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          武将列伝−戦国爛熟篇

■竹中半兵衛の戦さ上手と人物とを語る話

<本文から>
 対浅井戦においての、世に伝わる半兵衛の武功は以上につきるが、他にも人に知られないいろいろなことがあったに違いない。浅井長政は猛将の名の高い人だ。秀吉がいかに名将であればとて、この時代の秀吉の身代では、得意な、物量をもって敵を圧倒する大仕掛な戦法はとれない。三年以上もの間、長政にせり合って、ひけ目を見せなかったのは、半兵衛の戦さ上手によることが多大であったと思われる。
 半兵衛の戦さ上手と人物とを語る話として、名将言行録にこんな話が出ている。
 その一。
 半兵衛は戦場において、味方の布陣が自分の気に入らない時には、秀吉にことわりなしにかえさせた。
 ある時の合戦に(秀吉が相当えらくなってからの。とであろう)、ある大名が半兵衛のこの独断を憤って、自分の家老に、
 「こんど戦さのある時、もし竹中が陣がえを下知したら、おれは絶対に従わん。あの兵法者面、見るもいやじゃ」
 と言っていた。
 間もなく合戦がはじまり、その大名も出陣し、布陣したところ、半兵衛が馬上やって来た。
 「やれ見よ、竹中が来るわ。きっとまた陣がえを言いに来たのじゃ。おれは決してきかんぞ」
 と、家老に言い、力みかえって待っていた。
 半兵衛は、二、三反(一反は六間)こちらで馬をおり、ゆるゆると近づき、両手をひざについて、
 「お布陣のこの場所といい、いかにも気力にあふれたお旗色といい、筑前守殿感心しておられます」
 と、いかにも恭敬な態度で言った。
 大名はうれしくなり、
 「さようか。ご前よろしきようにお申し下さい」
 と答えた。
 「かしこむり申した」と言っておいて半兵衛は言う。
 「筑前殿の仰せでは、この備えの足軽、あそこの旗の位置、これこれにかえられたらば、さらによくなるであろうとのことでございましたが」
 「さようか。ごもっともな仰せでござる」
 大名は言われた通りになおした。
 「ああ、筑前守殿もさぞご満足でありましょう」
 と言って、半兵衛はかえって行く。それを見送りながら、大名は家老に、
 「うまく仕掛けてくるわ。竹中めが下知じゃとは思うが、ことわることが出来ぬように仕掛けて来おるわ」
 と言って可々と笑ったという。
 その二。
 これは甫奄太閤記の記述だ。朝倉・浅井両家がほろんだ翌々年の長篠合戦の時のことだ。
 戦いたけなわで、まだ勝負の色が見えない時、武田勝頼が自分の右隊を、秀吉の陣の左方二町余のところに移した。
 秀吉の寄騎谷大膳亮衛好はこれを見て、
 「こちらの備えもかえずば不利である」
 と下知して、そちら向きに移動させようとした。
 半兵衛は、
 「いやいや、敵のあの備えの気色、やがてもとの陣にかえるであろう。これまでの通りの備えでよろしい」
 と言って、とめた。争論になった。
 谷は憤慨して、秀吉に訴えた。秀吉は、谷の思う通りにしてよいと言ったので、谷は欲するように備えをかえたが、半兵衛の陣千人だけは前のように固く備えを守っていた。
 一時間もたたないうちに、武田の右隊は前の陣所に引きかえしたので、秀吉の陣もまた前に戻さなければならなくなった。
 半兵衛は少しも誇る色がなかったので、人々は、
 「竹中のおとなげなること、尋常の者ならば、見たことか、右往左往の見苦しきていと罵るべきところである。あの小身で大様なこと、信長公のような身分の人のようじや」
 と称賛したという。
