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          海音寺潮五郎-武将列伝・源平篇

■中年以前の清盛は紳士的で気のやさしい人

<本文から>
 清盛は頼朝も斬るつもりであったが、清盛の継母池ノ尼は、頼朝が尼の子で若死にした家盛によく似ていたので、頼朝をあわれがり、熱心にいのち乞いし、清盛がこれを拒絶すると、
 「あわれ恋しき昔かな。刑部卿(忠盛)の生きておわさば、わたしの願いがこうもすげなくあしらわれることはあるまいに」
 と厭味を言ったり、ヒステリーをおこしたりした。清盛は閉口して、ついに助命し、伊豆に流すことにした。
 またこの時、義朝の妾常磐をその子三人とともに助命しているが、そのいきさつは、源義経伝で詳述したい。
 これらのことは、清盛の性格を考える上にいい材料になる。老年になってからの清盛は、いくらか強情我慢で性急な性質になっているようであるが、中年以前の彼は、紳士的で気のやさしい人であったようだ。十訓抄に、
 「福原の大相国禅門(清盛のこと)はいみじき性質の人であった。人が自分のきげんをとるためにしたことは、おりにあわないにがにがしいことであっても、またおもしろくないことであっても、きげんよく笑ってみせた。人があやまちをし、つまらないことをしても、荒い声で叱りつけるようなこともなかった。寒い季節には小侍共を自分のきものの裾に寝させた。こんな時、早く目ざめると、彼らを十分に寝させるためにそっと起きた。家来とも言えないほどに下々の着でも、他人のいる前では一人前の家来としてあつかってやったので、その者共は面目として、心にじみてありがたがった」
 とある。頼朝を助命し、常磐の子三人を助命したのは、このやさしい心によると考えてよい。
 人はぼくがこんなことを言うと、保元の乱の時の彼はどうであったか、父以来の崇徳院方との因縁をふり切って後白河方に味方し、また頼って来た叔父忠正をむざんにも斬ったではないか、というかも知れない。たしかにこれは矛盾するものではあるが、この打算がないかぎり、人はついに英雄にはなり得な恥的咋ある。英雄の魅力も、英雄のいやらしさも、ここにある。人間はもともと矛盾と撞着とに充ちた性質のもので、われわれが小説で見るような単純な性格の人間は現実の世界にはいないのであるが、器局が大きければ大きいほど、その矛盾と撞着は大きくまた複雑なのである。
 ともあれ、清盛は人好きのする人間であったに相違なく、彼が栄達して行ったのは功績や力量以外に、この人好きのする性質も大いに力があったと思われる。しかしながら、このやさしさが仇となって、ついには彼の一門は尽亡するにいたるのだから、人の世のことは複雑だ。
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■清盛は過渡期の政治家

<本文から> 清盛はこの地方武人らの頭領としてこの時期に政権の座に上ったのである。地方武人の利益をいろいろと保護したに相違ない。そこに彼の勢力の根源があったのだから。木曾義仲伝で、平治の乱後、源氏の家人であった某国の武人らが平氏の家人となったことを述べるが、これは単に時の花をかざして身の安全をはかったという消極的理由だけに解釈してはなるまい。源氏なき後は平氏が唯一の武家の頭領なのだから、これによらなければ彼らの利益が保護されなかったと解釈すべきであろう。現に前に出た大庭景義の弟景親は、頼朝挙兵の時、「源氏累代の恩養はさることながら、この近年平家の恩をこうむっていること一方でない。そむくことは出来ぬ」と、頼朝の正面の敵として立ち上っている。斎藤実盛の立場もこう解釈すべきであろう。
 さて、このように清盛は地方武人らの利益を保護はしたのであるが、新しい政治組織をはじめようとの意図はなかったようだ。意図して新しい政治形態をつくり出したのは頼朝である。清盛は藤原民にならって、公家の頭領となり、王朝の公家政治を踏襲し、現実当面の必要に応じてだけ、地方武人の利益を保護する一方、自分の荘園の管理人に末の一族や家人の礼をとった地方武人を補したり、一族の者を国司に補するにあたっては単なる国司の任務だけでなく、荘園管理の役を兼務させた。つまり古いしきたりに多少のつくろいをしてすませるやり方であった。
 この点、清盛は過渡期の政治家にすぎないが、朝廷との因縁の深くなりすぎている彼としてはやむを得ないことであったろう。後に頼朝が遠く鎌倉にいて朝廷に近づかなかったのは、これを他山の石としての知恵であろうし、卓見であるには相違ないが、世の中はこういう過渡期を経て変って行くもので、この過渡期があったればこそ、頼朝の新政治はあんなにスムーズに行ったと言える。
 平氏一門の官爵のことについてはすでに言ったが、その所領もまたきわめて多かった。盛衰記に、その知行の国三十余国、荘園五首カ所におよび、田園その数を知らずとある。もちろん誇張はあろうが、源氏滅亡後、その所領はすべて平氏一門のものになったろうし、平治の乱で叛乱軍に味方した公卿らの所領もまた平氏のものになったのが多かったろうから、多かったことは事実であろう。
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■清盛は動脈硬化で気短かで激情的に

