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<本文から> 官兵衛の主人である小寺政職も居たたまれず御着城を捨てて逃げ出し、近国をうろうろしながら、面の皮あつくも、官兵衛に頼って信長の赦免を乞うた。官兵衛はうらみを忘れて引受けて、いくどか信長に嘆願したが、信長の怒りはとけなかった。しかし、官兵衛が切に乞うたので、ついにこう申し渡した。
「信頼の出来ぬ表裏者とわかっているものを、家人の中に入れることは出来ぬ。本来ならば首斬って捨つべき者であるが、その方がそれほど申すことであれば、それはゆるす。どこへ住んでも答めもせぬ。それ以上のことはしてやれんぞ」、
そこで、政職は武士を捨てて百姓したり、商売を営んだりしたが、いずれもうまく行かなかった。転々として諸所にうつり住んでいるうちに天正十年に備後の輌で死んだ。政職の子氏職は少し足りない人物だ。忽ち窮迫して目もあてられない様子になった。
官兵衛は風のたよりにこれを聞くと、秀吉に、このことを語り、
「政職は御敵となったのでござるが、氏職には罪はないのでござる。拙者にとっては旧主の子でござる。介抱を加えて、小寺の家の祀りをつがせたいと存ずる。ゆるしていただきとうござる」
と願った。
秀吉は官兵衛の情誼の厚さに感心して、
「かもうまい。お答めがあったら、わしからおわびしてやろう」
と言ってくれた。
官兵衛はすぐ使いを出して氏職を迎え、わが家において世話していたが、後年長政が筑前の太守になると、長政に頼んで知行地をもらってやった。小寺家は明治初年の藩制廃止まで黒田家の客分としてつづいたという。
官兵衛はよい血統を受け、よい親のもとに、よい薫陶を受けて育った人だ。策士であり、意志堅剛の人であるとともに、このようなよさもあった人なのである。 |
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