 こういう半兵衛の性行は、天性のものであろうが、彼が幼時から読書を好んだということから考えると、中国の張良であるとか、諸葛孔明であるとかいう人々に学ぶところがあったのではないかと、ぼくには思われる。彼がどんな書物を愛読したか、わからないことであるが、兵書がその一つであったことは確かであろうし、兵書を読んだとすれば、それを実際に活用して千歳の後まで美名をとどめている張良や孔明の伝記を読んだ事も考えられるであろう。 
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■鹿之介のねばり強さの功罪

<本文から>
 鹿之介は名将というべき人ではあるまい。武者としては、その見事な心術といい、働きといい、無双といってもよいものがあるが、将器にはとぼしかったと思われる。戦争はへたであること、縷説して来た通りである。
 ただその百折不摸の精神の強靭さは、驚嘆すべきものがある。日本歴史上おそらくは類がないであろう。考えねばならないのは、こうした極端なねばり強さは、人生においてはしばしばもっとも恐ろしい不運のもととなるということだ。
 尼子家の再興ということが、それほど意義のあるものであったろうか、ぼくには疑問に思われるのである。一種偏執狂的なところがあるように感じられる。
 将器にはとぼしいと言っても、それは一流の名将らと比較してのことで、秀吉魔下の諸将星の大部分とくらべれば、決しておとってはいない。彼がもし志を転じて、自分自身の運命をひらくために働いたら、五十万石や六十万石の大名となることは易々たるものであったろう。
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■光秀反逆は周到な観察と緻密な計画を欠いた爆発的なもの

<本文から>
 ぼくはこれらの学者達の説を一応買うが、別に一説がある。
 ぼくは光秀の性格を重要視したいのだ。光秀が知識人で、古い文化を身につけた人であったことはすでに述べたが、そんな人だけに行儀が正しく、態度に重々しいところがあった。性格もまじめで誠実であった。
 ところで、信長は天性の野人で、いたずら好きで、わがままものだ。彼は誰にたいしてもいたずらをし、無礼をはたらいた。
 甲州征伐から凱旋する時、信長は東海道を取って富士山を見たいと思った。前関白で、この頃太政大臣であった近衛前久は信長に同行して甲州に来ていたが、同行したいと望んだところ、信長は馬上、
 「近衛、わごれ(和御料)などは木曾路をのぼりませ」
 と言いすてて通りすぎたという。
 天皇につぐ尊貴な身分にある前関白、現太政大臣殿下にたいしてさえこうだったのだ。
 くりかえして言う。信長は誰にたいしても無礼であり、いたずらをしたのだ。その信長の目から見る時、光秀のようなきまじめで礼儀正しく、態度の重々しい人間は、もったいぶっているように思われ、いたずら心がムズムズとそそられ、からかってみたくなり、いじめてみたくなりしたにちがいなかろう。
 この意味では、秀吉もまた信長のいたづらのいい対象であったに相違ない。チビで猿目で、色黒の醜悪な顔をして、したり顔でこまめに走り回っている秀吉がいたづらの対象にならないはずがない。
 秀吉は天性横着もので、ものにこだわらない性質なので、さらさらと受け流して、これを腹にのこさなかったが、光秀はそうは行かなかった。まじめな性質だけに、真正面から受取り、人一倍苦悩したろう。そのため、それは深い怨恨となって胸中に積み重なり、ついに最も無防備な姿でいる信長を見たことによって爆発したと、こう見たい。
 ぼくは叛逆を企てる人間の性質に二通りあると思っている。深刻冷酷型と誠実型との二つだ。斎藤道三や松永久秀らは前者だ。計算を立てて、長い年月をかけてやる。だから成功もする。平将門や西郷隆盛などは誠実型だ。おさえにおさえてがまんしているので、その坂道は爆発的だ。まるで計算が立っていない。失敗するのである。