<本文から>
 こういう相続上のことは、藤氏一門内のことで、姻戚にすぎない清盛のさしくるべきことではないのだ。当時清盛はまだ権大納言にすぎなかったが、天下の武士をつかんでいるので、藤原氏もその威力に屈せざるを得なかったのだ。それだけに清盛のこの干渉を憤ることがはなはだしかったろうことは想像に難くない。平氏は成上りものだ。それがにわかに一門総出世しているのだ。旧閥族である藤原氏が快かろうはずはないのに、こんなことまでしては、益々きらわれるのは当然のことだ。利口な清盛に似合わないことだと思うが、思うにこのへんから清盛の性格が変りかけて来ているのであろう。
 医者の説によると、老人に気短かで、激情的で、逆上性の人が多いのは、動脈硬化に伴う最も自然な生理現象であるという。清盛はそれだったのではないかと思う。この時清盛は四十九である。動脈硬化のはじまる年頃である。
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■頼朝は平穏無事の生涯も望んでいたでは

<本文から> 思うに、頼朝は、平穏無事に生涯を送り、父兄の菩提をとむらい、自らの後生の安楽を願い、そのうち平家の機嫌がなおったら、伝来の庄のうち一つでも安堵してもらって、田舎豪族として気楽な身分になりたいぐらいのことを考えていたのではなかろうか。日毎に読経仏事を事としていたというのだが、それが平家をあざむくためだけの方便であったとは考えられないのである。
 髪を剃らず、在俗のままでいるのだから、もちろん、機会がむいてくれば起ち上る気持はあったろうが、そんな機会の到来は千に一つもあるまいと思っていたように、ぼくには考えられる。
 それはさておき、人の世の風のつらい流人にも春風は吹く。何年か立つうち、頼朝も春を知るようになったが、流人の身には似合いの恋人も持てない。一体頼朝は、その後年の行状から察すると、相当以上の好色精神の持主だ。世間には若い時行状堅固で、中年過ぎてからがちりと色好みになる人もおり、その反対の人もおりして、一概には言えないことだが、頼朝が定まった恋人を持ったのは、二一十台の半ばくらいになってからのようだから、ずいぶんつらかったことであろう。
 豊後の大友家の伝承では豊後大友家の始祖能直の母は上州利根郡沼田の大友経家の女で、蛭十島で頼朝のわび住いに奉公中に頼朝の辛がついて妊娠して能直を生んだと言い、薩摩の島津家の伝承では頼朝の乳母比企ノ尼の女がやはりこの諦居中に頼朝の子をみごもったのが、島津家第一世の忠久であると言っている。これらの伝承はそのままでは年齢の点や、時代の点などで信じざるわけに行かないのであるが、この期間の頼朝の孤会を温めるために、古い家人の女らが来ていたことは考えられることである。そのほか、蛭ケ島付近の土民の娘らがご用をうけたまわったこともあるであろう。あるいは黄瀬川あたりまで行って、遊君で埼をあけたこともあろうが、これは資本がかかるから、この頃の頼朝の身分ではそうしげしげとは行けなかったろう。
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■頼朝の長所も短所も無類の用心深さにもとがある

