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          海音寺潮五郎−武将列伝・戦国終末篇

■裏切った主人をも守った黒田如水

<本文から>
 官兵衛の主人である小寺政職も居たたまれず御着城を捨てて逃げ出し、近国をうろうろしながら、面の皮あつくも、官兵衛に頼って信長の赦免を乞うた。官兵衛はうらみを忘れて引受けて、いくどか信長に嘆願したが、信長の怒りはとけなかった。しかし、官兵衛が切に乞うたので、ついにこう申し渡した。
 「信頼の出来ぬ表裏者とわかっているものを、家人の中に入れることは出来ぬ。本来ならば首斬って捨つべき者であるが、その方がそれほど申すことであれば、それはゆるす。どこへ住んでも答めもせぬ。それ以上のことはしてやれんぞ」、
 そこで、政職は武士を捨てて百姓したり、商売を営んだりしたが、いずれもうまく行かなかった。転々として諸所にうつり住んでいるうちに天正十年に備後の輌で死んだ。政職の子氏職は少し足りない人物だ。忽ち窮迫して目もあてられない様子になった。
 官兵衛は風のたよりにこれを聞くと、秀吉に、このことを語り、
 「政職は御敵となったのでござるが、氏職には罪はないのでござる。拙者にとっては旧主の子でござる。介抱を加えて、小寺の家の祀りをつがせたいと存ずる。ゆるしていただきとうござる」
と願った。
 秀吉は官兵衛の情誼の厚さに感心して、
 「かもうまい。お答めがあったら、わしからおわびしてやろう」
と言ってくれた。
 官兵衛はすぐ使いを出して氏職を迎え、わが家において世話していたが、後年長政が筑前の太守になると、長政に頼んで知行地をもらってやった。小寺家は明治初年の藩制廃止まで黒田家の客分としてつづいたという。
 官兵衛はよい血統を受け、よい親のもとに、よい薫陶を受けて育った人だ。策士であり、意志堅剛の人であるとともに、このようなよさもあった人なのである。
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■如水による北条家降伏のエピソード

<本文から>
新六郎は、
 「よい御思案。北条家の運命はもう見えています」
と、一議におよばず賛成したが、左馬介は、
 「これは父上・兄上のおことばとも思えませぬ。松田家は北条家譜代の臣、しかも重臣の列にあります。下人・小者も恥じるようなきたないことをしようとは以ての外のこと」
と、泣いて諌めた。
 「くちばしの黄色い分際で何を言う。その方にはわからぬことだ」
 憲秀と新六郎は耳にもかけず、左馬介を一室にとじこめてしまった。
 左馬介は主家の存亡この時にきわまったと焦心して、小姓に命じてひそかに鎧楯の中にひそんでかきださせ、民政に訴え出た。
 民政はおどろいて、憲秀と新六郎を捕えておしこめたい
 かくして第二策も失敗に帰して、百計つき、さすがの秀吉も困じはてたが、ふと思案して、官兵衛を召し、北条氏を降伏さすべき策をたずねた。
 「徳川殿が最も適任でござる。徳川殿は関東の事情にもよく通じてござるし、北条家とは姻戚の関係もござる(家康の次女督姫は民政の長男氏直の妻である)。この周旋役には最も適当なお人でござる」
 そこで、官兵衛をして家康に内意を伝えさせたが、家康は姻戚であるからかえって都合が悪いと辞退した。官兵衛としては、家康のこの辞退は予期していたことであったろう、かえって来て秀吉に言う。
「拙者におまかせ下さいましょうか」
「まかせる。やってみい」
 官兵衛は失文を北条氏房の障所に射込んで和睦をすすめる一方、武州岩槻に捕虜となっている氏房の妻子を説いて民房に降伏をすすめる手紙を送らせた。氏房はまた民政に和睦を説いた。
 官兵衛は時機を見はからって、民政の本陣に、陣見舞と称して、美酒二樽、粕漬紡十尾を贈った。すると、民政の方からも答礼として鉛と火薬それぞれ十貫目を贈って来た。民政の方では、矢弾には少しも窮していないぞとの意を示したつもりであったろうが、官兵衛の狙いはそんなところにはない。答礼と称して、みずから城中に乗りこんだ。そのいでたち、肩衣にはかまを着し、大小もすてて無腰という瀟洒な姿であった。
 さらさらと乗りこんで行き、民政・氏直に面会して、利害を説いて、ついに降伏を承諾させたのだ。
 北条氏は松田憲秀を殺して開城した。秀吉はこれを理由にして北条氏をとりつぶしてしまった。
 この時にはまたこんなこともあった。
 開城の後、秀吉は官兵衛を呼んで、
 「松田が子は父を訴えた不孝者じゃ。首を斬れ」と命じた。
 「かしこまりました」
 官兵衛は退出すると、新六郎を殺して、左馬介は助けておいた。
 秀吉はこれを聞いて、官兵衛を呼び、
 「なぜ新六郎を斬ったのじゃ。新六郎はわしにたいしては功のある者だ。左馬介は父と兄を氏政へ訴えた憎い奴ゆえ、殺せと申しつけたのじゃに」
 と、叱ると、官兵衛は、びっくりした顔をつくり、
 「やれしまったり。左馬介を殺すのでございましたか。これは申しわけなきこと。しかしながら新六郎は譜代の主君にそむいて裏切りして武士の道をとりはずし、先祖の名をけがし、忠孝ともになき者であります。これに反して、左馬介は父には不孝者でありますが、主君には忠義であり、先祖には孝行者であります。拙者が聞きちがえて新六郎を殺したとて、ご損にはなりますまい」
 と答えた。
 秀吉はやむなくうなずいたが、官兵衛が去ると、いまいましげに言った。
 「ちんばめがまた空とぼけしおって」
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■如水の逸話−草履取りの竜若

