十六年、信州佐久郡の志賀城を陥れた時、男女の捕虜を全部甲州へ連れて来て、二貫、三賞、四貫、五貫、六貫とそれぞれ値段をつけて奴隷として売っている。ひどい話である。信長が捕虜を虐殺したのをずいぶん残酷だと思うが、売って金にしただけに、ぼくには信玄の方がいやらしく思われる。計算高い忍人(冷酷漢)であったのである。辛辣な考え方をすれば、彼が新領地にたいして行きとどいた政治をしいたというのも、この計算高さからのことかも知れない。彼に父譲りの享楽に溺れる性質のあったらしいことは前に触れたが、ぼくにはこの性質に関連してその本性はかなりに事業にたいして消極的で、非活動的で、つまり怠惰なところのあった人のような気がする。あれほどの功業をなしたのは意志の力によってその本性を矯めなおしてつとめたからで、本性はどうもそんなところがあったように思える。彼があれほどの力量がありながら、中央への進出にかかるのがおくれた原因には、ずっと書いて来たこと以外に、彼のこの性質も大いにあるかも知れない。一体、なまけものは、新しい仕事にかかることには億劫がるが、すでに仕上げた仕事からは徹底的にしぼり上げようとする勘定高さのあるものである。
 この彼と、ストイックで、男性的爽快さをもって生涯をつらぬこうとし、また最も積極的な活動家であった上杉謙信とが長い間にわたっていく度となく血戦をくりかえしたという事実は、この意味でも大ドラマの観がある。
 彼は当時の武将としては出色に学問があった。従って漢詩や和歌もずいぶんのこっていて、甲陽軍鑑に集めてある。いずれもよくととのったもので、語句の使い方なども素人ばなれがしている。
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■信長の本性は実に用意周到

<本文から>(信長)鳴かぬなら殺してしまへほととぎす
(秀吉)鳴かぬなら鳴かして見せうほととぎす
(家康)鳴かぬなら鳴くまで待たうほととぎす
 いつ誰が作ったものか知らないが、古来この三英雄の性格を最も端的巧妙に表現していると考えられている。しかし、これは秀吉と家康は大いにあたっているが、信長の相場合はまるで的がはずれている。彼には愛憎の念の強烈さ、人を殺すことに無感動な酷烈さ、一電光的な行動の俊敏さがあるので、ついそんな風に考えられたのであろうが、浅薄な観察だ。実際の信長には、「鳴かぬなら鳴かせて見せうほととぎす」的な点も「鳴かぬなら鳴くまで待たうほととぎす」的な点も、また大いにあるのだ。次を見て合点されたい。
 ぼくは前に信長の本性は実に用意周到であると述べたが、それが最も明瞭にあらわれているのは、武田勝頼を痛破した長篠合戦だ。彼は甲州軍が信玄以来練りに練った精強な兵で、最も騎馬戦に長じていることを知っているので、接戦せずして破る工夫をした。即ち岐阜を出馬する時、諸隊に命令して人毎に柵に用うべき木材と縄とをたずさえさせ、戦場につくとすぐ、持参した材料で柵を三重に立てさせ、諸隊をその内側に配置し、鉄砲足軽一万人から射術精妙な者を三千人えらび、千人ずつの三隊として三段にかまえさせ、一隊発射すれば、次の隊発射し、さらにその次の隊が発射し、順ぐりに切れ目なく発射するしかけにした。当時の鉄砲は先込めであるから装填にひまどり、案外不便なものであったが、この方法で行けば千挺ずつ間断なく発射出来るのであった。この戦術にかかって、甲州軍は長技とする接戦に出ることが出来ず、狩場の野獣のように撃ち取られて大敗し、勇将猛卒ほとんどつきて、以後武田家の勢いはガタ落ちになったのである。「鳴かして見せうほととぎす」ではないか。また、隠忍に隠忍を重ねて、信玄や謙信との決戦を避けたことや、長篠合戦以後七年間も武田氏の衰弱するのを待ったことは、彼の辛抱強さを語るものである。
■秀吉の成功には、悲惨な経験から来た覚悟のすわりにある
 思うに、信長に仕えるまでの秀吉の生活は悲惨にすぎて、彼自身が思い出すのも不愉快であったのではなかろうか。世は戦国だ。家を飛び出して放浪して歩く少年に、吹く風が温かろうはずはない。掻っ払いもしたろうし、泥棒もしたろうし、かたりもしたろうし、乞食もしたろうし、放浪する戦争孤児のような生活であったろうと思う。
 矢作橋上の蜂頚賀小六との出会いや、小六の下についての盗賊行為など、もとより事実ではないが、それに類たことはあったにちがいない。松下からの金子拐帯も、象徴的に持出したものとすれば意味がある。