<本文から> 思うてここに至れば、頼朝の長所も短所も、従って成功も失敗も、すべてこの無類の用心深さにもとがある。
 彼の長所は深沈重厚にして思慮周密にあったといわれている。彼が関東に腰をすえたまま、平家追討や木曾追討のために来るようにと、いくど後白河法皇から催促されても決して腰を上げず、いよいよ機会が熟し切ったと見ても弟二人を代官として上京させ、自らは関東にとどまって足もとがために専念しつづけ、ついに最も確実堅固に天下を取り得たのも、天下を取って以後もその政府を関東において、決して京都に近づこうとしなかったのも、この深沈重厚、思慮周密によるとされているが、さらにそのもとを尋ねれば、すべてこれその用心深い性質から来ている。
 彼の欠点は猥疑心の深いところにあったといわれている。この清疑心によって弟らを殺し、一族を殺し、重臣らを殺し、それはついに自家の羽翼を全部除き去ったことになり、頼朝が死ぬと将軍の権力は北条氏にうばわれ、二代頼家も、三代実朝も、ロボット将軍たるに過ぎず、三代にしてついに亡んだと言われているが、これもその極度の用心深さのためであることは説明するまでもない。
 この点に彼が神経質になったについては、一応の説明を要する。吾妻鏡といい、源平盛衰記といい、平治物語といい、前にも述べた通り、頼朝の家が嫡流であり、頼朝はその嫡宗たることをはじめから父によって認定されていたという書きぶりをしているが、実を言えば頼朝の家を嫡流とするのは確定的なことではないのである。当時の大部分の人にはそう考えられていたかも知れないが、清和源氏の血を受けている他の人々にはこれは納得されていないことであったという証拠がある。
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■義仲の烏合の軍勢による悲劇

<本文から> 入京当時の狼寿は、こんな際にはありがちなことと、市民らも、
「一応満足すればやむであろう」
 と、あきらめていたが、いつまで立ってもやまない。
 というのは、義仲に従って来た軍勢は六万余もあったのだが、糧株の用意がなかったのだ。兵らは徴発による以外に自分の食うものもなければ、馬に食ませるものもない。徴発とは体のよいことばだ。事実は掠奪であり、強奪である。付随して殺傷もおこれば、強姦もおこる。彼等が暴行のことは、玉葉にも、盛衰記にも、平家物語にも、数々出ている。
 ここにも義仲の悲劇がある。たとえ糧群が十分にあっても、義仲は軍紀を厳正にすることは出来なかったのだとぼくは思う。彼につき従っている兵は、いわばかき集めの烏合の衆だ。義仲にたいする忠誠心などあるはずがない。一度掠奪暴行の面白さを知った兵共に、もし厳正な軍紀をもって臨んだら、忽ち四散してしまったろうと思うのだ。彼が新天皇問題で、「わたくしは納得しても、武士らが承服し訂すまい」と法皇に言ったのは、もちろん威喝のためもあるが、彼と兵らとの関係を端的に語っているとも見られよう。
 こんな風であったので、市民らが義仲をにくみ、
「平家の方がまだよかったわ。平家はいばってはいたが、過剰強奪はせなんだわ」
 と、ささやき合い、早く頼朝が入って来てこれを追い出してくれかしと思うようになったのも当然のことであった。とりわけ、義仲の軍勢が地方から上ってくる宮家や公卿らの年貢を徴発したのが悪かった。これらの貴族の頭領である法皇のごきげんがよかろうはずがない。度々使いを鎌倉につかわして、上洛をうながされた。しかし、頼朝はいつも
「関東いまだ平定いたしませねば、今しばらく御猶予」
と答えて動かなかったことが、玉葉と盛衰記に見える。
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■頼朝に勝つために、京都に攻め急いだが、それは亡滅への道だった