 光秀は誠実型なのである。その叛逆には全然計画が立っていなかった。本能寺に信長をたおすまでの手際は見事であったが、それ以後のことは、彼ほどの戦術家にあるまじき拙劣さだ。
 思うに、光秀が大事に踏み切ったのは、当時信長磨下の有力な将軍らが、皆京都から遠い土地にいて、急には駆けつけることが出来ないと見たからであろう。最も有力な徳川家康は国許を離れて堺見物に行って始り柴田勝家は越前にあって上杉氏と対峙しており、滝川一益は関東探題として上州厩橋にあり、丹羽長秀は四国征伐のために六月二日か二日には渡海すべく大坂地方に下っており、秀吉は備中で毛利氏の大軍と対陣中だ。いずれもとても急場の間に合うものでない、彼らが動きがとれるようになるまでには、どう短くつもっても一月や二月はある、その間には近畿をかためてしまえると、こう思ったのであろう。
 この見切りは、人間のなし得る計算としては限界である。秀吉がわずかに十三日の後には駆けつけて決戦をいどみかけ得たのは、秀吉の働き以外に天運がはたらいている。本能寺の変報が秀吉の許にとどく数日前から、毛利家の方から秀吉に和談を申しかけていたのだ。だからあんなに迅速に和を結んで駆けつけることが出来たのだ。毛利側からの和談の申しかけがなかったら、秀吉がいかに知恵者であり機敏であっても、あの迅速な機動が出来るものではない。
 だから、この点では、秀吉を天下とりたらしめ、したがって曠古の英雄といわれるまでにしたのは秀吉の運のよさであり、光秀をして十三日天下の逆臣でおわらせたのは光秀の運の悪さであるといえるし、人間が英雄たるには運のよさが欠くべからざるものであるとの感を痛切にするのである。
 だから、ぼくはこの点では光秀の策の拙劣さを責める気はないのであるが、しかもなお拙劣さを指摘せずにはいられない。彼は細川幽斎・忠興父子が、古くからの親友であり、忠興にいたっては彼の娘智でもあるので、必ず味方してくれると思っていた。ところが、父子はそれを拒絶した。筒井順慶は以前彼の与力大名であり、また親しい仲であったのに、これも味方してくれると思っていたのに、これにも背かれた。見通しの甘さであり、その甘さはその反逆が周到な観察と緻密な計画を欠いた爆発的なものであったためだ。
 彼は朝廷や社寺に献金したり、京都の町の地子銀を免除したりして人心を収撹しようとしているが、そんなことより、戦備に努力を集中すべきであったろうと思うのだ。順序がちがっていると思うのだ。
 光秀は後世逆臣の代表者として、まことに評判が悪いが、こういう倫理価値の判断は、実際にはあいまいをきわめている。厳密に理づめに論ずるなら、秀吉だって織田民の天下を奪っているのだから、叛逆者といってよい。
 小牧の戦いの時、徳川方の榊原康政が、この意味で秀吉を叛逆者と罵った建札を、両軍対時の中ほどに立てたところ、秀吉は激怒して、重賞をかけて康政の首をもとめている。一番心にとがめるところを突かれたから激怒したのである。
 秀吉を簒奪者であると見るのは、秀吉と敵対関係にあった徳川家の者だけではない。記録は、秀吉が織田家の将校であった頃最も秀吉に好意を抱き、秀吉に味方し、色々な場合にその危機を救ってくれた丹羽長秀や堀秀政が、晩年秀吉に心平かでなかったと伝えている。つまり、一般にもそうした考えを抱いていた人が当時相当にあった。
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■勝頼の強がりが窮地に追いつめた

<本文から>
 これらの敗報は、櫛の歯をひくように、新府の勝頼にとどいた。いのちの瀬戸際こそ、人間の真贋が最もあぎやかに見えるというが、武田家の最後ほどみじめなのは、歴史に類例が少ない。一族・諸将の心は益々離反して、