<本文から>
 如水の草履取りの竜若という者は剛力で、下郎ながら戦場での働きもあった者だけに、気が荒く、度々乱暴を働いたので、ある時如水は折檻のために縛らせて、大黒柱につながせた。その翌朝、如水の侍臣等が、
 「いいかげん懲りたろう。わびを言うてやろうではないか」
 と相談しているとき、如水は侍臣を呼んで、切紙をわたして言った。
 「これを藍原村に持ち行き、代官にわたし、瓜を持ってまいるよう。竜若をつかわせよ」
 やがて竜若が瓜を持ってかえってくると、如水は竜若を呼び出し、瓜を二つくれて言う。
 「食え」
 竜若も、侍臣等も、はやごきげんがなおったかと思っていると、竜若が食べてしまったところで、またもとのように縛らせた。
 しばらくすると、縄をといて家中へ使いに出し、かえってくると縛らせ、二、三時間経つと庭の掃除などをさせてまた縛る。縄を解いては用事をさせ、用事をさせては縛りして、三日ぐらいしてやっとゆるした。
 如水の気に入りのお伽坊主が、めしうど
 「めずらしい御折檻、世にも稀なる囚人でございましたな」
と笑いながら言うと、如水も笑って言った。
 「いたずら者である故、懲らしめのために縛ったが、使わねば損が行く故、使った。もっとも、内心は憎うは思うていぬ。縛りづめにしては縄のあとが傷になる故、時々ゆるめるために用をさせた。ああしてゆるゆると折檻すれば、懲りようも、ひとしお強かろうわい」
 この類の如水の逸話は実に多いが、如水という人をよくあらわしている点で、この詰は最もすぐれている。「使わねば損が行く」というのは、如水的表現である。内心はそうではないのである。彼にはおのれの知恵を誇示する性癖があって、ついこんな言い方をしてしもうのだ。この点が人をして彼を誤解させるのだ。
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■如水は不運な人、一流中の一流の人物

<本文から>
 如水は不運な人である。一流中の一流の人物であり、稀世の大才を抱き、運と力量さえあれば、立身出世思うがままであったはずの戦国のさなかに生まれながら、十二万二千石の小大名でおわらなければならなかったのだ。その大才のゆえに秀吉の在世中には秀吉に忌まれ、家康の時代となってはまた家康に忌まれた。秀吉や家康と時代を同じくし、ややおくれて出発したことが、彼の不運であったのだ。山名禅高にたいして、彼が畳を打って大言した時の胸裡の憤慈悲壮はいかばかりであったろうか。深く思いやれば目がしらが熱くなる。
 しかしながら、彼が一旦俗世に望みを絶って以後の悠々たる生活を見ると、秀吉よりも、家康よりも、数等立ちまさった人物ではなかったかと思わせるものがある。家臣の幼児らにとりまかれて無心に遊んでいる老雄の姿を想察する時、無限の興趣なきを得ない。
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■真田昌幸は領地への執着から石田方に加担