<本文から> 治承四年秋に挙兵してからここに至るまで三年数カ月、義仲の敵は常に頼朝であった。城資茂との戦いにも、倶利加羅の夜襲戦にも、篠原の血戦にも、常に義仲は当面の敵のうちに頼朝を見ていた。頼朝に追いつき、頼朝を追いこすための戦さであった。
 頼朝に勝つことをあせるが故に、彼は平家を打倒し、旗を京都に立てることを急いだのであるが、何ぞはからん、それは亡滅への道をひたすらに急いでいることだった。急いだが故に頼朝と平家との間に挟撃の姿となり、すくみ死にに死んだのである。
 それでは彼はどうすべきであったろう。倶利加羅・篠原の戦いの後、頼朝のように足許がために専念すべきであったろうか。しかし、勝機は瞬刻にして去る。あの時急追したればこそ、平家はああももろく京を落ちたが、余裕をあたえたら、また勢いを回復したろう。とすれば、天下のことはどうなったかわからないのである。
 京を落ち行く平家をどこまでも追いかけて破滅すべきであったろうか。追いかけることが出来たなら、それが一番よかったろう。しかし、物資豊富、美女充満の京に入った彼の兵が、それを承知したろうか。彼の兵は彼にたいする忠誠の念などさらにない烏合の兵がほとんど全部だったのだ。
 節を屈して頼朝の下につくべきであったろうか。それの出来ないことはすでに述べた。彼はあの道を行くよりほかのない、かなしい運命の人であった、と、ぼくは断定したい。
 盛衰記や平家物語には、義仲の田舎ものぶりを悪意にみちて、嘲弄的に書いている。彼は木曾の山育ちであるが故に、挙措が無骨であったことは事実であろうが、ぼくにはそれがそれほど笑うべきことであろうとは思われない。都会人、しかも宮廷人、あるいは宮廷人的な連中は、いつどこの国でも、愚にもつかない行儀作法や風雅ぶりを人間第一の資格にするのであるが、義仲はこの規格に合わなかった。そしてまた、彼や彼の軍勢は京都人にきらわれた。彼の風貌が最も誇張した形で戯画化されたのはこのためである。もっとも、彼が美男子であったことは、両書ともに認めている。平家物語には「色白く、みめはよい男にてありける」とあり、盛衰記には「顔形は漕げにて美男なり」とある。
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■弁慶は出羽羽黒の修験者上りではないかという新説

<本文から>
 そこで、ぼくの友人中沢重夫君は、弁慶は出羽羽黒の修験者上りではないかという新説を立てたが、これはまことにおもしろい。弁慶が羽黒の山伏であったとすれば、義経が奥州にいる間に随身したことになって、すべて無理がない。後に義経が頼朝の怒りを受けてから、こセ山伏となって北陸道を経て平泉へ落ちたことは東鑑(文治三年二月十日の条)にもあって事実だと思われるが、それにも都合がよかったはずだ。当時山伏が国名をもって坊名とするのはごく普通なことで、山伏でも武蔵坊と名のって少しも不思議はないのである。
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■義経が功を争ったのは武勇と実力を坂東の武士らに見せつける必要があったから

<本文から> 生母常磐は卑賎の出であり、ひきいて来た郎党は二十騎しかなかったのだ。義経としてもそれを考えたればこそ、一刻も早くとはやる心をおさえて、秀衡に兵を貸してくれるように頼んだのであろうが、とにかくも、二十騎しか連れて来られなかったのだ。坂東武士らの義経を見る目には、常に軽侮の色があったのではなかろうか。宇治川の戦いの時、諸軍喧騒して、義経の命令が聞こえず、平等院の太鼓を鳴らしてやっと静めたというのも、そのあらわれであったかも知れない。
 この推理があたっているとすれば、義経が常に士卒と功を争い、先登に立ったというのも、みずからの武勇と実力を坂東の武士らに見せつける必要があったからだと考えられはしないだろうか。彼が天性鋭気にみちた性格であるなら、なおさらのことであろう。
 福原合戦の快勝は、主として義経の軍略と武勇によって得られたものであるのに、頼朝は義経にたいしてよい感情を持たなくなっているようだ。
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■頼朝の義経への不満−3つの理由