「士大将らはわれ先きにと身をひき、逍遥軒(信綱。信玄の弟)一条右衛門太夫・武田上野介・その子左衛門太夫・武田信豊(勝頼のいとこ)・その子次郎・三郎らをはじめとして、恨みの数々を書状に書いておくり、心を変じたので、二万余人もあった勝頼の軍勢も、今はわずかに旗本勢ばかり三千人足らずになった」
 と、武田三代軍記にある。
 こうなっては、いくら勝頼が剛強でもいたし方はない。わずかにのこる幹部を集めて、軍議をひらいた。
 勝頼の嫡子信勝は、
「この期におよんでうろつくは見苦しゅうござる。新府に踏みとどまって討死いたしましょう」
 と主張したが、新府城はまだ完成していないのだ。いずれは討死するにしても、あせり脆い戦いようをしては、これまた武門の面目にかかわる。最も手ごわい抵抗をし、武勇のほどをとっくり見せて死ぬことを、当時の武士は面目としたのである。
 真田昌幸は
 「拙者の持城の一つである上州岩櫃城へお開きあるがようござる。土地は天然の要害をなし、城は堅固でござる。お旗本の勢五千や六千を三、五年養うくらいは何でもござらぬ。しばらく岩櫃におわすうちには、必ず甲州ご回復の機会もござろう」
 と発言した。
 勝頼はその気になり、そうする故、その方は早々上州へまかり下り、その支度をせよと命じた。
 昌幸はかねて人質として差出していた妻子をもらって上州へ引き上げた。昌幸という人もその生涯を通観すると、知謀はありあまっても、誠実とはいえない人がらであるが、この時は本気に武田家のためにつくすつもりであったようで、この時家老の矢沢綱頼に出した、「牢人を召抱えて人数に不足がないようにせよ」という手紙が現存している。
 勝頼としては、昌幸の計に従って上州へ行けば、あるいは運命のひらける時が来たかも知れないのだが、間もなく、小山田信茂が、
 「拙者の居城、郡内の岩殿城も要害堅固でござる。これへお出でありたし」
 と言った。
 あとからの判断であるが、小山田は真田がうまいことを言って、要領よく人質をもらって引上げたのを見て、『あ!この事があった!』と気づいたのであろう。数日の後、小山田は最も痛烈むざんな裏切りをしているのである。
 ここで勝頼の寵臣長坂釣閑がまたロを出す。
「真田は一徳斎(幸隆)以来わずかに三代の家臣でござる。あまりご信頼あってはいかがと存ずる。小山田は譜代のご家臣、郡内の城こそしかるべしと存ずる」
 不運の打ちつづいている時はいたし方ないものだ。勝頼の心はふらりと動き、都内に行くことにする。
 勝頼の運のつきはこの以前にもある。この戦さのはじめ、上杉景勝が手勢を送りましょうかと使者を出したのに、「いらん」と返答している。強がりなのである。何事によらずこうした強がりが、彼をこの窮地に追いつめたといってよいであろう。
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■家康への三河武士の君臣の情の厚さ

<本文から>
 家康は一揆の鎮定におそろしく難儀はしたが、過ぎてみると、かえっていい結果になった。三河人にある意味では宗教的な権威をもって仰がれていた旧守護家吉良氏の勢力を根こそぎ掃除してしまったことが一つ、今川家に心を寄せて両端を持していた松平一門のあるものを含む豪族らを一掃したことが二つ、以上の自然の結果として家康を中心とする三河の強固な統一が出来たことが三つだ。
 この内乱を通じて、われわれの心を楽しませてくれる話がいくつかある。
 その一つ。
 蜂屋半之丞は家康麾下の勇士として有名な人物だが、熱心な一向宗門徒なので、一揆に加わった。
 家康が小豆坂で一揆勢と戦った時、永野信元の弟藤十郎思量はその頃兄と不和になって刈屋を立去って浪居していたが、一揆の起こったのを聞き、家康のもとに馳せ参じて、この合戦に出陣した。蜂屋が散々に戦った後引き退くのを見て、
 「逃がさじ、返せ!」
 と槍をひねって追いかけた。半之丞は、