<本文から>
 関ガ原役は、そのはじめは上杉景勝が会津でアンチ徳川の挙兵準備をしているところからはじまる。家康は当時大坂にいて、五大老中第一の実力者として天下の政治を見ていたが、景勝討伐のために束に向った。天下の大名の大多数がこれに従って東した。昌幸もまた居城の上田から次男幸村をつれて随従した。昌幸の長子信幸は沼田にいたが、これまた沼田から出て家康に従った。
 身は東に行きながら、家康の心は西にあった。自分を東にさそい出しておいて西で石田一派が事を挙げるであろうということを、彼はよく知っていたのだ。家康だけではない。黒田長政だ、細川忠興だというような人々は皆予想していた。しかし、昌幸はこれを全然知らなかった。
 石田は少しでも脈のありそうな大名には皆莫大な恩賞を餌にして味方するように密書をとどけたのであるが、昌幸はこれを野州の天明宿(佐野の音名)で受け取った。
「かほどの大事をくわだつるに、前もって何の相談もせぬということがあるものか」
 と、昌幸は立腹し、返書にそのことを書きおくった。これはそれにたいして弁解した三成の返書がのこっているから明らかだ。
 三成は、事成ったなら信州・甲州の両国をあたえると言ってよこしている。昌幸はこれに動かされたに相違ない。領地に執着すること鬼のような彼が動かされないはずはない。彼は利口な人間だから、こんな場合の約束は必ずといっていいくらい空手形になることがわからないではなかったろうが、
「おれの知略をもってすれば空手形にはおわらせない」
という自信もあったろう。
 昌幸びいきの人は、彼が太閤を尊敬すること一通りでなかったことや、家康とは性格的に合わなかったことや、彼が最も愛したらしく見える次男の幸村が石田の参謀長ともいうべき大谷刑部青継の女婿であることなどを挙げて、信義心によって西軍に荷担したと言っているが、彼が信義の人でなかったことは、これまで述べて釆たことで明瞭であろう。
 石田の手紙を受取ると、昌幸は信幸を天明の宿に呼んだ。信幸は少しはなれた犬伏に居たのだ。信幸は早速やって来る。昌幸は石田の書簡を見せて、所存を聞いた。信幸は、
「石田らのこの拳は石田らが自分らの野心のために秀頼公の名を仮りているものと判断いたします。また家のために危険でもござる。義のためより考うるも、利のためより思うも、一味然るべからずと存ずる。ことにそれがしは内府(家康)の智となり、恩を受くること厚いことでござれば、これにそむいて石田方にくみする心は毛頭ありませぬ」 と、はっきりと言った。
 昌幸は自分は一味する決心でいると言って、信幸を説得にかかったが、信幸の決心はかたい。昌幸もあきらめた。
「さらば、いたし方はない。わしは西に一味しよう。幸村は大谷が智なれば、これも一味する。そなたは東に味方せよ」
と決裂した。
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■昌幸は評判のよい武将であるが器量が小さい

<本文から>
 昌幸は評判のよい武将であるが、ぼくにはそれほどの人物とは思われない。執念深くて、領土に執着の強いこと無類であったことは、すでに十分にのべた。利にさとくて反覆の人であったこともまたのべた。信義の観念などさらにありそうにないのである。
 戦争には強かった。徳川家の大軍を上田の小城によって前後二回とも散々に打ち破っている。しかし、知将であったとは思われない。第一には当時の心ある武将なら皆予測のついている石田の挙兵を全然予知出来ないで、なぜ前もって知らせなかったといって石田におこっている点を見ても、そうとしか考えられない。軍略にはたけていても、大きい意味の知略の人ではなかったのではないかと思う。人物としての器局は小さかったと思われる。
 大策士は案外さらさらしているものである。黒田加水の生涯を見ても、竹中半兵衛の生涯を見ても、中国の張艮・陳平・陸貢、皆そうだ。日常の行動、わけても晩年の風趣のすがすがしさは掬すべきものがある。かれらの本懐が策を楽しむにあって物質欲や権勢欲にはないからであろう。昌幸にはこの掬すべき風趣が全然見られない。先祖の墓があるとウソを言ってまで名胡桃をとりとめたことなど、在郷武士の執拗剛憎がむき出しで、垢ぬけしないことおびただしい。ぼくには好きになれない性格だ。
 思うに、彼の評判のよさは、豊臣家の最後を飾って悲壮な死をとげた次男幸村の名声の反映であろう。
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■伊達政宗は若き頃より辣腕

