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<本文から> 対浅井戦においての、世に伝わる半兵衛の武功は以上につきるが、他にも人に知られないいろいろなことがあったに違いない。浅井長政は猛将の名の高い人だ。秀吉がいかに名将であればとて、この時代の秀吉の身代では、得意な、物量をもって敵を圧倒する大仕掛な戦法はとれない。三年以上もの間、長政にせり合って、ひけ目を見せなかったのは、半兵衛の戦さ上手によることが多大であったと思われる。
半兵衛の戦さ上手と人物とを語る話として、名将言行録にこんな話が出ている。
その一。
半兵衛は戦場において、味方の布陣が自分の気に入らない時には、秀吉にことわりなしにかえさせた。
ある時の合戦に(秀吉が相当えらくなってからの。とであろう)、ある大名が半兵衛のこの独断を憤って、自分の家老に、
「こんど戦さのある時、もし竹中が陣がえを下知したら、おれは絶対に従わん。あの兵法者面、見るもいやじゃ」
と言っていた。
間もなく合戦がはじまり、その大名も出陣し、布陣したところ、半兵衛が馬上やって来た。
「やれ見よ、竹中が来るわ。きっとまた陣がえを言いに来たのじゃ。おれは決してきかんぞ」
と、家老に言い、力みかえって待っていた。
半兵衛は、二、三反(一反は六間)こちらで馬をおり、ゆるゆると近づき、両手をひざについて、
「お布陣のこの場所といい、いかにも気力にあふれたお旗色といい、筑前守殿感心しておられます」
と、いかにも恭敬な態度で言った。
大名はうれしくなり、
「さようか。ご前よろしきようにお申し下さい」
と答えた。
「かしこむり申した」と言っておいて半兵衛は言う。
「筑前殿の仰せでは、この備えの足軽、あそこの旗の位置、これこれにかえられたらば、さらによくなるであろうとのことでございましたが」
「さようか。ごもっともな仰せでござる」
大名は言われた通りになおした。
「ああ、筑前守殿もさぞご満足でありましょう」
と言って、半兵衛はかえって行く。それを見送りながら、大名は家老に、
「うまく仕掛けてくるわ。竹中めが下知じゃとは思うが、ことわることが出来ぬように仕掛けて来おるわ」
と言って可々と笑ったという。
その二。
これは甫奄太閤記の記述だ。朝倉・浅井両家がほろんだ翌々年の長篠合戦の時のことだ。
戦いたけなわで、まだ勝負の色が見えない時、武田勝頼が自分の右隊を、秀吉の陣の左方二町余のところに移した。
秀吉の寄騎谷大膳亮衛好はこれを見て、
「こちらの備えもかえずば不利である」
と下知して、そちら向きに移動させようとした。
半兵衛は、
「いやいや、敵のあの備えの気色、やがてもとの陣にかえるであろう。これまでの通りの備えでよろしい」
と言って、とめた。争論になった。
谷は憤慨して、秀吉に訴えた。秀吉は、谷の思う通りにしてよいと言ったので、谷は欲するように備えをかえたが、半兵衛の陣千人だけは前のように固く備えを守っていた。
一時間もたたないうちに、武田の右隊は前の陣所に引きかえしたので、秀吉の陣もまた前に戻さなければならなくなった。
半兵衛は少しも誇る色がなかったので、人々は、
「竹中のおとなげなること、尋常の者ならば、見たことか、右往左往の見苦しきていと罵るべきところである。あの小身で大様なこと、信長公のような身分の人のようじや」
と称賛したという。
こういう半兵衛の性行は、天性のものであろうが、彼が幼時から読書を好んだということから考えると、中国の張良であるとか、諸葛孔明であるとかいう人々に学ぶところがあったのではないかと、ぼくには思われる。彼がどんな書物を愛読したか、わからないことであるが、兵書がその一つであったことは確かであろうし、兵書を読んだとすれば、それを実際に活用して千歳の後まで美名をとどめている張良や孔明の伝記を読んだ事も考えられるであろう。 |
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