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<本文から> 清盛は頼朝も斬るつもりであったが、清盛の継母池ノ尼は、頼朝が尼の子で若死にした家盛によく似ていたので、頼朝をあわれがり、熱心にいのち乞いし、清盛がこれを拒絶すると、
「あわれ恋しき昔かな。刑部卿(忠盛)の生きておわさば、わたしの願いがこうもすげなくあしらわれることはあるまいに」
と厭味を言ったり、ヒステリーをおこしたりした。清盛は閉口して、ついに助命し、伊豆に流すことにした。
またこの時、義朝の妾常磐をその子三人とともに助命しているが、そのいきさつは、源義経伝で詳述したい。
これらのことは、清盛の性格を考える上にいい材料になる。老年になってからの清盛は、いくらか強情我慢で性急な性質になっているようであるが、中年以前の彼は、紳士的で気のやさしい人であったようだ。十訓抄に、
「福原の大相国禅門(清盛のこと)はいみじき性質の人であった。人が自分のきげんをとるためにしたことは、おりにあわないにがにがしいことであっても、またおもしろくないことであっても、きげんよく笑ってみせた。人があやまちをし、つまらないことをしても、荒い声で叱りつけるようなこともなかった。寒い季節には小侍共を自分のきものの裾に寝させた。こんな時、早く目ざめると、彼らを十分に寝させるためにそっと起きた。家来とも言えないほどに下々の着でも、他人のいる前では一人前の家来としてあつかってやったので、その者共は面目として、心にじみてありがたがった」
とある。頼朝を助命し、常磐の子三人を助命したのは、このやさしい心によると考えてよい。
人はぼくがこんなことを言うと、保元の乱の時の彼はどうであったか、父以来の崇徳院方との因縁をふり切って後白河方に味方し、また頼って来た叔父忠正をむざんにも斬ったではないか、というかも知れない。たしかにこれは矛盾するものではあるが、この打算がないかぎり、人はついに英雄にはなり得な恥的咋ある。英雄の魅力も、英雄のいやらしさも、ここにある。人間はもともと矛盾と撞着とに充ちた性質のもので、われわれが小説で見るような単純な性格の人間は現実の世界にはいないのであるが、器局が大きければ大きいほど、その矛盾と撞着は大きくまた複雑なのである。
ともあれ、清盛は人好きのする人間であったに相違なく、彼が栄達して行ったのは功績や力量以外に、この人好きのする性質も大いに力があったと思われる。しかしながら、このやさしさが仇となって、ついには彼の一門は尽亡するにいたるのだから、人の世のことは複雑だ。 |
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