<本文から>
 政宗が父を亡ったのは、数え年十九の時であった。以後、彼は伊達家の当主として一切を独裁したが、付近の大名等とたえず攻戦して、天正十七年の冬に至るまでの四年間に、会津四部、仙道七都(今の東北本線沿線地帯)を斬り平げ、出羽の国まで手をのばし、旧領とあわせておよそ百万石を領有し、会津に移ってここを本城とした。当時会津城は黒川城といった。
 こうした忙しい間にも、彼は中央の形勢にたいする注意をおこたらず、秀吉に贈りものをして好みを通じたばかりか、秀吉の周囲の人々、前田利家だ、三好秀次(後の殺生関白豊臣秀次)だ、徳川家康だ、浅野長政だ、和久宗是だ、富田知信だ、木村清久だ、施薬院全宗だというような人々にも贈りものをし、書信を通わして、ごきげんを取り結んでいる。
 そうかと思うと、秀吉の怒りを受けて、今や征伐されること必至となっている北条氏とも好みを結んで、常陸の佐竹氏を前後から挟撃する策をめぐらしている。二十を少し越しただけの年で、おそろしい辣腕といわねばならない。
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■伊達政宗は逆手の名手で危機を乗り越えてきた

<本文から>
 われわれはここでまた政宗の手口の一つを見る。彼が逆手の名手であるということだ。金箔をまかせたハリツケ柱をおし立てて上洛したことといい、対決の場においてそっくり同じ文言を書いて見せたことといい、豪快なる逆手なのである。彼はすでにこれを小田原陣に伺候する時見せている。髪を短く切ってかぶろにし、真自な麻の陣羽織を着て行ったのがそれだ。この逆手には稀代の演出家である彼らしく精密な打算の裏づけがあり、それによって見事に危地から脱出しているのだ。彼のこの性質は以後益々濃厚にあらわれる。
 疑いとけた、あるいはとけたらしく装っている秀吉は、おそろしく政宗を優待している。政宗が諸大名を招待して茶の湯を催すと、色々な名物の茶器をあたえており、衆楽まわりに邸地をあたえて、浅野長政に命じて三千人を使って建築してやり、羽柴の姓をあたえ、侍従兼越前守に任官させている。当時京都中、上下皆政宗の覚えのめでたさにどよめいたという。
 政宗の豪快奇抜な演出が豪快好みの秀吉に気に入ったからでもあろうが、この東北の臭雄を心服させようとの秀吉の機略であったに相違ない。
 間もなく、この年秋、南部で九戸故実が乱をおこした時、政宗は最も熱心に働いて殊勲を立て、秀吉の感状をもらっている。
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■石田三成は外様より秀吉子飼いの大名らの心を撹っておくべきであった

<本文から>
 百二十万石の大大名であり、二、三年後には五大老の一人となったほどの輝元が、これほど三成に媚びているのである。他は推して知るべしであろう。
 これに反して、秀吉子飼いの大名らには、人を介してとりなしてもらう必要がないばかりか、同じ釜の飯を食って育った三成が虎の威を借って出頭人づらして羽ぶりをきかしているのが小療にさわり、あたり強く接したので、三成の方も面白からず思うようになったと思われるのだ。
 もしこの解釈があたっているとすれば、三成の人物はかなり卑小なものになろう。外様大名らが三成に媚びるのは、秀吉のご前体をつくろってもらおうとの心からだ。秀吉を恐れればこそのことだ。それを自分を敬し、自分を愛しているために、このように親しみを見せて来るのだと思い、これを信頼するにおいては、真の智者とはいえまい。冷たくあしらうのはもちろん悪いが、ギリギリの土壇場では頼りにならない人々なのだくらいの性根はすえておかねばならない。才人であったことは疑うべくもないが、人にちやほやされればうれしくなって、事の本質がわからなくなる感情的な人物であったことは否定出来まい。
 彼が真に豊臣家のためには家康は恐るべき人物であり、豊臣家のためには早晩これを除かなければならないと思っていたならば、欲得ずくから尾を振って来る外様大名などを頼りにするより、豊臣家のためには働かなければならない義理のある人々と親しみ、その心を撹っておくべきであったはずだ。そうしなかったのは、そこまでの深い思案がなかったか、思案はあっても感情的な性質のために出来なかったか、いずれかであろう三成の評判は江戸時代にはひどく悪い。束照神君の敵だったからだ。明治以後持ちなおして、今日では大へんな人気になっているが、ぼくには相当反動的なものがあるとしか思われない。江戸時代の史家らは彼を「才あって智なし」と評しているが、あたっているように思う。少なくとも、ぼくは三成のような人物を同僚もしくは上役に持つことは真ッ平だ。楯びへつらう人間だけに好意を持つのだ。同僚や上役として、こんないやらしい人間はなかろう。太閤の死に際して同役の浅野長政をあざむいて家康と利家にコネクションをつけようとした手のこんだ術策など、陰険、晒劣、不信、不潔、言うべきことばを知らない。
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