 「脛の白い分際で(青二才の分際での意)、おれと槍しょうとは笑止な」
 とつぶやきつつ取って返した。
 半之丞は場数を踏んだ勇士であり、忠重は若武者だ。忽ち下槍になって、すでに突き伏せられようとした時、家康が馬を駆け寄せ、
 「半之丞め、のがさぬ!」
 と、槍で突いてかかった。すると、今まで鬼神のような勇猛さを見せていた半之丞は槍を引いてすたこら逃げ出した。
 これを見て、松平金助が、
 「きたなし、返せ!」
 と大音をあげて追いかけると、半之丞は、
 「殿のいらせられる故に逃げるのじゃ。汝らになに逃げよう」
 と取ってかえして、一槍に突き殺し、首を取ろうとしていると、また家康が馬を駆けよせた。
 「にくい奴め!」
 半之丞はまたすたこらと逃げ出したというのだ。
 この類の話は他にも数例あって、信仰にこりかたまった者も、家康にたいする忠心は失っていないことを語っている。君臣とも難苦の数十年を送って、相寄り相いたわって来た三河武士の君臣の情がいかに温いものであったかよくわかるのである。
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■家康の不人気について

<本文から>
 家康は日本の英雄中最も評判の悪い人であるが、彼の伝記を少しくわしく調べた人は皆好きになる。しろうと好きはしないが、くろうと好きのする人物と言えよう。奥行が深いのである。
 彼の評判の悪さの原因は、維新運動がアンチ徳川の旗じるしで行なわれたため、明治時代を通じて逆賊徳川将軍の第一世と考えられたことが一つ。江戸時代三百年近い間をずっと神格視されていたことの反動が二つ。講談の難波戦記が大坂種であるため、大坂方を持ち上げるため、不当に家康をおとしめたことが三つ。その難波戦記から派生した立川文庫がアンチ家康熱をあおり立てたことが四つ。
 以上が彼の不人気の原因の主なるものであると思うが、これらはすべて彼には責任のないことだ。しかし、たった一つ、彼に責任のあることがある。豊臣家をたたきつぶすにずいぶん無理強引なことをしていることだ。大仏の鐘銘問題など誰が考えても無理な言いがかりだ。
 彼は決して無理をしない男であった。信長にたいする終始かわらない彼の信義、秀吉在世までの彼の恭敬さを考えてみてもそれはわかる。彼は力をもって秀吉に服属させられたのではない。だから、秀吉に服属しても、彼は天下一の大々名で、そのカは他の大名に懸絶して強大であった。しかもなお彼は恭敬だったのだ。
 天下第一の実力者であるから、秀吉の死後、天下が彼の手に帰するのは最も自然なことであった。関ガ原彼の時、彼が関東から引っかえして来たことがわかると、西軍の大名らは色を失ったと伝えられる。彼の実力のほど想察すべきだ。
 関ガ原役によって天下を取るまでの彼の動きには全然無理がなかった。三成が、また世間が、取らせてくれたといってよいであろうが、七十の衰老になっても大坂に豊臣家がいて隠然たる力を保っているとあっては、子孫のためにあせらざるを得なかったのであろう。それがあの無理となったのだ。しかし、こう考えてくると、これも彼の責任ではないかも知れない。
 信長・秀吉・家康の三人は、日本の英雄中の英雄だ。信長の電撃的天才、秀吉の陽気な大才、ともに魅力満点であるが、時代を同じくして生きねばならないとしたら、二人に接近して生活することは、ぼくはまっぴらごめんをこうむりたい。信長の狂気じみた感情の変化はこわくてならない。秀吉の常習的大言壮語にはやりきれなくなるにちがいない。この卓家康の着実と重厚は最もがまん出来そうな気がする。泰平に帰せんとする天下が彼の手中におちたのは最も自然ななりゆきであったのだ。
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