 こんな想像をするのは、信長に仕えてからの秀吉の奉公ぶりが勤勉にすぎるからだ。できるだけ信長の目にふれようとして出しゃばりもするし、気に入られようとして実に無理な奉公もしている。同輩や先輩をおしのけて、口出しをするし、人が二の足も三の足もふむような困難な仕事を進んで引き受け、引き受けるや、遮二無二仕上げている。こういう働きは普通の生活体験をして来た人にはできない。人生のドン底の経験をして来て、再びあのいやな境遇に転落したくないと、かたく決心している人にしてはじめて出来ることだと思うのだ。
 秀吉が社会の最下層ら出発して、信長という伯楽を得るや、急坂を駆け上るような立身をし得たのは、天びんもあり、運の好さもあり、努力もまたあったにちがいないが、根本的にはこの悲惨な経験から来た覚悟のすわりにあると、ぼくは見ている。
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■秀吉の耄碌期

<本文から>
 秀吉が天成の大器であったことは言うまでもない。しかし、彼の人物と才能は、鳥取城攻めあたりから急速に異様なほどのかがやきを加え、山崎合戦から柴田勝家をたおすまでの十カ月の間に絶頂の美しさを発揮し、その後の功業は情勢によってなされたものであると、ぼくは見る。小牧の役も、家康招降も、九州征伐も、小田原征伐も、勢いに乗じての仕事だ。相手方が催眠術にかかって萎縮していた観がある。さらに進んで朝鮮役の拙劣さに至っては惰性期をすぎて禿唐期に入っていたとしか思われない。
 家康招降や、九州征伐や、小田原陣などには、惰性期の仕事といっても、まだ随所に天才のひらめきや豪快な機略がうかがわれるが、朝鮮役にはまるでそれがない。一見豪傑げなその大言壮語も、内容のともなわない形骸だけのから気焔である。彼は急速に耄碌していたと断ぜざるを得ない。彼の耄碌は少年時からの働きすぎと、極端な女道楽と、大成功に心驕ったためであろう。
 耄碌といえば、天下を統一するまでの彼は、出来るだけ人を殺さないようにつとめている。まことに人情深い。この点が人心を得て、天下統一をはやめた原因の一つになっているのであるが、天下統一後の彼は人が違うように残酷になっている。一度は最も愛してあとつぎに立てて関白を譲りわたしたほどの秀次に死を命じ、その妻妾三十余人を一挙に殺し、しかも野犬の死骸でも埋めるように一つ塚に投げこみにして葬っている。
 これらの妻妾の中には、公卿や大名の子女も少なくないのだ。たとえ秀次にどんな罪があったとしても、その妻妾に何の罪があろう。
 「行く末めでたかるべきご政道にあらず」け
 と、当時の民衆が批評したというが、その通りであった。豊家は二代にしてほろんでいる。しかも最も悲惨な形で。
 晩年の秀吉は狂気に近い精神になっていたにちがいない。
 死に臨んで、幼い秀頼の行く末を案じて、最も信頼すべからざる人物であることを十分に知っているはずの家康に、
 「秀頼こと、頼みまいらせる」
 と涙ながらに頼み、そのもり立てと豊臣家の天下の長久を哀訴嘆願し、起請文まで書かせているのも、彼が最も愚にかえっている証拠だ。
 家康は秀吉が力をもって服した人物ではない。恩恵もまた施していない。たとえいくらか施しているにしても、秀吉が家康を拝みたおして幕下に招致したことによって得た利益の方がはるかに大きいはずだ。力をもって屈し得たのでもなく、恩恵をほどこして服属させたのでもないとすれば、その信頼してならない人物であることは十分以上にわかっていなければならないはずだ。
 また、当時の天下は天下取りの子であるという名分だけで得られるものではなかった。力ある者の天下であった。秀吉自身も、信長の子供らを押しのけてこれを得たのだ。
 起請文の頼むべからざるものであることも、はげしい戦国の時代を生きぬいて来た彼にはわかりすぎるほどわかっていたはずだ。
 しかもなお、彼はこれらのものを信じょうとした。醜態というべきだ。古今に独歩する英雄をもって自任し、また英雄であったにちがいない彼にあるまじきことだ。彼は耄碌していたと判断しないわけに行かない。
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