<本文から>
 東鑑の六月二十一日の条に、頼朝はかねて範頼と一族の二将との任官を奏話していたが、これが聴許になったので、三人を呼んで盃をあたえて、このことを告げたところ、三人とも大喜びであった。中にも範頼(三河守に任官)は、義経に先立って任官したことをとくに喜び、これを頼朝の厚恩とした。頼朝は義経がしきりに任官を望んでいたのに、わざと許さなかったのだ、という記事が見える。
 この記事はまことに示唆に富んでいる。頼朝が義経にたいして不満を持ちはじめており、また範頼も義経に好感を抱いていないことがわかるのだ。しかし、問題はなぜこんなことになったかだ。
 第一に考えられるのは、昔からの通説になっている梶原景時のざん言だ。梶原が義経に好意を持たなかったことは、この後いろいろなことが束鑑にも記載されているから、この当時もすでにそうであったと見てよかろう。現に源平盛衰記には、こう出ている。源氏勢が東国を出発する時の相談では、範頼には土肥実平が侍大将となってつきそい、義経には梶原景時が侍大将としてつきそうことになっていたのだが、いつか義経と梶原の間、範頼と実平の間に、ともに溝ができ、熱田で軍勢をわけた時、梶原は義経をはなれて範頼につき、実平は範頼をはなれて義経につき、義仲との合戦の時も、福原合戦の時も、その編成であったと。
 この頃まではこのこと以外には、義経と景時の不和を物語るものは何の書にも出ていない。また景時は京に留まって東帰していない。しかし、彼の使者が度々頼朝の許に来ていることは東鑑に出ているから、書面でいろいろ言ってやったことは考えられる。
 第二は、義経が功にほこって兄範頼をしのいだり、坂東武士らにたいして倣憤な態度があったのではないかという疑いだ。ぼくはあったと思う。義経は、おのれの武勇、おのれの智略を、坂東武士どもに見せつけなければならない立場にあり、また見せつけて来たのだ。赫々たる武勲をつづけさまに二度も立てたとあっては、どんな態度に出たか、大体想像がつこう。ましてや、この時の義経は数え年でわずかに二十六だ。騎憎になったとしても無理はない。世に天才にして謙虚な者は少ない。多くは自信と自負にみちているが故に、また、鋭さあまりがある故に、倣慢である。義経に不快をふくんで、色々と頼朝に報告したのは、梶原だけではなかったろうと、ぼくは思うのだ。
 第三は、頼朝の猫疑心だ。狩疑心とは、「病的に過度に用心深い心」だが、頼朝にはそれがあった。思うにこれは彼が少年の時代に頼み切った譜代の郎党のために父を殺されるという異常な経験をしたところから生まれた性質であろうが、実に用心深い。将来大きくなりすぎて、自分の禍の種になりそうな人物は、同族であろうと、臣下であろうと、容赦なく除くことにつとめている。この時までに疲は義仲をほろぼし、行家を遂い(後に殺す)、志田義広を遂い(後に殺す)、佐竹義政を殺している。皆血のつづいている同族なのである。彼はこの年の前年の冬平広常を殺しており、この頃はまた一条忠頼を殺した。平広常は頼朝が安房で再起してわずかに六、七百騎ばかりの兵をかき集めた時、二万余騎の大軍をひきいて参加し、そのために急速度に頼朝の勢いがふるったのだから、いわば創業の功臣なのだが、広常があまりにも大族であるので、謀叛の名をなすりつけて殺したのだ。
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■義経が頼朝ににくまれた原因は天才であったから

<本文から>
  義経が頼朝ににくまれた原因については、ほぼ語りつくしたと思うが、なお言いそえておきたいのは、最も根本的な原因は、義経が天才であったところにあるということだ。車事的天才であったが故に、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず陥れ、しかも常に寡をもって衆に勝った。狂的なくらい警戒心の強かった頼朝をおそれさせるに十分であった。天才であったが故に、自信と自負にあふれ、独断専行し、騎慢でもあり、梶原景時によって代表される坂東の諸蒙らにきらわれた。天才であったが故に、自己を拘束するものを認めず、意の趣くままに平時忠の女をめとった。古来伝えられる建礼門院との情事も、源平盛衰記の作者は信じていたようである。「女院六道廻り物語の事」の章をその目で読めば明らかである。
 古来、学者の多くは、義経の悲劇はその無思慮に由来する自業自得である。彼は慎重で、謙虚で、秋毫も頼朝の意にもとらぬようにすべきであったと説く。笑うべきである。生きた人間をシンコ細工と同様にたやすくこねなおしのきくもののように考えている。自信と自負をもちながら、驕慢でなく、独断専行せず、自己を拘束するなどという境地は、修養に修養を重ねて、五十歳以上になって得られれば幸い、しかも多くの場合、すでにもう天才ではなくなっているのだ。義経がもしあの若さで処世術など心掛けて、常に兢々たる態度などでいたら、とうていあのような天才の発揮は出来なかったろう。あのようであったればこそ、あのはなやかな功業をなしとげたのだ。義経自身の気持はどうであろうとも、彼は最善の生き方をしたと、ぼくは思うのである。彼が政治上の才幹を持たなかったことは言うまでもない。
 義経は日本歴史の中で最も民衆の評判のよい人だ。そのために、彼の末路に同情するあまり、古来いくども義経の不死伝説が出た。曰く、義経衣川に死せずして、蝦夷地(北海道)へのがれた、曰く、蝦夷地から大陸に入って清朝の遠祖となった、曰く、ジンギス汗は義経である。ぼくはこれらの説を信じない。これについてはすでに書いたものがあって、随筆集「得意の人・失意の人」におさめてある。
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■楠正成は最も清白な心術の人

