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<本文から> だから、後醍醐のために戦った武士らは、皆恩賞として所領がほしいのだ。太平記にもはっきりそう書いてある。
「元弘大乱の初め、天下の士こぞって官軍に属せしこと、さらに他なし。唯一戦の利を以て勲功の賞にあづからんと思へる故なり。されば世静畿の後、忠を立て賞を望む輩、いく千万といふ数を知らず」
ところが、武士共にあたうべき土地がなかったのだ。はじめからなかったわけではない。はじめはずいぶんあったのだ。北条氏という大族がほろんだのだ。その領地、北条氏に一味した家々の領地、合すればなかなかのものであったのだが、それを天皇の領地、皇族の領地、公家の領地とし、なおのこったものは、白拍子や蹴鞠の上手なもの、遊芸の巧みなもの、衛府の小役人、官女、僧侶らにやってしまったので、「今は六十六ケ国のうちには、錐を立つるの地も軍勢に行はるべき関所はなかりけり」という状態になってしまったのだ。
天皇も、またそれを輔佐すべき公卿らも、一世紀半も実際政治から離れていたのが、いきなり政権を握ったのだから、この不手際は当然のことと言うべきであろうが、もう一つ見のがしてはならないことは、当時の天皇をこめての公家社会に爛漫していた倣慢な自尊意識だ。彼等は公家社会の者だけが世の中心で、他は全部これに奉仕さえしていればよいと信じきっていた。
北畠親房は、当時の一流学者で、公卿の中では第一の人物だが、神皇正統記にこう書いている。
「関東の高時がほろんで、天皇の御運がひらけたのは、人力ではない(武士共の力ではない、神意であるの意)。一体、武士などというやからは、いわば数代の朝敵である。お味方申したおかげでその家を亡ぼさないだけでもあまりある皇恩と思うべきである。恩賞に望みを抱くなら、これから一層息功をぬきんでてからであるべきで、神意によってなり立ち得た中興の業を、自らの功によると思うなど、不届きである」
親房ほどの人がずいぶん乱暴なことを書いたものとあきれるが、これが当時の公家社会に共通した気持だったのである。 |
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