<本文から>
  こうして伝記を書いてみると、正成ほど書きにくい人物はない。最も有名な人でありながら、信用の出来る史料がまことに乏しいのである。史実的にはあてにならない書物と知ってはいても、太平記に最も多く依らざるを得ないのである。だから、人物論をするについても、まことに頼りない。信ずべからざる資料をもととして、こうもあろうか、ああもあろうかと、見当やカンをつけてやらなければならないのである。
 先ず、ぼくは正成は最も清白な心術の人であったと思っている。勤王の諸将といっても、その多くは幕府にたいして怨恨を含むべき因縁があった。足利・新田の二氏が源氏の一族でありながら、臣下たる北条氏に幕府の権をうばわれて、その際便のままに動かなければならなかったのをうらみとしたことは言うまでもなく、その他の人々にしても、承久の乱に朝廷方に味方したために所領を削られたり、その後所領関係で怨みを含まなければならなかった者が多いのである。しかし、正成の家にはそうした因縁はさらにない。むしろ、成上りものながら、前に述べたように幕府のためにしばしば武功を立てて、荘園をもらったりして、幕府の受けはよい方だったのである。
 しかもなお、後醍醐の命に応じて立ち上り、その後は生涯を勤王一途でとおし、子孫に至るまでその節をかえていない。尊氏は彼の人物才幹を最も高く買っているのだから、もし彼が尊氏に心を運んでこれに味方したら、報いられることは一通りではなかったはずだ。
 彼のこの心術の清白さは、どこから来ているのであろう。この時代の豪族らが我欲旺盛で、無智で、暴悪なことは、後世の戦国時代よりまだひどい。足利尊氏・直義の兄弟が、たがいに他をおとしいれるために、交互に南朝に降ったことは、足利尊氏伝にゆずるが、ひどい話は他にもずいぶんある。足利幕府の執事であった高師直が好色無比で、公卿の姫君らを片っぱしから犯したことは太平記にもあるが、塵塚物語によると、彼は家臣の妻でみめよい女は、これまた片っぱしから犯したとある。三木義長は三河・伊賀・伊勢等四国の守護であったが、神路山で狩猟し、五十鈴川で漁りするという暴悪を働いている。土岐頼遠は外出の途中光厳上皇のご幸に出あい、下馬せよといわれて、
 「この頃京都でおれほどの者に下馬させる者はないはず、馬鹿ものめ、何を申す」
と罵った。前駆や随身の者共が走り寄って、
 「院のご幸ぞ。田舎者めが!」
と叱ったところ、頼遠は、
 「院じゃと?犬のことか。犬ならば射てくれよう」
と、弓に矢つがえし、お車を中にとりこめ、馬を馳せよせ馳せよせ、矢を射かけたというのだ。
 こんな人の充満している時代に、正成の清白さはまことにめずらしい。
 どんなに世が混濁しても、生まれつき正直な人間がないとはいえまいが、誘惑の充満している時代に清白さを保ちつづけるのは、生来の性質だけではむずかしかろう。必ずや、学問による修養と信念があってはじめて可能なことと、ぼくには考えられる。
 正成の学問や修養について書いたものは全然ないが、ぼくは彼の学問は当時一部の知識階級に行なわれていた宋学(朱子学)であったのではないかと思っている。朱子学については、足利尊氏伝で述べることとして、ここでは詳論はしない。しかしこのことだけは言っておきたい。人間の営みで全書のものはない故に、朱子学にも流弊はある。観念哲学である朱子学の大義名分論が、後醍醐一派の人々を誤った点のあることは争うことは出来ないが、もしぼくの想像通り正成が朱子学の信奉者であったとすれば、彼においてはそれは最もよい意味で受用されている。
 思うに、正成は、濁り切った世を規正するには、朱子学の大義名分論で行くよりほかはないと考え、その行者たらんとしたのではなかろうか。
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